第五章 まとめに代えて ―――― 内部構造の考察

 ここまでプロイセン国家が「統一」を果たし、その後どう国内の調整を図ったかを述べてきたが、ここでは、それをもう一度振り返り、考察する必要のある点を挙げていく。

@ドイツという観念

 これは、第一章第一節で述べたように、またそれ以降も強調したように、非常に曖昧である。ニーチェの言葉の引用はそれを同時代人としてより印象付けていると思う。この観念を考えるとき、「民族」「国民」「国家」とは何か? という疑問に突き当たらざるを得ない。私は以前より、「国家」はそこに住む集団が生きていく上での、互いを効率よく補完するための道具であると考えているので、それを利用する方法を知っている少数の人間が、多数の人間を操り支配していると認識している。これは、このドイツの例を見れば顕著であったと思う。

 ここで他に考察の必要があるのは、「大ドイツ」「小ドイツ」がどうしてプロイセン主導であったのか。また、そうある必要性ができたのか? である。このことに関しての見解は述べたが、未だ有効な見解は見出せていない。

A数字のトリック

第二章第一節で、私はドイツの生産力の増大を挙げたが、数字にはその数字を見て理解した気になるという危険性と、かつ、そこにどのような階級差が生じてくるかを見逃すという数字のマジックがある。つまり、急速な経済成長は「誰のための経済成長」であったかを考察しなくてはいけない。アンゼルム・ファウストの「ドイツ社会史」内では、多くの統計が出ているが、しかし、労働者の水準はほとんど上がっていないのが実情であるとも述べているので、構造を読み解く上で、ここへの一層のアプローチが必要だろう。

B各領邦国家の構造は?

第三章全般では、ドイツのカトリック州とフランスのことに少し触れたが、しかし、ほとんどの議論は「産業資本家と土地貴族」の対立と、「ビスマルクの権力確立」に終始した。よって、構造全体を考えるならば、ドイツ地域の分立(統一後も)を規定していた、各領邦国家についての考察(制度・宗教・法律の有無など)も進める必要があるだろう。

C「帝国の敵」は現代まで続く問題

第四章においては、常に「帝国の敵」を創出し、それで国民を結集したことをしつこいくらいに述べた。実はあれでも言い足りないほどであり、このことは「第二帝政」のドイツのみならず、「ヴァイマール・ナチス・東西ドイツ・現在」の全てに続いていると思われる。それは、「ヴァイマール時代」ですら「匕首論争」などで国内の目を少数派の弾圧に向け、ナチス時代には抑圧・絶滅に人々が動員できたそのメンタリティの理解のうえで、やはり第二帝政の政策が尾を引きずると考えられるからだ。「ゴールドハーゲン論争」で一般のドイツ人がユダヤ人を虐殺したというのは、そのナチスが「特別なドイツ」と理解するから疑問がわくのだろう。つまり、人々のメンタル面にそれ以前から働きかけるものがなければ、虐殺に人々が動員できるだろうか。だからこそ、この議論は重要であり、もっと深く読み込む必要性がある。

あとは、被支配者階級へのアプローチが不足しており、この人達の行動が社会をどう方向付けようとするのかにも考察の必要を感じた

書き方にはこだわりがあった。統一・ドイツとくる言葉には「」付けを施した。それは、何度も述べたように、この観念の曖昧さを強調するためにつけたものである。

 なお、補足しておくと、弾圧にもめげずに社会主義労働者政党が躍進したと述べたが、つまるところ、特権階級の利益を維持しつつ、少数派への弾圧と海外に大衆の目を向ける政策、これは失敗したというのが私の見解である。ストライキの数も、1870年には500件に届かないが、1905年には3000件に達している(ちなみに、第二帝政では、団結権は認められたが、ストライキは禁止されていた)。要するに、特権階級の権力維持には成功し、国内の不満の閉じ込めにも成功はしていたが、時間がたてばたつほど、この国家の選択肢はせばまり、構造矛盾は解決不可能になっていた。それは国家構造を根本から改革するか、または破壊するかしか方法がなく、よって、この国家の構造は「破滅的でいつか崩壊する」というのが私の現段階での結論である。

以上、非常に考察が長くなってしまったが、この複雑な構成を考察すると、いくらでも材料はあり、実はこれでも全然足りず、なんとか線引きして切ったというのが実情である。

 

 

<参考文献>

▼ハンス・ウルリヒ・ヴェーラー著/大野英二・肥前榮一訳「ドイツ帝国1871−1918年」未來社 1983年(2000年復刊)

▼成瀬治・黒川康・伊東孝之「ドイツ現代史」(世界現代史20)山川出版 1987年

▼成瀬治・山田欣吾・木村靖二「ドイツ史2 ―1648年〜1890年―」1996年 山川出版

▼成瀬治・山田欣吾・木村靖二「ドイツ史3 ―1890年〜現在―」1997年 山川出版

▼矢野久/アンゼルム・ファウスト編「ドイツ社会史」2001年 有斐閣

▼柴田三千雄「近代世界と民衆運動」2001年 岩波書店

▼関曠野「民族とは何か」2001年 講談社現代新書

 

 このレポートを読むに当たっては、上記の文献の他に

▼木下尚一・西川正雄他「西洋の歴史 増補版 近現代編」ミネルヴァ書房 1998

を参照しておくと、同時代の動きがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼補足

 

<反ユダヤ主義組織>

 キリスト教社会党・反ユダヤ主義者連盟・社会帝国党・ドイツ民族協会・ドイツ改革党・ドイツ反ユダヤ主義連合(1880sの諸組織)

1889年:「反ユダヤ主義ドイツ社会党」「ドイツ社会党」へ統合。

「反ユダヤ主義民族党」(1890年。93年からは「ドイツ改革党」)との合同。

 

※反ユダヤ主義諸政党の1899年のハンブルク綱領

「最終解決」に焦点→絶滅政策。すでにこの頃から構想として存在。決してナチス時代に急に出た考えではなかった。

 政府がこのような反ユダヤ主義政党を承認。

 

<在郷軍人団体の状況>

 ・プロイセンの在郷軍人会(1万6500人)に会員150万人。<1910年時点>

 ・「ドイツ在郷軍人会」

  ↑

 1873年に発足(214の会と2万7500人の会員)。

  ↓

 1900年には100万人に達する。1910年には170万人の会員。

・「キフホイザー在郷軍人会」(構成員250万人)

※つまり、軍隊は1914年以前に現役の軍隊も含め、すくなくとも500万人のドイツ人(成年男子と青少年全体の六分の一)を把握。帝政ドイツにおけるこの影響力は見逃すべきではない。

 

<ツァーベルン事件>

1913年。エルザスのドイツ軍駐屯地ツァーベルンで、ドイツの陸軍少尉が地元住民を挑発し、部下の新兵に暴力行為をさせた事件。事件が世間に伝わり、帝国全体にセンセーションを引き起こした。

派遣された巡察部隊は、治安維持を称し、地元住民を恣意的に拘束。

ドイツ人将校の有罪は明らかであったが、裁判では無罪が言い渡された。これは、ドイツでの少数民族抑圧策の典型的な例であるばかりでなく、軍隊の権威が明らかに文民政治家を上回っていたことを象徴していると思われる。


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