【イノセントワード】   著:衛弐
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 僕は、そこにうずくまる黒いモノを眺めていた。

 影だまりに溶けるように、いや、すでに身体の半分ほどは消えているかのようで見えない。時折、影の中から二つの瞳にも似たものが、僕の様子を伺うように光っていた。それはひどく弱々しかった。今にも掻き消えてしまいそうな、微弱な輝き。《それ》と僕の視線が交錯する。黒いモノのうずくまる、その果てしなく続いていそうな闇の中に、僕もまた吸い込まれるような錯覚に陥った。しかし実際は、僕は元から立っていた場所に居るのだし、相変わらず《それ》は闇の中から僕を伺っている。

 一言「なんだおまえ」と言ってみた。

 すると、「ずりずり」とでも形容したらいいのか、闇の中から這い出すように《それ》が僕に近付いてきた。不思議と恐怖は無い。きっと僕は敵ではないと感じたのかもしれない。僕も同じ気分だった。すぐに僕の足元まで来た《それ》は、物凄いスピードで僕の目の前まで飛び上がった。さっきまでの、不定形を絵に描いたような姿ではなくて、もっと形になった、まるで不恰好に大きい猫のような姿だった。

『おれ、のテキちがうおマえ、たすケるカ?』

 直接、頭の中に語りかけるような感覚。それは、僕が《よく知っている》意思疎通の方法だった。僕が、こんな普段は誰も歩いてもいないし、好んで来ようともしない場所に入る原因となった、ある意味では恨みさえしている、この《能力》を使ったものだ。

『おれひとツ、ほかナい。ひとツ、ツらい』

 《それ》はゆっくりと語りかけてきた。明確な意味は分からないが、語りの様子から大体の想像は付く。要するに、こいつは一人なのだ。他には自分のような存在が無くて寂しい、といった所か。

 なんだ。まるで僕のようじゃないか。苦笑する。こいつも、あいつらと同じなんだ。

 僕は手を差し出したが、《それ》の黒い姿をふわりと抜けていってしまった。また苦笑してみる。手を元に戻して、できるだけ穏やかに語りかけた。

『僕は、お前を助けてあげよう』

 瞬間。猫の姿の《それ》は身体に鮮やかな青みを帯び、僕が触れれば温かい体温と、しっかりとした弾力を感じさせるようなモノに変わった。

 ただ、鋭く光る目だけは変わらなかった。

『お前のことは、これからアズゥーと呼ぶよ』

 アズゥーは『ああ』とでも返事するかのように、前足を上げ、軽く振った。

 

 

 

 清々しいほどの快晴の空。

 気温も日毎に上がり、夏本番と言うには少し早い、そろそろ海水浴客も増加してくるであろう季節。

 芝村幼稚園の園内では、ボール遊び、砂場遊び、あるいは遊具を使って、思い思いの遊び時間を満喫している無邪気な子どもたちの声が飛び交っていた。そんな中、子どもたちに混じってボール投げをしている女性がいた。活発そうな短めの髪に、大き目の瞳、全体としては小柄ではないが、さりとて身長が高いわけでもない。彼女は、赤いエプロンにジーンズという姿のまま子どもたちと遊んでいる。さほど豊かではない胸の割に大きめのお尻が目立っている。

「せんせーきょうもけつでけー」

 男の子に一人がからかう。彼女は、それを耳にした途端、言葉が発せられたと思しき方向へと顔を向けた。顔は笑ってはいたが、微かに吊り上げられた口の端が、決して愉快な気分ではないと告げている。

「そういうこと言う子は、こうだ!」

 近くの女の子から飛んできたボールを難無く取った彼女は、からかった子に向かって、ほぼ全力投球。

「いて!」

 男の子の背中に見事命中し、彼は転んだが、やがてすぐに立ち上がった。そんな彼に、周りの女の子は容赦の無い罵声を浴びせた。この子たちは、先程の女性の熱心な教え子たちである。と共に、最年長組の中でも女の子リーダー的存在のグループである。

 ちなみに、転んだ男の子も同様に、こちらは男の子グループでリーダー的存在である。

 程無く、双方間で口ゲンカが始まった。その頃、原因となった女性は何をしていたかと言うと、口ゲンカをけしかけていたのである。

 そんな中、女の子の一人が、彼女の足元に近付く。女の子の存在に気付いた彼女の方も、話を聞き易いように中腰になる。

「どうしたの、あきちゃん?」

「すえながせんせー、おとなげ、ないね」

 幼稚園児とは思えない仕草で溜息ひとつ、髪の先がハネるようなクセっ毛をいじりながら、その女の子、亜紀は言った。

 末永歩美は、苦笑いを浮かべつつ、「近頃の幼稚園児は侮れないわね」と呟いた。

 

 ここ、芝村幼稚園は星原市内でも、小規模の幼稚園である。近頃の少子化という問題も絡んでいるのだろうが、それよりも、芝村幼稚園から五百メートルと離れていない場所に、別の、大手の幼稚園が建てられているといい理由の方が大きい。向こうは建物も大きく、古くから星原市、いや、それよりも昔の名前で呼ばれていた頃から存在するのに対し、先程も言ったように芝村幼稚園は建物も小規模で、歴史も浅く、教員の数も少ない。

