【かくれんぼ】   著:谷村 あいる
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あ、まただ。またあの夢に入っていく。

 

 幼稚園に通っているくらいの小さな男の子が出てきてぱたぱたと走っている。他に人がいないから、という訳でもないのに、私はその子を追いかけてしまう。ぱたぱたぱたぱた。そんなに離れている訳ではないのに、いつも見失いそうになる。そんなに速い訳でもないのに。ぱたぱたぱたぱた。右へ左へ、それからこんな細い路地まで。見失うと思ったころに現れる扉。よいしょ、とその子が背伸びをしてドアを開ける。回して開けるドアノブでなく、病院などにあるような長いバーだから、あんな小さな子でも開けられるのだ。おっと、感心している場合ではない。

「待って」

 扉が完全に閉まってしまう前になんとかたどり着くと、取っ手を引いて体を滑り込ませる。子供が開けられるのだから、完全に閉じても問題はないはずなのだが、どうしても、あの子が開けないと行けないのではないかという気がしてしまう。

 

「うわぁ」

 いつもと同じの広い広い草原。吹いてきた風をはらんでスカートが広がる。そうなって初めて、私は自分が少女のようなワンピースを着ていることに気がつく。若草色の中にぽつんと一点の白。海のようにうねる草たち。曇りでもかんかん照りでもなく穏やかに青い空。生命を感じさせる色の中でぽつんと、ひとり。

 

 いつしか私は眠っている。うとうととまどろんでいるはずなのにぐっすりと。深く深く。ダイバーが深海に潜るみたいにゆっくり段階を踏んで下降していく。

「おねえちゃん……おねえちゃん」

 つかまえた。

 最初の頃はどんなに探しても姿さえ見つけられなかったのに、諦めてからは逆に、この子のほうが私を見つけるのを楽しんでいるらしい。特に隠れようとしていない私を見つけても大して面白くないだろうと思うのだが、私を見つけるといつもつかまえた証拠のように起こしてくる。

「おはよう」

 そういって起き上がろうとすると「だめー」と押し戻されてしまう。

「はい、目ぇつぶって」

「なんで?」

「ないしょー」

 ふふー、と笑い声。若い草を裸足で駆けていく柔らかい音がする。

「開けてもいいよー」

 花の匂い。視界がピンクでいっぱいになる。丁寧に集めてきたのだろうが、まばらに葉の緑も入っているコスモスのはなびらのシャワー。まだ、黄色いおしべがついたままのもある。高く投げてまかれたせいか、花びらだけで空気抵抗の少ないピンクが、葉やおしべの緑と黄色よりもほんの少しだけ長く滞空する。だから、ピンク。花びらの裏側の白さは、くるくる舞っているうちに表の色と交じり合って薄ピンクのイメージに溶け合っていく。

 スローモーションになったわけでもないのに、じっくりとそこまで見えた。

「キレイね」

 なんだかこそばゆくて、つぶやいていた言葉。

「でしょー。でもね、おねえちゃんもきれい」

 しっかりと聞いていたらしくあどけない声が答える。

「ふふ……ありがと」

 口が上手いのね。と苦笑して続けると、そんなことないもん。と口を尖らせる。

「疲れた顔してたからー、元気にしてあげたいって思っただけだもん」

「じゃぁ、本当にきれいだって思っていったんじゃなかったのかな?」

 おどけた声でまぜっ返すと、泣きそうな顔で黙ってしまう。ああ、どうしよう。手元に降った花びらのくにゃりとした感触に小さな罪悪感を感じながら、手をついて体を起こす。

「嘘になっちゃうの?」

 さっき降っていた花びらのようにふるふるとした声で聞かれる。

「元気になってもらおうとしただけなのに、そういうのも嘘なの?」

 違うよ、大丈夫だよ。頭の中で台詞が反芻されていく。なぜだかいえない。どうしても喉でつっかかってしまう。せめて、と頭をなでようとして伸ばした手はすっと避けられた。

 

 

 まただ。夫を待っているうちに食卓で寝てしまっていたらしい。肩にかけていたショールが、椅子の傍らに落ちている。

 どうしてだろう。あの子に触れようとするといつも逃げられてしまう。私に関わろうとするのに、私が触れそうになると夢が終わってしまうのだ。まるで世界から私を閉め出すかのように。子供に嫌われるタイプなのかしら、と少し憂鬱な気分で腹部に触れた。

「まだ起きてたのか」

 大した考え事でもないのに、玄関で鍵を開ける音に気付いていなかった。お帰りなさいと慌てて食事の用意を始めようと立ち上がる。

「いいよ。お前はもう寝とけ」

 これを温めればいいんだろう? と私に確認すると仕事を片付けるみたいに手際よく準備を進めていく。前の職場を辞める際に家事も仕事だからと慰めるようにいってくれたっけ。そうすると、今の私は家事さえもできていないわけだ。

