4/13(日)
疑問を呈することは恥なのか?
どうも、光一です。今日は、イラク問題や国際情勢ではなく、もっと身近な事に焦点を当てます。
みなさんは、「疑問」に思ったことは当然あると思います。ただ、それを恥ずかしいから言わないか、知ったかぶりをするかなどはそれぞれでしょうが。
さて、最近「ゆとりある教育」とか、色々教育現場でも言われていますが、子供たちの実態はどうなのでしょうか?
我々大人の中にもこういう人はいませんか?
「何? そんなことも知らないの?」
言われた経験のある方や、自分自身それほど重要なキーワードと思わずに使っている方がいるのではないでしょうか?
私が子供と関わっていると、実は学ぶところが大いにあります。子供は自分の知識欲に忠実です。大人が常識と思っていることは常識ではありません。また、子供に知ったかぶりでの対応はできません。すぐに「それはどうして?」と突っ込んできます。大人がいかに自分を「知っているつもり」とか「常識」とかのくだらないことで武装しているかが、実感できるのです。
また、「常識」と思い込んでいるものでも、その知識がいかに浅薄なものかが実感できます。子供が4・5回もその話題に質問をしてくると、大人は返答につまるのがほとんどです。そうしたときの大人の決まり文句があります。
「それは、○○くんにはまだ難しいかな」
「もっと大きくなればわかるよ」どうでしょう? 子供を抱える方や、身近に小さな子供のいる方、経験がおありではないでしょうか?
なぜ、素直にこう言えないのでしょうか?
「ごめんね。それは私にもわからないなあ。一緒に調べようか?」
ただ、「わからない」「調べよう」の一言で済むのです。どこにも恥ずかしい要素はありません。むしろ、散々知ったかぶりをしていて、肝心要のところで逃げ出す大人のほうが恥ずかしい。
子供の知識欲を中途で押さえ込むのは、余計なフラストレーションを溜め込ませるだけではなく、それが繰り返されることで、「疑問を出すのは恥ずかしいことだ。だまって、事なかれ主義が一番」となる一要素にも繋がりかねません。
たとえば、みなさんは「空がなぜ青いのか」を知っていますか?
なぜ青いかというと、太陽光線は紫、青、緑、黄色、橙、赤などいろんな色の光に分けることができます。これらの色はそれぞれ性質が異なり、赤に近い光は地上にまっすぐ届きますが、紫や青に近い光は大気圏に入ると空気の分子に衝突し飛び散ります。これを散乱といいますが、その青が目に映るので、空は青く見えるのです。
これが常識か否かは知りませんが、これは知らなくても恥ではありません。むしろ、知らないことは「自分の勲章」と思います。
言い直すと、「疑問を呈すること」は「勲章を手にした」のと同義です。つまり、知らなければ調べればいいのです。それはいかに周囲がくだらないと思っていることでもいいのです。一つ解答が見つかれば、そこにはさらに疑問点があるものです。それを調べる。
これは、どこにも恥の要素などありません。むしろ、こういった知識欲求を提出する人間を、よってたかって「そんなのも知らないの」などと言うことは、よっぽど恥ずべき行為なわけです。
あのファーブル昆虫記のファーブルも、小さいころは、周囲の人々に馬鹿にされ続けました。
例えば、我々健常者は目をつぶれば物が見えないし、開ければ見えるわけです。ファーブル少年は、そのことに気づき、自分は「疑問」の「答え」を「発見」をしたんだと喜び、それを周囲の人たちに伝えました。
その反応は、あたかもすべて知っているよといった、冷たい視線とあざけりの言葉でした。大人や少々知識のある人が決まって言うセリフです。
「目をつぶれば物が見えないし、開ければ見えるのはあたりまえじゃないか」
その言葉に、ファーブル少年はどれほど傷ついたのでしょう。
子供の「疑問」と大人の「疑問」は、まったく違う性質のものだという人は、「発見のできない」人です。
子供と大人の「疑問」はまったく同じものです。その絶対的知識量に差があることを抜かしては。
世界の大発明家や研究者と言われる人たちは、その研究が生前に認められなかった人も多いのです。それは、彼らの唱えた理論=疑問としたことへの解答に、誰もが上記の姿勢で臨んだためです。
つまり、
「彼の理論はばかげている」
「そんな疑問は唱えるだけ無駄だ」
「どうしたらそんな常識はずれの疑問がでるのか?」といったあざけりを受けたためです。
研究は「疑問」を持つことから始まります。それは、大人になり、思考が頑迷なものになってからでは鍛えられるものではありません。子供の純粋な「好奇心」=疑問を呈することの延長軸なのです。
どうでしょう、まとまりに欠ける文ではありましたが、それでもなお、「疑問を呈することは恥だ」と思うでしょうか? 子供に知ったかぶりで通すのでしょうか?