 そのため、古くから勤めているという先生もおらず、比較的、若い先生の方が多い。

 末永歩美も、実家の近くのこの幼稚園に新任として勤めてから五年で、新人の時よりは幾分かは手馴れた所も見せるが、まだまだ不慣れな所も多い。

「この頃の子どもって生意気盛りね」

 休み時間に事務室に戻っていた歩美は、同僚で、かつて大学の後輩だった新居裕子に声を掛けた。

「そこが可愛いんじゃないですか」

 湯沸しポットから急須に熱湯を入れながら、裕子は答えた。子どもが大好きで、彼女自身も子どもから好かれそうな柔らかな物腰の女性である。

「あんたは子どもたちに甘過ぎ。もう少し厳しく仕付けてやんなきゃ、調子に乗るだけだよ?」

 裕子は歩美の前の湯飲みに茶を注ぎ、手を止めた。

「でも、ほめてのばす教育も大事です」

「使い分けが大事なの。あたしだって年中怒ってるわけじゃないでしょ。誉める時は誉める、叱る時はちゃんと叱る。メリハリを付けなきゃ」

「先輩の場合は極端です」

 柔和な外見に似合わず、裕子は意外に頑固だ。本人たちの性格のせいか、歩美は主に女の子の、裕子は男の子の人気が高い。

 二人、そんな会話をしていると、急に事務室の扉が勢い良く開かれた。歩美が驚いて振り返ると、数人の女の子たちがぞろぞろ入ってきた。中には亜紀の姿も見える。

「どうしたの、みんなして?」

「みんなの《ぱんつ》についてはなしてたの」

 女の子たちの意外な、というより突飛過ぎる発言に、教員二人の顔に驚愕の色が浮かぶ。

「なんで、そんな話をしているの?」

 歩美以上に驚いた様子の裕子が尋ねる。すると女の子の一人が一歩前に出て、嬉々として答えた。

「あゆみせんせーはね、きのうはくろぱんつ」

「かっこいいよねー」

 答えになっていない。だが歩美は、昨日の放課後、男子たちに混じってスカートめくりごっこに興じていたのを思い出し、多分、それが原因なんだろうと考えていた。一方、答えを聞いた裕子の顔は、驚きに彩られ、照れたように赤くなったりといった具合に、様々な表情を次々に変え、やがて口元に手を当てて言った。

「先輩って……意外と」

「ああもう、気にするんじゃない」

 歩美は、子どもの無邪気さゆえの発言に苦笑しながら、次の時間の準備をするために、事務所に残っている数人の子どもたちを引き連れて教室に向かった。後に残った裕子は、一人頷き呟いた。

「さすが新妻」

 

 園児たちを無事に送迎バスで帰宅させ、幼稚園に戻った歩美は、あれやこれやと面倒臭い事務仕事を適当に片付け、椅子にもたれて大きく伸びをした。ギシギシと背もたれが軋んだ。

「今日もお勤めご苦労さん」

 そのまま顔だけを隣の席の裕子に向け、だらしない姿勢のまま声を掛けた。

「どう、今晩ウチの旦那と飲みに行かない?」

「いえいえ、二人のお邪魔になってしまいますから」

 裕子は、やんわりと提案を断る。

「遠慮しなくてもいいのに」

 歩美は、つならなそうに唇を尖らせた。

「先輩の方こそ遠慮なさらず。せっかくの週末なんですから、末永さんと、二人きりで仲良く、ゆるりゆるりと楽しい時間を過ごして下さいませ」

 裕子は歩美の反応を楽しむかのように、後半の部分をゆっくりと言った。

「そう、わかった。まったく、聞き分けのいい後輩を持って幸せだ、あたしゃ」

 頬杖付いて、そうぼやくように言う姿からは、言葉通りの様子は覗えない。それに、時折、反抗のつもりか自分に軽い皮肉を言ってくるこの後輩を、内心ではいたく気に入っているのは事実だ。

「でも早いものですね、末永さんと先輩がご結婚なさってから、もう三ヵ月ですか。大竹先生と呼ばれていた頃が懐かしいんじゃありません?」

「……そうでもないな、慣れちゃえば普通だよ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、歩美は答えた。

 

 

 

「それじゃ先輩、お疲れ様でした」

「あいよ、また明日ね」

 軽く挨拶を交わし、歩美は車に乗って走り去ってゆく裕子を見送った。ちなみに一方の歩美は、現在、幼稚園の程近くのアパートを借りているため、基本的に徒歩で通勤している。

 未だ自動車免許も持っていない歩美は、裕子が車で颯爽と帰って行くのを見て時々羨ましく思いもする。

「あたしも車乗れた方がかっこいいよねぇ」

 帰り道、そんな事を呟いていると、携帯電話の着信メロディがけたたましく鳴り始めた。目覚まし用に最大音量になったままだったのを忘れていた歩美は、バッグの中から慌てて愛用の携帯を取り出した。

 ちなみに、彼女の着メロはショパンの《革命》である。

 着信画面を確認してみると、送信先は彼女の夫である末永弘幸だった。

「はい、あたし」

「急に悪い、歩美。今から一緒に来てくれ」

 弘幸の声が早口に伝えてくる。

「……急ね、どこに行けばいいの?」

「幼稚園に戻ってくれ、車で拾う」

 そう言った途端、弘幸は通話を切ってしまった。

 何だか釈然としない面持ちを浮かべつつ、歩美は元来た道を引き返して行った。心の中で、弘幸が姿を現したらどんな文句を言ってやろうか考えながら。確かに歩美たちの自宅と幼稚園は大した距離ではない。実際、道路で隔たれてはいるが、歩いて十分もかからない程度であるのだが、歩美にとっては、道を引き返すという行為が不愉快であるらしい。

 そして辿り着いた幼稚園の門の前には、既に弘幸の車が着いていた。歩美は憮然とした表情で助手席に乗り込んだ。

 弘幸はそれを確認するや否や、車を発進させた。

「ごめんな、急ぎの用が入ってさ」

 歩美は無言で窓の外を眺めている。

「そんな怒った顔しないでもいいだろ」

「……怒ってないもん」

 振り向かず、拗ねたような声で返事をする。

「折角の週末だから私ら、裕子ちゃんと一緒に飲もうと思ってたのにフラれて寂しかった所に弘幸は急に呼び出すんだもん」

「本当に急用なんだから仕方無いじゃないすか歩美さん」

 下手に出てみる。しかし歩美には通用しなかった。

「私にも関係ある用なのそれって」

「まぁな」

 弘幸は吸っていた煙草を乱暴に灰皿に押し込み、一度息を整えてから話し始めた。

「さっき、マスターから呼び出された」

 マスターと聞いて、二人が最初に思い浮かべる人物は、今の所は一人しかない。

「それを早く言ってよ」

「詳しく言うと【EARL】に客が来ているらしい。どこから聞き付けてきたかは知らないが《門》の事も」

 信号待ちのため、車を止める。その間に、弘幸は歩美の方を向いて言葉を続ける。

「……ちゃんと知っているんだと。恐らく【EARL】みたいな、俺らと同様の集団が他にも有るんだろう」

「行ってみなきゃ分からないって所ね」

「そうだな」

 弘幸は頷き、再び車を発進させる。その隣で、歩美は溜息を吐きながら苦笑いを浮かべた。

「なんか変な言い方だけど、今日は裕子ちゃんにフラれて正解だったのかもね」

「また今度、一緒に飲む機会もあるだろ」

 ははは、と気楽に笑ってみせる弘幸。

 