「あのね、また見たのよ。夢」

「んあ……悪い」

 はい、とお茶を渡して隣に座ったけれど、その一言だけで後は無反応。何かを考えている顔の夫に繰り返す。

「またね、夢を見たの」

 ふぅん、とほうれん草のおひたしを箸でつつきながら気のない返事。

「男の子を追いかけて行って、寝ちゃってたんだけど、その子が戻ってきて……。」

「頭をなでようとしたら目が覚めた。んだろ」

 一足飛びに結末を出されて口をつぐんでしまう。確かに流れとしては間違っていない。おそらく、照れくさくてコスモスのシャワーの話は飛ばしたろう。だけど、その直後にあの子が泣いてしまったあの瞬間に感じたことを話したかったのに。あの子の頭をなでようとしたその理由を誰かに分かって欲しかったのに。

 結論。成果。仕事の上ではそういったことが大事なのは同じ職場にいたから分かってる。でも、仕事でだってそういったことだけが重要なわけではない、ってそういってくれたのはあなただったのに。

 一番伝えたかったことをいいそびれてから、食器を片付ける音がするまで動く気がしないままぼんやりと座っていた。

「眠いなら寝ろよ」

「あ、うん」

 いくらうたた寝していたとはいえ、眠くないわけではない。自然、風呂に入ろうと着替えを取りに行く夫と同じように寝室に向かう。

 いいたかった、こと。つたえたかった、こと。言えなかった事。まだ、頭の中で整理がついていない。あの子に対して。夫に対して。感じたあの雰囲気は同じだったのか違うのか。もどかしい気分を抱えて、夫の背中のあたりをなんとなく見やる。

「あのね」

 喋るか喋らないか決めかねたままなのに、声を掛けていた。自分の口の筋肉が動いたのを信じられなくて、取り繕うように寝室のドアを閉めるとベッドに腰掛ける。

「あのね、さっきの夢なんだけど」

「いつもと同じだったんだろ?」

「そうなんだけど、そうじゃないところもあって」

 へぇ、と少し明るかった声にほっとして、コスモスのシャワーの話から始めた。

 

「なんだかその子、お前に似ているな」

「そう?」

 私がひととおり話すと、夫はそういった。そんなに私、泣き虫だったかしらと思っていると、

「お義母さんに接してるみたいだ」

と続ける。

「私が、お母さんに?」

 そう。とだけいうと夫は体に悪いからもう寝ろといって、風呂に行ってしまった。なぜなのかどうしてなのかが知りたかったのに、答えのかわりにドアが閉められる。

 つまらない。いや、物足りないのか。職場で一緒だった時はもっと話し合えていた。仕事の話でなく、生き方というようなプライベートなことも、保険の自己負担が増えたとかそういった生活に密着したことでも。

結婚してからもそういう話ができるのだと思っていた。むしろもっと深く。自分の考え、それから二人の今とこれから。そういう話し合いのできる相手だと思ったから、この人と家族が作りたいと思った。なのに。

 仕方がない。いくら妊娠中とはいえ、朝ご飯の準備ができないほど寝坊したくはない。肩のショールをベッドサイドに置くと布団に潜り込んだ。

 

 

 夢を見る以外は平穏無事だった。あの子は相変わらず私に触れられないようにしている。下手に近づこうとするとそれだけで夢から覚めてしまうこともあるので、なんだか扉をくぐるのを怖いと思うこともあった。

 

 

「君は……誰?」

 夫に指摘されてからしばらくして、思い切って聞いて見たことがある。なんだろう、という顔をされた。

「君は私、なの?」

 こうなったらどんなにつっぱねられても聞こう。と、構わずに質問を続ける。

「ぼくはぼくだよ。ぼくがおねえさんだったら、おねえさんはここにいないでしょ?」

「そうじゃなくて、私の分身というか……」

「ぼくはぼくだってば」

 やけにはっきりという。だからおねえさんじゃないよ、と。

 

 

「どうなってるんだろう……」

 いい加減、夫がうんざりしているのは分かっている。私が見た夢の話なんかされても夫にはどうしようもないのだから。

「夢なんだから、そんなに気にしなくったっていいだろう」

「そんなに考え込んでも答えなんて出ないよ」

 所詮、夢の中の話なんだから。と夫はいう。確かにそうだ。夢は自分の無意識が見せるもので、ストーリーとしての脈絡はないのが普通だとも聞いたことがあるし。それでも、私は知りたかった。どんなに意味のないことだとしても、二人で考えてみたかった。

 

 

