<テーマ>

「ネルチンスク条約以前のロシアの東進」


<本テーマについて>

 現在でも極寒の地であり、道路などのインフラストラクチャーの整備がそれほど進んでいないと思われるシベリアを、ロシアは半世紀ほどで横断してしまったようだが、それが容易なことであったかのような印象も受けてしまった。しかし、実際にはどうであったのか。そこで、おそらくロシアの東進に最も抵抗したと思われる、シビル=ハン国との戦いを調べ、かつネルチンスク条約直前までのロシアのカザーク軍団東進というテーマを取り上げたのである。

 

<ロシアにとってのウラル以東の価値>

 まず、ロシアが西欧貿易で利潤を上げるための特産品というのは、特にテンに代表される毛皮であったようだ。ウラル山脈北部のペチョラ川流域からオビ川下流域は「ユグラ」という名称で呼ばれたらしいが、この地では相当な量の毛皮が手に入ったようである。ロシアのイヴァン三世は、おそらく毛皮の獲得のためであろうが、1456年から1500年にかけて三度のユグラ遠征を行っている。

 しかし、16世紀中ごろウラル以西の毛皮が底を尽きかけていたため、毛皮が豊富であるといわれていたウラル以東の地は、ロシアにとっては魅力的な土地に映ったに違いない。

 その折、シベリアの半遊牧国家で王位継承争いをしていたエディケルというハンが、競争者と対抗するためにイヴァン四世の臣下となることで庇護を得ようとしたようである。この際に、彼は毛皮貢納の義務を負ったらしい。毛皮が不足していたロシアにとっては、まさに願ったりかなったりであったのだろう。

 しかし、この貢納関係は長くは続かなかったようだ。エディケルはクチュム=ハンに滅ぼされ、クチュムの建国したシビル=ハン国は、1572年に貢納を拒否したからである。

 ここに、毛皮を得るために、ロシアがシベリアへの進出を行うきっかけができたのである。

 

<ストロガノフ家による進出>

 最初にシベリアに進出したのは、ロシア皇帝の軍隊ではない。最初に進出したのは、ストロガノフ家という特権商人であり、そこで雇われたコサック軍団である。(※コサックは以後カザークと表記することにする)

 ストロガノフ家とは、世襲領土を持ち、そこで集めた税を中央へ納めた、封建領主的な特権商人であったようだ。やがて、その領土の防衛のために、武器や兵を雇うことを皇帝に認めさせている。

 1581年には、シビル=ハン国側への防衛目的でカザークを雇うことを新たに認めさせ、さらにその前にはイェルマークのシビル=ハン国への攻撃提案を受け入れている。

 つまり、最初の進出はストロガノフ家に雇われた、カザーク集団であり、その集団はストロガノフ家の私的利益のための集団だったようだ。

 

<イェルマークによるシビル=ハン国攻撃>

 イェルマークは157810月にカザーク軍を率いて東進した。この兵力規模に関してはどうやら諸説があるようで、詳細は不明であるが、ロシア人・リトアニア人・ドイツ人・タタール人などで構成され、単一民族で構成された軍ではなかったようである。

 イェルマーク軍は、後にシベリアを征服していく課程でロシアが使った連水陸路を使用した。船で河川を移動し、陸に船を上げ次の川に移動する。河川を道路のように使用する方法である。

 そして15819月にはシビル=ハン国の首都を攻略する。この際、激しい抵抗を排除したのは、後にヨーロッパが植民地を拡大する際に軍事力の差として見せつけた火砲であった。

 ストロガノフ家は、シベリアの遠征が順調に進むのを見て、皇帝にこの新領土の併合を請願した。そして、ロシア政府は兵力の増派を決定したのである。

 しかし、シビル=ハン国は首都を占領はされたが、勢いを盛り返し、イェルマークは15848月にイルティッシュ河畔で戦死した。(※文献によっては彼の戦死は1585年となっていて、どちらが正確なのかが判断できない。85年としていたのは加藤九祚著のシベリアの歴史)

 

<シビル=ハン国滅亡>

 イェルマークの戦死で、首都を奪還され、一時は撤退したロシアだが、1586年にチュルコフが進出することで再びシビル=ハン国を圧迫し始めた。彼らは進出する先々に町を建設し進出の拠点としていった。1586年にチュメニ市を、1587年にはトボリスク市を建設して行政の中心とし、この後はオビ河に沿って開拓を始め、クチュムの軍団を追い立て、1598年にはシビル=ハン国は滅亡した。

 こうしてロシアはシベリアへの進出を果たし、その後、組織的な国家の抵抗を受けずに1636年にはオホーツク海に達し、そして南下して清帝国と接触することになる。

 そして、ロシアがシベリアを手中に収めたことにより、彼らが求めていた毛皮が確保できたのであるが、この毛皮の貢納(※ヤサーク)によって西欧貿易で経済的に潤うばかりでなく、あらたに東洋との貿易という新市場も開拓したのである。

 

<ロシアの黒竜江流域への進出>

ロシアのカザーク軍団の首領ハバロフが黒竜江方面へ進出してくるのは、1649年になってからのことである。しかし、現地のブリヤート・モンゴルの戦闘能力は非常に優れていたらしく、ハバロフのカザーク軍団は苦戦を強いられ、バイカル湖東岸の制圧はようやく1650年代に入ってからのことである。

ハバロフは1650年に兵力を増強し、モンゴル軍、満州軍と交戦し、どうにか黒龍江流域の制圧に成功する。こうして、ロシアは清帝国と国境において接触を開始したのである。

 

<清帝国の反撃>

清帝国も、このような北方でのロシアの進出に黙っているわけが無く、1652年に入ると、順治帝は兵を黒竜江流域へ派遣し、結果、この時カザーク軍団を指揮していたステパノフは戦死し、ロシアは清帝国がこれまで制圧してきたシベリアの勢力とは比べられない勢力であると認識したのである。

 

<ロシアの黒竜江再進出>

ロシアは、これまでカザーク軍団に任せていた進出から一転、軍隊を派遣して、前進基地としてネルチンスクとアルバジンの建設に取り掛かった。そのため、当時の清帝国皇帝であった康煕帝はこの事態を重く見て、遠征隊を派遣し1685年にアルバジンを破壊したのである。

 この事態を重く見たロシアは、清帝国との国境問題を解決する方向に方針を転換し、清帝国もまた、ロシアとの交渉には国境問題が討議されるならば応じる姿勢を示したのである。

 この結果、ネルチンスク条約へと至るのである。

 

<以上より総括>

 ここまでに私は、ウラル以東の進出と、17世紀中葉のロシアと清帝国の接触を書いてきた。

 そこから判断すると、国家の行動は経済的に左右されることが非常に強いのだと思ったが、また同時に、この当時のロシアが、相手が強いと見れば、それが彼らから見た東洋の国家とでも通商関係を結び、友好を保とうとするのだと驚いた。

 これは、後にヨーロッパがアジアを軽蔑したのとは大きな違いではないだろうか。私はここから、ロシアという国家は、他の西洋列強に比べ、東洋蔑視の概念などが強くはないのではないかと考えた。

 この考えに至ったことで、このレポートを閉じる。

 

 

参考文献

・ユーラシア文化選書<3>ロシアとアジア草原 吉川弘文館 1966年 佐口透(著)

・シベリアの歴史 紀伊国屋書店 1994年 加藤九祚(著)

・コサックの旅路 朝日新聞社 1994年 酒井裕(著)


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