 二人が【EARL】に着いた頃には、パラパラと小雨が降り始めていた。慌てて店内へと駆け込む。

「いらっしゃいませぇ〜」

 ドアを開けた途端、可愛らしげだが、妙に間延びした声が二人を迎えた。そして、その声の主で、歩美の姿に気付いて足早に彼女の元へ駆け寄ってきたのは、【EARL】の看板娘として客の間で大人気の鳴島綾香だった。

「歩美さぁん! お久し振りです〜」

「もう、今日も可愛いんだから、綾香ちゃん!」

 そういって綾香をぎゅうっと抱きしめる歩美。少し驚いたような顔を見せたのも束の間、綾香の方も満面の笑みを浮かべて、されるがままになった。

 弘幸は二人を見て呆れたような表情を浮かべる。が、すぐに真顔に戻し、カウンターの席に座る若い男にコーヒーを出すマスターに、声を掛けた。

「今日は人が少ないな、マスター?」

 その声に振り向くマスター。常に穏やかな表情の彼は、それに似付かう静かな口調で答えた。

「残念ながら雨が降ってきた。早く晴れて欲しいものだが、場合によっては嵐にもなりかねん」

「そりゃあ大げさだろう?」

 コーヒーカップを置く音と共に、カウンターの若い男が口を挟んできた。全体的に小柄な男で、金髪に近い褐色の髪に、幼さの抜け切らぬ顔立ち。スーツを着てはいるが、まるで新入社員のようで不似合いだ。

「天気予報じゃ夜の内に止むって言ってたぞ」

 照れ隠しのつもりなのか、マスターは頭など掻きながら奥に戻っていった。

 弘幸は心の中で「そういう意味じゃない」と呟きつつ、若い男の隣に座った。

「まあいいさ、天気の事は」

「あんたが末永サンか、呼び出して済まなかったな」

 タメ口で話しかけてきた上、おもむろに手を差し出してきた。弘幸は苦笑しながら手を握り返した。

「歩美さんてのは、あの人か」

 男は、未だ熱い抱擁を続けている二人の方を向いて、まるで品定めでもするような目付きをした。

「いいね、俺好みの実にいい尻だ」

「言っておくが俺の妻だからな、しかも新婚だ」

 男は悪戯っぽい表情で答えた。

「俺は人妻に燃えるタイプなんすよ、旦那」

「そういう冗談は映像の中だけで終わらせておけ」

「具体的に言うと俺の本職は人妻が相手で」

「そんな事はいいから、さっさと用件に入ってくれ」

 ウンザリしながら弘幸は男に話を促した。

 

 どうにか綾香から歩美を引き離した弘幸は、カウンターからテーブル席に移るように都島に促した。

「店員さん、ついでにコーヒーおかわり頼むよ」

 テーブルには歩美、弘幸が並び、都島は二人の向かい側に座るという配置になった。少しして、テーブルの上にいそいそと綾香がコーヒーを三人分置いた。

「自己紹介しておくよ。俺は都島。あんまり長い付き合いになるとは思えないから名前はいいだろ」

 そう言いながらも、彼が差し出した名刺にはちゃんと【都島潤一】と書かれていた。

「ん……それで旦那さんにはすまないけど、実際に用件があるのは奥さんの方なんすよ」

 奥さん、と呼ばれた事に戸惑って歩美は口を挟んだ。

「歩美さんでいいよ、都島くん」

「そっすか。んじゃ歩美さんね。あんまり時間取らせるのも悪いからさっさと用件を伝えるな」

 そう言うと都島は足元のバッグから資料の綴じられたファイルを取り出した。その中の三枚を歩美たちの前に差し出して、一枚を表にして見せた。

「まずはこれを見てくれ。ここに書かれてるのは、今は山奥の静養所にいる、とある少年の詳細だ」

 言われるままに歩美は、その資料を眺めた。医師から精神的な問題を抱えているという診断結果を受けたため、一般の学校に馴染めず、一年ほど前から療養所で生活をしている十一歳の少年の事が書かれているのみで、特に彼女の興味を引くような内容は無かった。

 ただ【井原】という、少年の名字に聞き覚えがあったような気はした。顔にもどこか見覚えがある。

「この子がどうしたの?」

 都島はニヤッと笑ってみせた。

「上に言われた通りの反応するんだね。普通の人はそういう反応をする、って聞いてる、じゃあ……」

 そう言って、また一枚を表にする。そしてファイルから一枚の写真を取り出して、一緒に置いた。そこに映っていたのは、当に《異形》という言葉が似付かわしい、動物に似たモノたちだった。

「二人は、これを見てどう思う?」

「都島、お前は何者だ?」

 写真を見せられるや否や、急に、都島に射抜くような視線を向ける弘幸。一方の歩美は、ただただ驚いた表情を浮かべたまま黙るのみだった。

「落ち着けって。俺だって上からのお達しで二人に会うように言われてるだけで、全部知ってる訳じゃないんだ。この写真の事だって、何を意味しているのか俺にはサッパリ分からない」

 都島は苦笑いしながら、今度は三枚目を歩美に見せた。

「これを見れば、歩美さんを呼び出した理由も分かるって聞かされてるんだけど」

 見せられた三枚目と、先程の写真と合わせて見て、歩美は思わず溜息を吐いた。もう一枚の写真には、先程の少年と、歩美にとって見覚えのある少女が、仲良さそうに笑っている姿が映されていた。

 少年の名前は井原孝太郎。歩美の教え子である井原亜紀の実の兄であった。

「弘幸、折角のお休みが台無しになりそう」

「まったく、厄介な事に巻き込まれちまった」

 二人が顔を見合わせて苦い表情をしている目の前では、その《厄介な事》を持ち込んできた張本人が、二人の様子を見て楽しそうに笑っていた。

「さぁて、早いけど俺は帰らせてもらうよ。写真とかは持っていっていいからね。歩美さんたちが、その紙に書いてある通り、俺らの事を手伝ってくれるなら、また明日も会えるでしょ。期待してるからさ」

 そう早口に言うと、都島は荷物をそそくさとまとめ、やはり足早に出口に向かっていった。

「お会計!」

 そして彼は呆気無く綾香に捕まった。

 

 

 