「お腹の子にさわるぞ」

 そういわれたときに、何かが違うと思った。「夢だから」気にするなといわれ続けたのは、私のためでなくて子供のためだった? 私が考えていることはそんなに軽んじられているのだろうか。

「ねぇ」

 向かい合って食卓に座る彼は、ちらりと視線を上げただけ。

「ねえってば」

 なんだよ。と答えが返ってきた時にはもう勢いだけで言葉をまくし立てていた。

「あなたは、奥さんで自分の子供の母親になってくれる人が欲しかったんでしょ? あたしはもう立場が変わらないものね。同僚から恋人、恋人から妻になるまではずいぶんあたしのことを見ててくれたけど、妻になったらもう、役割なんて変わらないもん。だからあたしに関心がなくなったんでしょう? もう、立場の変わることのない相手を気にしたりはしないのよね」

「ちょっと待て」

 彼が私を落ち着かせようと口を開く。頭の中が半分まっしろになっていた私は、冷静な声を聞かなくていいように無視して続ける。

「仕事でチーム組んでたときはもっと話し合えてたよね。あたしも仕事してたんだから、あなたが今忙しいのは分かる。大事な時よね。ぼんやりしてた計画が形になっていくところだもの。ちょうど詰めのとこなんでしょ。だけど、あたしとあなたもチームよね? 家族とか家庭とかってチームじゃないの? 一緒に対策練ったり、意見を出し合ったりしてできるだけいいものを作っていくんじゃないの? なのに。いまから、子供が生まれる前からこんなんじゃどうしようもないじゃない。結婚するって会社以外でチームを組むって決意なんじゃないの? そこを引き受ける気もないのに結婚なんかしたの?

 だったらあたし、堕ろす。子供いらない。それ以前に離婚する。あなたとチームなんかやっていけないよ」

 

 私という個人の悩み事をチーム全体で引き受けたりしないのは分かっていたし、自分でも理屈が通ってないと知っていた。でも、出産のために仕事を辞めてから、恐らくずっと不満だったのだ。ささいなことでもいいから彼と話したかった。ああでもない、こうでもないと意見を聞いてみたかった。

 彼は何もいわなかった。彼はもう私がいい終えるまで口を挟まなかった。

「気が立ってるんだろうからゆっくり寝ろ」

と、最後にそれだけしかいわなかった。

 

 

「きみはあたしでしょう? ううん、いまあたしのお腹の中にいる赤ちゃんでしょう?」

 夫にまくしたてた勢いが残っていたのか、扉の向こうであの子を見つけた私は、腕をつかみこそしなかったが、思いっきり問い詰め始めた。

 否定も肯定の返事もない。ただ、周りの風景が変わり始めていた。いままでの穏やかで明るいイメージでなく、ダリの絵画のように溶けた時計などが転がった非現実的な世界に変化していく。なのにあの子の姿は見えない。

「どこ行っちゃったの?」

 あの子がいないと危険だと思った。あの子の身が危険なのか、あの子の近くにいないと私が危険なのか、そこまで考えたわけではなく。ただ単純に近くにいなくてはならないと思った。

 どこだろう。すぐ近くにいたはずなのに。

 不安はどんどん募る。探さなくちゃ。でも、どこを?

 景色といっても、舞台の書き割りを次々に取り替えるように変わり続けているのだ。「どこ」なんて概念すらいらないかのように。

 「どこ」。そういえばここはどこなのだろう? 夢の中なら目を覚ませばいい。なにもあの子の存在にすがらなくてもこの異状事態から逃げ出せるはずなのだ。いうなれば悪夢のはずなのに、まだ私は夢から覚めていない。頬を叩いてもつねっても、起きることができない。

「なにやってるの?」

 拗ねたような少し怒ったような声が聞こえた。彼に何かを聞こうという気など、もはや全くない。声を聞いた瞬間に、これで戻れる。と思ったくらいだ。

「おねえちゃんのことお母さんにしてあげてもいいと思ったけど、そんなにぼくをいじめるんだったらいらない!」

 ちょっと待って、それは何の答えなの?

 暗転する意識の中で、ちらりとそれだけがよぎった。

 

 

「おい……大丈夫か?」

 顔に当たる水飛沫の冷たさにまぶたを薄く開く。あの子によく似た目。まだ私は目が覚めていないのだろうか。周りはうす暗い。これだから梅雨は嫌ね。と洗濯物の心配をしながら思った。でもまだ小雨だ。