 快晴の翌日。歩美と弘幸は、都島に渡された紙に書いてある通り、星原市の南の海岸近くに位置する療養所に向かっていた。

「今日がお休みで良かった」

 住宅地を離れ、段々と青い海が彼女らの視界に広がってくる。まるでドライブといった気分で、歩美は隣で運転している弘幸に声を掛けた。ちなみに、これから向かう先の事を考え、弘幸は煙草を吸っていない。

「俺は普通出勤だったんだぞ。昨日、お前が寝た後に社長を説得するのにどれほど骨を折ったことか」

 思い出すのも嫌だといった表情。しかし、すぐに楽しげな表情に戻る。彼も、今回の依頼を息抜き程度、つまり、さりとて重大な事に発展するとは思っていなかったのである。

「折角だし、依頼が終わったら海でも見に行くか」

「そうねぇ……たまには」

 そんな会話を交わしながら、二人は潮風の香る沿岸の道を疾走していた。

 

 車で走って一時間弱といった所だろうか、海沿いの道を進んだ二人の視界に入ってきたのは、彼女たちが想像していたよりも立派な建物だった。

「あそこが、そうなのかな?」

 渡された紙に書かれた地図を見ながら歩美が確認する。

 その周辺には、他に目立つ建物も無い。ここで間違い無いのだろうと思って、二人は建物から少し離れた駐車スペースに車を止めた。

「うちの幼稚園とは比べられないね、思ったより立派な建物みたい」

「ああ、いい場所だなぁ」

 車を降りて、建物に近付いて。

「いらっしゃ〜い」

 その入り口で、都島が陽気に声を掛けてきた。

「早いね、都島くん」

「そりゃあ俺たちの方が依頼主になるからね、下準備は完璧に行っておくのが……」

「余計な事を言うんじゃない、都島」

 都島の傍らに立つ、青いスーツの男が都島を睨む。その途端、急に大汗をかいて都島は黙り込んでしまった。男はさりとて長身ではないが、小柄な都島の隣にいると、妙に背高に見える。短めに刈った黒髪も手伝い、見た目からは好青年と言えよう。

 そして男は、二人の方を向いて穏やかな表情を浮かべながら頭を下げた。

「初めまして。私は柳と申します。先日はこの都島が失礼をしたようで、恐れ入ります」

 それは都島と違ってあまりに丁寧な物腰だったため、歩美はむしろ不気味さすら感じてしまった。弘幸にとっても同様で、都島よりもよほど油断ならない人間だと肌で感じたようだ。

 二人の奇異な視線を受けながらも、相変わらず友好的な態度を崩さず、柳は言葉を続けた。

「私としては親交を深める時間を持ちたいと思っているのですが、今回は急ぎの用なのでまたの機会にしましょう。早速ですが、あなた方は《扉》については御存知ですね?」

「……あたしたちは門とかゲートと呼んでいますけども」

「名称は違えど、意味する所が同じなら構いません。実は、この療養所の近くに扉が存在しています。ああ勿論《見えない人》には全く見えませんが」

 そう前置きして、柳は二人に状況の説明と、今回の目的を告げた。

「都島に持たせた資料から幾らかは知っているとは思いますが、私の方から補足します。井原孝太郎という少年の事ですが、彼は我々の様に《能力者》です。その能力がどのようなものかは分かりませんが、我々のように、能力を持つ少年少女を保護、及び一般社会との隔絶を防ぐための教育を行っている者としては、見過ごせないのです。無論、このような場所ですので、発見された《扉》に関しても封鎖するような運びで行きたいと思っています」

 流暢に語る彼の様子からは、先程までの、妙な胡散臭さは感じられなくなっていた。渡された資料だけでは今一つ分からなかった部分も理解でき、依頼目的も明確になった事からも、二人の柳と都島に対する信用も上がった様子である。多少は。

 ただ、歩美には一つだけ疑問があった。

「でも柳さん、どうしてあたしたちに依頼を?」

「簡単な事です、末永さん。孝太郎くんは少々気難しい性格でしてね、大人に警戒心を抱いているらしいのです。勝手な詮索については謝るとしても、貴女なら彼の妹さんの先生をなさっていらっしゃいますし、何より《能力》の事を理解しています。私どもより多少は近付きやすいかと思い、お呼びしました」

「俺は付き添いに過ぎないのか」

 弘幸は憮然とした表情を浮かべて呟いた。それを聞いた柳は、少し白々しく彼に笑い掛けた。

「ははは、そうなってしまいますね。ですけど、この療養所の近辺は、ご覧の通り海も近く、景色も抜群ですから、それを眺めるのも一興ですよ」

 次から次へと上手に言葉を返してゆく柳の様子を眺めていた歩美は、ついつい彼に見惚れている事に気付いて慌てて視線を逸らした。会って短時間でしかないが、彼は相当切れる人物なのだろうとも思った。

 ただ、歩美が向いた先で、何かに怯える様に黙って立っている都島の様子は、とても奇怪に映った。

 

 別に用があるという柳、都島と別れた後、歩美は、煙草を吸わない事に耐えられずに海辺へ行った弘幸とも別れ、一人で療養所内へと入っていった。

 受付で見学の手続きを済ませ、歩美は取り合えず療養所の所長に面会することにした。受付で応対に出た女性に案内され、所長らしき初老の婦人に孝太郎について尋ねると、名前を聞いた途端。眉を曇らせた。

「孝太郎君はちょっと変わってる子ねぇ。時々誰もいないのに話し始めたり、笑ったりね……わたしは正直言って怖いですよ」

 口ではそう言っているが、歩美には、所長は孝太郎に対し多少の不気味さを感じてはいるものの、何とかしてあげられないかと心配しているように感じられた。

「時々、親御さんも面会に訪れるんですけどね、孝太郎君は両親に冷たい態度ですよ。ただ、妹さんだけは仲良さそうに接しているみたいですが……ああそう言えば、今日もいらしてます」

「亜紀ちゃん、来ているんですか?」

「ええ、孝太郎君と出掛けました。いつもの場所に居るとは思いますよ。案内しましょうか?」

 歩美は即座に「お願いします」と頷いた。

 

 歩美が案内されたのは、療養所の裏手側にある小高い丘だった。青々とした芝が視界に広がってはいたのだが、所々に環境整備のための植林の跡があるためか、はたまた整然としたコンクリートの階段が用意されているためか、歩美には妙に不自然な景観に思えた。

「ここから少し上がった先にいると思います」

 そう、所長は息を切らしながら彼女に教えたが、強い日差しも手伝ってか、既に顔は汗一杯だった。元気そうな歩美に対し、お疲れな様子である。

「……すみませんね、私は中に戻っています」

「はい、案内ありがとうございました」

 歩美は軽く頭を下げ、階段を下りてゆく所長の姿を見送った。

「さぁて、と。二人はどこなのかな」

 芝の感触を楽しむように、歩美は歩いて探す事にした。広々とした場所ではあったが、療養所の子供たちと思われる人影は殆ど見えなかった。丁度、お昼時に差し掛かっていたので、療養所の中に入って行ってしまったからかもしれない。

 簡単に装飾された道に沿うように歩いている内、歩美は奇妙な影を見つけた。それは黒猫のような形をしていたが、それにしては大型である。

「なんだろ、イタチかな?」

 芝村幼稚園に時折現れ、園長自慢のサボテンの鉢や園児たちの世話している花壇を台無しにしてゆく害獣(と歩美は思っている)の名を呟きながら、その影を追ってみる事にした。影は、もそもそ、とでも言えばいいのか、決して俊敏ではない動きでウロウロとしていた。

「あー」

 女の子の声。影は突然、凄いスピードで動き出し、歩美の前方に見える木の下に向かっていった。彼女の方といえば、呆然として立ったままだった。

「あゆみせんせい、どうしたの?」

「その声は、亜紀ちゃんね」

 我に返ったように声に反応する歩美。

 亜紀は、いつものようにクセっ毛をいじりながら、不思議そうな顔をしていた。

 

 亜紀に言われるままに歩美が連れて行かれたのは、先程の黒い影が逃げ込んだと思われる木の下だった。そこには先程の黒い影の正体と思われる、大きな黒猫を膝に乗せて、撫でるようにしている少年の姿があった。同年代の少年に比べると、無造作に伸ばした髪に反するように低い背丈が印象的だった。

 亜紀の姿に気付いた少年は、無表情そうな顔に微かな笑みを浮かべたが、隣の歩美の姿を見て、表情を強張らせた。

「誰だその人は」

「あゆみせんせいだよ」

 そう聞いても、少年はまだ警戒したような顔で歩美の方を見てきた。彼女にとっては、園児の中にもしばしば、こういう態度を見せる子がいるので慣れたものではあったが、それでも反応に困ったようだ。

「こんにちは、亜紀ちゃんの先生をしている末永です」

 なんとか、友好そうに笑顔を作り、当たり障りの無い自己紹介などしてみる。

 すると、今度はどんな反応が来るか緊張気味だった歩美の予想に反し、少年は少し表情を和らげた。

「僕は孝太郎。亜紀は妹だよ」

 少しぶっきらぼうな口調ではあったが、孝太郎は歩美に答えた。

「アズゥーにせんせいのこときいたの?」

「ああ……今、こいつが教えてくれた。『それはいいひと』だってね」

 そう言って、膝に乗せた黒猫の背中を撫でた。その猫の目は、黒い見掛けの中でやけに輝いていた。

「いいせんせいだよ!」

 亜紀は嬉しそうに、歩美を見上げた。

 歩美は「ありがとう」と苦笑して返した。

 

 亜紀はアズゥーを連れて、芝生の上を走り回っていた。普段、幼稚園では『おとなしい子』というイメージがある亜紀の、こういった一面を見て、歩美は新鮮に思えた。

「こいつ、アズゥーは人の心を読むんだ」

 唐突に、孝太郎は歩美に話しかけてきた。

 歩美と孝太郎は、先程の木の下に座っていた。その木の枝には、なぜか黒い鳥が二羽並んでとまっていた。

「具体的に何を思ってるかとかは分かんないけど、感覚として感じるみたいだ。心の色を僕に伝えてくれる。先生は『赤黄色い』らしいよ。悪い色じゃないね」

 所長や都島に聞いていた話や、その外見の雰囲気とは違って、今、歩美の隣に座って話してくれている少年は、快活に話し掛けてきている。

 思わず意外そうな表情を浮かべた彼女を横目で見て、孝太郎は苦笑交じりに呟いた。

「……別に、僕は周りの大人が思ってるような生意気な子供って事は無いから心配しないで。普段、黙ってる事が多いだけでそう思われてるんだったら不愉快だけどね」

 歩美は内心で「話し方が生意気です」と思ったが、あはは、と笑ってごまかした。

「先生も、見えるんでしょ?」

「ゲート、のことね」

 孝太郎は頷いた。

「アズゥーたちは、ゲートの中か、あるいは外の世界から来たと思う。今、木の上にエバブとマイプって名付けた鳥がいるけど、こいつらも同じだよ」

 そして「他にもいるんだけどね」と補足した。

「迷い込んできたんじゃないかなと思う。迷い込んで、行き場がなくて、ここの施設の他の奴らにオバケ呼ばわりされて怖がられて。あんまりだろ?」

 彼の表情が曇った。その言葉は、歩美に話しかけているように見えて、実際には自問自答のような雰囲気だと彼女には感じられた。

「孤独ってね」

「孤独?」

「周りに馴染めないからって言い訳する言葉なんだよね。自分を孤独だって言い張る奴は意気地なしだし、他人を孤独だって言う奴は、手を差し伸べる勇気がない奴さ」

 妙に達観したような事を言う。この手の子供は、大人の立場からしてみれば、扱いにくい子なのだろう。歩美も少し困惑した。

 木の上ではエバブとマイプが妙な鳴き声をあげている。ふと彼女が見上げた先では、二羽が仲良さそうに、羽根を動かしあっていた。思わず微笑む。隣の歩美がのん気に木の上を眺めているのにも気付かず、孝太郎は話し続けている。

「一人きりが怖いっていうのは分かるけどさ、みんなもう少し、一人きりでいる事に慣れた方がいいんじゃないと思うね。出会いがあれば、別れだってある。別れを恐れて出会いを避けちゃあいけないんだよ」