「大丈夫か」

 はっきり聞こえた声に、うなずく。寒い。雨なのに私は傘も持たずに出てきたのだろうか。

「なんで?」

 どういう目的を持った問いなのか自分でも分からなかった。ただ、喋るために口の筋肉を動かしたその事実がさっきまでの状況を思い出させた。

「行かなきゃ」

 急に立ち上がったせいで体がふらついた。手も冷たい、靴も靴下も濡れている。小雨なのになんでこんなに濡れているのか自分でも分からない。

「もういいだろう、帰ろう」

 夫が私を促す。夢と現実を仕分けできなくてなにがなにやら分からない。呆然としていた私の目の前にあったのは扉。小汚い、どこかの店の裏口のドア。

「夢……? でも、あたしこのドアから確かにあの子に会いに行ってたのよ?」

 知ってる。と静かに夫がいった。

「お前が男の子の出てくる夢を見るって話をするようになってから、帰ってきてもいないことがあったんだ。玄関は開きっぱなし、靴もそのまま。どうしたらいいか分からなくてリビングに座っていたらぼんやりした顔でお前が帰ってきた。靴下が少し汚れていただけだったから、お前が自分の意志で出かけたんだろうと思って問いただすそうとしたら、もう眠っていた。」

「そんなことしてないわ」

 そんなの身に覚えがない。

「してたんだよ。前からはっきり寝言をいうタイプだったし、最初はなんかの拍子に寝呆けて外にでも出たのかと思った。とりあえず、ちゃんと施錠しておけばどうにかなるだろうって。でもそのうち、おやすみをいった数分後に自分でチェーンも鍵も開けて靴も履かずに出かけるようになったんだ」

「まさか。そんなことあるわけ……」

「じゃぁ、この格好は何だよ」

 改めて自分を見れば、夫と喧嘩した直後の服装のまま、靴も履いていない。傘も持っていないからこんなに雨に濡れている。

「でも……」

「帰ろう。いい加減に風邪をひく」

「でも……そんなことより、あの子に会わなくちゃ。あの子に。あたし、これから生まれてくる自分の子供に 『いらない』っていわれたままなの」

 この扉さえ開ければまた追いかけられる。そうしたかったのに、痛みがそれを許してくれなかった。腹部に走った激痛に座り込んでしまう。

「会ってくれないまま、お別れしちゃうの?」

流れる、ととっさに思った。赤いランプと音が、赤ちゃんを救いに来たのか連れ去りに来たのか、答えを知るまでは眠るわけにはいかないと思ったのを覚えている。

 

 

 あれだけ雨に濡れていたので流れても仕方ないとさえ思っていた子供は、私がその後、絶対安静で入院したこともあり、無事に生まれてきた。生まれてくるのはきっと『あの子』だと思っていたのに、赤ちゃんは女の子だった。『あの子』がどうしたのかなんて分かるはずもない。

 入院する前にやった喧嘩もあってか、夫はずいぶん私の話を聞いてくれるようになった。とはいっても結局、話題は子供のことになるので『私』の話を聞いてくれるのとはちょっと違う気もするのだけれど。

 あの人のことだ、しばらくしたらまた私の話なんか聞かなくなるんだろう。ただ私が思っていたよりも子供好きらしいから、子供の話題には付き合ってくれるかもしれないけれど。私の話や、私自身の考えには耳も貸してくれなくなるのだと思う。

 それでもいい。

 あの人に絶望しているわけではない。仕方がないという諦めてしまうのとも少し違う。ただ、それでいいのだ。

 

 退院する時にあのドアのあった通りにも行ってみたが、小汚いドアはどこかへ撤去されていた。ドアの立てかけてあった壁に日に焼けなかった跡だけ残して。

「この子の名前どうしようか」

 夫に抱かれている赤ん坊の手をつつきながら私は聞いた。

 めんどくさいなぁ。と、思わず言ってしまった台詞を訂正するかのように彼が付け足す。

「あ、これは『関わりたくない』って意味でなくて……」

「分かるわよ」

 苦笑して私はいった。

「名前って一生物だから責任の重さを感じるっていいたいんでしょ」

「そうそう」

とりあえず私が怒らなかったことに安心したのか、夫は安心したようにうなずいた。

「名前かぁ……」

そういえばあの男の子は何ていう名前だったのだろう? 今となってはもうわからない。

 

 

 ただのマタニティーブルーだったのかもしれない。あの子に会ったのもただの空想で片付けられるのかもしれない。ひょっとしたら最後のメルヘンとか。どちらにせよ、私が夢遊病のような行動をとっていたことに変わりはないのだけれど。

 ただ、あれ以来、私はお店などの白いドアを見るとつい立ち止まってしまうのだ。周りで小さな男の子が走っていないか目で探してしまう。例の裏口の扉はきっと、『あの子』じゃないと開けられない世界だったのだろう。また会えたら『あの子』はどこか世界に連れて行ってくれるのだろうか。

 何年かしたら会えるかもしれない『あの子』のために、私たちは玄関のドアを白いのと変えるか、今のドアを白のペンキで塗るか検討し始めている。


【かくれんぼ】   著:谷村 あいる
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