 そう言って、歩美の方を向いた孝太郎だったが、彼女が木の上の二羽を眺めてるのを見て、少し不満げな顔をした。

「先生、聞いてた?」

「聞いてたよ勿論。孤独なんてのは、自分の弱さを隠す、都合のいい言葉なんでしょ?」

 実際は「そこだけ」聞いていたのだが。

「そか」

 孝太郎は少しだけ笑った。

「たまには人と話すのもいいね」

 また生意気な事を言う。彼は満足気な顔で立ち上がり、大きく伸びをした。

 歩美は、そんな彼に最後に質問した。

「幸太郎君は、どんな『力』があるの? 色々と知っているのも、もしかしたらそのせい?」

 孝太郎は、ちょっとだけ黙って、言った。

「……声が聞こえるんだ。人以外のものでもね。色々な事はアズゥーたちが教えてくれた。何となくだけど」

 照れたような顔をして、彼は歩美を連れて建物の中へと向かっていった。

 今、この広々とした芝生に人影が無いのは「おひるだからだよ」と言っていた亜紀の言葉を思い出し、歩美もお腹が空いてきた。立ち上がって、スカートに付いた土などを払う。

 その足元に、アズゥーが近付いてきていた。その、不自然に光る眼を不気味に思いつつも、その眼を見返していると、奇妙な感覚に襲われた。背筋が凍るような冷たい感覚と、もう一つ、暖かく心地よい安らぐ感覚。

『ちガウ、ドれガイヤナやつカ?』

 そして、微かな声が聞こえた。

 ハッと思って歩美が我に返ると、アズゥーは木の下で静かに丸くなっていた。木の上では、エバブとマイプが相変わらず仲良さそうに戯れている。

 変に思いながらも、歩美は昼食に向かった。

 

 

 

 車を走らせ、食事を済ませた後でも、歩美は木の下で聞こえた声が、どうにも気になって仕方が無い様子であった。弘幸にも話してみたのだが、彼には見当もつかないようだ。

「いつもなら、頭でも打ったかとか言って茶化してみるんだが、今回はそうも言ってられないな。後でマスターたちに聞いてみるよ」

「お願い。あたしはもう少し話を聞いてる」

 彼女は、妙な胸騒ぎがした。

 

 歩美はもう一度、建物の裏手側にある芝生へと向かおうとした。きっと、孝太郎たちはあそこの木の下に戻っていると考えたのである。

 その時だった。裏の丘を上がろうとする歩美の前に、都島が立った。奇妙なほどに緊張した雰囲気で、彼は告げた。

「この先は行かない方がいい」

「何を言っているの?」

「いいから、俺の言う事を聞いてくれ。このままじゃまずいんだ。これは歩美さんだけじゃない、旦那さんだって危うい」

 都島は、冷静を保とうとするが、どうしても声が上ずってしまうようにガチガチの口調だった。

「柳は危険な奴だった、俺は騙された」

「ちょっと」

 歩美が「説明して」と言い掛けた所で、再び、歩美は奇妙な感覚に陥った。今度は背筋が凍るような冷たい感覚のみだった。思わず彼女の表情が歪む。

「詳しくは説明できない。とにかく言える事は、柳は危険だ。奴はまだここにいる。命が惜しかったら旦那と逃げる事だ」

「何を言ってるのか分かんない」

 なんとか口に出せたのは、それだけだった。

 都島は何とも詮方無い表情で周囲を見回すと、近くにあった療養所の裏口を開け、歩美の手を引っ張って中へと入れた。

 そして再び中を見渡すと、やっと少し落ち着いた表情を見せた。歩美はと言うと、床に座り込むような格好で都島を見上げていた。

「誰も、いないようだな」

 歩美に深呼吸を促し、都島本人もまた呼吸を整えるように言葉を止めた。若い見かけによらず、こういった状況に場慣れした様子である。未だ歩美は落ち着かないままであったが、彼のその様子に妙な頼もしさを感じたのは事実だった。

 彼の口調も、ふざけた調子が抜けていた。

「順を追っていこう。始めに言うと柳と俺は全くの他人だ。奴の仕事に関して、俺は当座の雇われ屋でしかない」

 窓から外の様子を眺めつつ、都島が話す。

「歩美さん『獣使い』って奴を知ってるか?」

 歩美は、首を横に振って答えた。

「《能力者》たちの世界では有名らしい」

 そう言って、彼の知る限りを話し始めた。

 孝太郎のように、動物など人以外のものともコミュニケーションを取って、言葉の遣り取りができる人間が、ごく稀に確認される。その疎通の度合いは人によって差が出るが、大抵の場合で会話を行うレベル程度である。中でもその度合いの強い者は、意識を奪って使役さえ可能であるという。そういった人間を、俗に《獣使い》と呼ぶ。

「獣使いが操れるのは人間も含まれる」

 都島は冷や汗混じりに補足した。それを聞いて歩美は、都島が見せた、何かに怯えるような目を思い出した。

「都島君、それってつまり」

「ああ、実際に体験した俺が言うんだ間違い無い。柳も獣使いだ。今回の件に関して詳しい話は聞いてないが、奴が何を考えているか想像はつく。あの少年も同じ能力とやらを持っているんだろう」

 天候に恵まれた白昼であるにも拘らず、今この時の歩美の心境は出来の悪いホラー映画を見たかのような、現実離れするが中途半端に現実を帯びた恐怖感だった。

 都島の言う事は本当なのだろうと思う。今は別行動を取っている弘幸と共にこの場から立ち去った方がいいに違いない。しかし。

「この場にいる人たちは、子供たちはどうなるの?」

 しかし、歩美には孝太郎と亜紀を、その他、療養所にいる人々まで置いて離れる訳にはいかなかった。

「妙な言い方だけど、奴も大事になるような無駄な行動はしない。ましてや殺傷などはしないだろうし、派手に目立つ事、例えば銃撃などはしないだろうさ」

「でも、それじゃ孝太郎君は」

「……俺が何とかするよ、じゃあな」

 呆然とする歩美を置いて、都島は扉の外へと走って行ってしまった。扉が閉まる。その音が響いて、やっと歩美は立ち上がった。

「何とかする……って、何をするのよ」

 嫌な予感。強烈な胸騒ぎ。都島自身は、そこまでする必要があるのか。歩美は未だ釈然としない面持ちを浮かべている。

 その時、彼女の携帯に着信が入った。相手は弘幸だった。すぐに通話モードにする。

「もしもし弘幸、どうしたの?」

「まずい、今《ネット》で調べてもらって分かった事だが、柳という別称を持つ能力者で検索がかかった。奴は獣使いと呼ばれる一人で……」

「説明はしないでいいよ。今すぐこっちに来て」

「五分待て、必ず行く」

 弘幸は通話を切った。

 通話の切れた音が、歩美の耳に強く残った。

(……行くしかないよね)

 歩美は力強く、扉を開いた。

 

 丘の階段を一段上るごとに、歩美の心臓は鼓動を早めていった。これから何が起ころうとしているのか判然とせず、しかし中途半端に恐怖感だけはある。そんな状況でも、前に向かうのは何故なのか。

(理不尽だよね、これって)

 あの木の下に人影が見える。小さな人影、大き目の人影。そして小動物のような影。忙しなく動く大き目の人影に対し、小さな人影は殆ど動きを見せなかった。

 木に近付くにつれ、荒げた声をあげる都島と、ネクタイ一つ乱れない柳の姿、横になって動かないアズゥーたち、それを抱きかかえる兄と妹の姿が認められるようになった。

「こんな事が許されてたまるか!」

 怒気を含んだ声で柳に掴み掛かろうとする都島だったが、見えない何物かに邪魔されるように、柳から突き放され、地に伏してしまう。奇妙な事に、都島の着ているスーツは全くの無傷であるのに、彼自身は、明らかに疲弊した表情であった。

「なんで、こんな、子供を狙って」

 そんな状態でも僅かに顔を上げ、柳を睨み付ける。

「俺は、お前を止めて、罪を……」

 その間に、柳は少しだけ視線を横にずらし、歩美の方を微かに向いて口の端を歪めた。

「わざわざご苦労様だったね、お役御免だ、都島」

 そんな冷たい声が歩美の耳にも届いた。

 直後、地面から必死に立ち上がろうとした都島の体は、崩れ落ちるようにして地面に倒れ、そのまま立ち上がらなくなった。

 柳は無表情になって、その様子を見ていた。 

 

「アズゥーが……なんでこんな事に」

「孝太郎君、それ以上余計な事をすると、今度は本気で君のトモダチを消してしまいますよ」

 地面に横たわった都島の体を横に蹴り飛ばして、柳は一歩前に出て、孝太郎たちを見下ろした。孝太郎の傍らでは、亜紀が大声を上げて泣いていた。孝太郎自身も、経験した事の無い程の恐怖で泣き出してしまいそうだった。しかし、必死にこらえていた。

「《扉》の場所を知っているだろうね?」

「し、知るか、お前なんかに教えてたまるか」

 柳は、いやらしく口の端を歪めた。

 ヒュッ、という音と共に木の上からエバブの黒い影が地面に落ち、闇となって溶けるように消え去った。

 孝太郎は、悔しげに柳を睨んだが、全くの威嚇にもならない。柳は自分が常に優位にいる事を愉快そうに笑って楽しんでいるかのようであった。

「次は、もう一体のカラスですかね?」

「マイプを!」

「さっきのカラスとは、随分と仲良しな様子でしたからねぇ、一緒に消してしまった方が寂しくなくていいのではないですか」

 ねえ、と言って、後ろから現れた歩美に同意を求めてきた。

 今度は出会った時とは違う、柳への激しい嫌悪感を伴った言葉を彼女は返した。

「最低。あんた、同じ人間とは思えない」

「ほほう、貴女と私が同じ人間!」

 柳は、ククク、と押し殺したような笑いを浮かべたかと思うと、こらえ切れずに高笑いを始めた。

「お笑いだ、能力すら無い者がよく言う!」

「……違うね、血も涙も無い奴が人間であるはずない。あんたは鬼畜だわ」

「フン、強がりを」

 柳は眼鏡を押し上げる仕草を見せた。

「しかしまあ、貴女には感謝しますよ。ゲート外の生物は警戒心が強いので、滅多に接触できない所でしたが、貴女が先程、孝太郎君と話をしていて下さったお陰で、その間に罠を仕掛けさせて頂きました」

「罠?」

「ご覧下さい」

 柳が言うや否や、彼を中心として空間が強烈な収縮を行ったかのような動きを見せた。その結果として、アズゥーたちの動きは酷く緩慢になっていた。

「外界の能力者に依頼して作ってもらった強力な……言わばネズミ捕りですよ。これが作用する場においては、孝太郎君がアズゥーなどと呼んでいるような、俗にエトランゼは動きを縛られるのですよ」

 確かに、アズゥーは酷く苦しそうであるが、動きを止めている訳ではない。歩美は柳にますますの嫌悪感を抱いた。しかし、それと同時に彼の真意を掴み切れぬ事に苛立ちを感じていた。

「一時的に位相がずれています。通常の世界では何ら変化も見えずにいるはず」

「それで……あんたは何がしたいの?」

 回りくどい言い方は無しに、歩美は率直に聞いた。

「ビジネスですよ。捕らえたエトランゼは、珍種の生物を欲しがる嗜好家や、トラベラーたちとヤミで取引されますし、獣使いの素養のある者は、施設に預けて、より優秀な者になって頂きます。その上で、外界に輸出され、活躍するのです」

 その《輸出》という言葉にも激しい嫌悪感を覚えた。

「こんな子供を捕まえて、しかも輸出なんて言葉を使うなんて、鬼畜もいいとこね」

「何とでも言うがいい。私は金の亡者ですからね」

 そして、また耳障りな高笑い。

「止めますか、何の能力も無い癖に扉を覗ける力だけある貴女が、私を?」

「ああその通り、あたしは理不尽が大嫌いだ。都島君を使い捨てのようにして、こんな小さい子を泣かせた奴は許せない」

「わたしもね、伊達に獣使いを名乗ってはいません」

 柳が左手で、指差した先。

「使い捨て、というのは非常に合理的ではないですか?」

 ネジの切れた木偶人形のように、いびつな動きを見せながら、元、都島潤一だった人間が立ち上がった。

「何て事を……!」

「ふふふ、こんな素晴らしい能力を授けてくれた神に、私は感謝しますよ」

 もはや、柳は怖いものなど無いかのように笑い続けている。反面、歩美は困惑し、何も出来ない状況を感じつつあった。

「さて、どうしましょうか」

 何も出来ずに狼狽する歩美と、ただただ恐怖に顔を強張らせる子供たちを交互に眺め、柳は嬉しそうに言った。

「そうですね、貴女は新婚であったはず。そんな女性が他の男に犯されるというのは大変な屈辱でしょうねぇ」

「な!」

「しかも年端もいかない子供たちの前で、先生が、淫らな姿を見られる。ククク、これはどちらにとっても耐え難い苦痛となるでしょう、それはもう一生残るくらい!」

「このキチ●イ……」

 柳は高笑いを止め、冷徹な表情で都島に向き直した。

「まずはその余計な口をふさげ、都島」

 そう言うが早いか、都島が歩美に飛びかかろうとした。

『だメ、アなタはいイヒとダカラ、いク』

 その瞬間、何かの黒い影が彼の顔面を直撃した。不慮の事態に反応し切れていない都島は、無表情に地に膝をついた。また、黒い影も別の場所で地に落ちた。

「マイプ!」

 孝太郎が声を上げる。力なく地に横たわったマイプもまた、エバブのように闇となり、地に溶けるように消え去ってしまった。

「く、罠にかかったネズミの分際で!」

 柳は苦々しい表情を浮かべたかと思うと、胸元のネクタイピンを外した。それは見る間に形を変え、小型の自動小銃となって彼の右手に収まった。

 自嘲するかのように、また笑う。

 彼は身動きできずに、しかし目だけは柳を睨み付ける歩美に銃の照準を合わせ、いやらしく呟いた。

「予想外の事態などありましたが、これで終わりです。都島の忠告通り逃げていれば、こんな事にはならなかったんですよ。来世でもいい先生となれるといいですね?」

 言い知れぬ恐怖に、歩美は、思わず目を閉じた。

 

 

 銃声。

 

 

 そして、柳の押し殺した悲鳴。銃が地面に落ちる音。

「ネズミはお前だ!」

 その声は弘幸のものだった。

「ひろゆき……!」

 目の端に少しだけ涙を溜めて、歩美は呟く。

「柳を確保する!」

 その声を走りに、弘幸が連れてきた数名が、速やかな動きで柳を取り囲んだ。歩美も一度だけ見掛けた事がある。正式な名称は忘れたが、ゲートに関するトラブルを秘密裏に解決するプロフェッショナルの集団だった。

「良かった、やっぱり来てくれた!」

「当たり前だ、俺はお前のシンパシーだからな」

 歩美は、ちょっと潤んだ目で笑顔を作った。

「……マスターが彼らを手配していてくれたんだ。有事の時に出動できるように常時待機してくれたらしい」

 その後で「これで何も起こらなかったら」と呟いて、【EARL】のマスターが困惑する顔を想像して二人で苦笑した。

「糞、何て事だ、こんな馬鹿な、有り得ない!」

「静かにしろ柳。お前にはこれから特別な場所で事情聴取を受ける事になっている。せいぜい、うまい言い訳でも考えておくんだな」

 集団のリーダー格のヒゲの男がニヤリと笑った。

 弘幸は、地面に押さえつけられた柳に近寄ると、不愉快な顔で言い放った。

「お前、よくも俺の妻をキズモノにしようとしたな。都島が担いだ片棒の分までしっかり罪を背負いやがれ」

 歩美は思わず顔を真っ赤にして俯いた。

 

 

 

「アズゥーが、死んじゃう?」

 柳が連行され、事件の痕跡をなくす作業の段階で、エトランゼたち専門のドクターが呼ばれていたのだが、孝太郎が必死に隠し続けてきたゲートの浅い部分に隠れ住んでいたエトランゼ以外は、殆ど生存が絶望視されていた。

 既に闇となって消えてしまったエバブやマイプ、そして他大勢の微弱なエトランゼたちは柳のトラップが発動した時点で微々たる生命力しか無かった様子である。

 アズゥーもまた、その生命が持続できる程の力は残っていなかったのである。

「孝太郎君、これは仕方無いことなんだ」

 この世界の人間語が達者ではないドクターに代わって、弘幸が孝太郎をなだめる。

「そんなの嫌だ、せっかく友達になったのに!」

 口達者なはずの孝太郎だったが、この時ばかりは感情の赴くままに喚いていた。まだ中学生にも達さない、年相応の少年のように。彼は、不恰好な黒猫の姿を保てずに形を変えつつあるアズゥーを、ただ何も出来ずに見ているしかなかった。

「……アズゥーは、やっぱり駄目なの?」

 泣き疲れて眠ってしまった亜紀を、療養所内のベッドに寝かしつけてきた歩美が、弘幸に声を掛けた。

「元々、丈夫な方じゃなかったらしいんだ」

「残念ね」

 そこでは淡々とした口調ではあったが、孝太郎の事を考えると、歩美には何とも言い難い苦しい気持ちだった。それは弘幸としても同じ事で、ただ、黙って孝太郎とアズゥーの別れを見守るしかなかった。

 ドクターが、弘幸に話し掛ける。

 弘幸は、気が重そうに告げた。

「孝太郎君、アズゥーとはお別れだ」

 

 

「お願いだ、僕を一人にしないでよ!」

 孝太郎は、必死に手を伸ばした。触れようとした。

 声ともならない声で、呼びかけた。叫んだ。

 その声は、届かない。その手は、触れる事が出来ない。

 アズゥーは、辛うじて猫らしき姿を保ったまま、ほんの僅かだけ右手を左右に振った。

 そして、闇に溶けて、そして、消えた。

「僕を、もう一人にしないで、しないでよ!」

 孝太郎は、人目も気にせず、泣いた。

 

 

 当事者以外は誰も知る事がない事件。

 通常、生きてゆくのに知る必要も無い事件であり、謎だらけであっても。

 それでも、誰かの人生の軌道修正に、多少は役立つ場合もある訳で。

「おにいちゃん、がっこういってるよ」

「ふぅん、孝太郎君、あの療養所を出たんだ」

「アズゥーがいなくなっちゃって、さみしいけど、あたらしいトモダチつくるんだって」

 歩美は、静かに微笑んだ。

 

 『孤独』とは、周りに馴染めない事を言い訳する言葉。孝太郎は、そう、自分で言った。別れを恐れて出会いを避けないように、彼は自らの足を前に向けられるようになったのだろう。

 そう考えて、歩美は嬉しい気持ちになった。

 あの芝生で、彼が言った言葉は嘘ではないだろうけど。友達との別れに際し、叫んだ気持ちこそ、彼の偽り無い気持ちだったのだろう、と思った。

 彼女は、孝太郎に限らず、亜紀に限らず、芝村幼稚園の園児たちも含め、何色にも染まらない可能性を持った子供たちが、もっと素直に、楽な気持ちで感情を表に出してゆける人間となってくれる事を切に祈るのであった。

「ふふふ」

「なんか嬉しそうだな、歩美」

「そろそろ子供作ろうか?」


【イノセントワード】   著:衛弐
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