【忘却できない記憶】   著:陽ノ下 光一
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忘却できない記憶

陽ノ下光一

 

Ayaka

 雨の降る中、とにかく走っていた。どこをどう走っていたか思い出せないくらいに。

 差す傘はすでに無い。シャツはどこで引っ掛けたのか裂けているし、スカートは泥を跳ねて台無しだ。

 何だか、自分の状況をいやに冷静に分析できる。けど、涙が止まらない。

 後ろを見た……まだ追いかけてきてる。

 自分でもわけのわからないことを叫びながら、必死で逃げた。

 楽しいはずの買い物が、なんでこんな目に遭うんだろう。わけのわからないことを叫ぶ男にわけのわからないまま友人が刺された。そして私もわけのわからないまま逃げている。

 こんな時に限って通行人がいない。昨日見た火サスみたいだ。気付いたら駆けている路地は全く人気がない。

 曲がり角を出ると、道が三つに分かれていた。左のほうには物置らしき建物。迷わずそちらに駆ける。

 まだ男は見えてない。やり過ごせるかも。

「きゃ!」

 水溜りでこけた。最悪。立ち上がろうとすると足が痛い。強く打ったのかしら。後ろを見ると、男が三叉路の中央に……目が合った。

 私、泣き叫びながら走った。袋小路で逃げようも無いけど、絶対殺されたくなかった。

 男の足音がすぐ後ろに聞こえた。物置に駆け込もうとドアに手を掛け、中に滑り込んだ。

 中は真っ暗で何も見えなかった。それでも必死で逃げた。

 物置にしては広いなと思った。酸欠なのかな? 走っても走っても、先が見えない。暗いから見えないのかな? それとも、走っているようで走ってないのかな。頭がまとまらないままに走り続けた。

 かなり遠くに明かりが見えた。出口かな? けど、なんで物置がこんなに広いんだろ。男もどこにいるんだろう。でも、光があるほうに行きたかった。暗いところはやっぱり怖かった。

 走れば走るほど光が近づいてきた。そして、光の中に身を滑らせた。

 私、泥の中に顔から突っ込んでいた。全身泥まみれ。上体を起こして座り込んだ。ここ、どこだろ?

 そしたら、目の前に男がいた。私、もう駄目だと思った。地べたに座り込んだまま動けない。

 男が何か言っている。なんだろ? なにか猟奇的な言葉かな? もう相手の言葉もわからない。

 そしたら、男が手を差し伸べてきた。私が震えていると、肩を何度か叩いて、また話しかけてくる。なんとかその言葉もわかるようになってきた。

「おい、君。しっかりしろ」

 そう聞こえたとき、その人にしがみついていた。

 それが、私と徳田武雄さんの出会いだった。

 

Ayaka

「ここは君みたいな能力を持った連中、『トラベラー』の集まる店なんだ」

 あの事件の日、徳田さんはそう言って私を一件の喫茶店に案内してきた。

「と言ってもわからないだろうから、簡単に説明しておこう」

 徳田さんの言葉は耳に入ってきたが、全然頭に残らなかった。それでも徳田さんは話し続けた。

「『トラベラー』は扉を媒介に様々な場所を行き来する。中には『能力者』といって、治癒など特殊なことができるのもいる。もっとも特殊能力を持つのは少数派だが」

 徳田さんはそこで言葉を切った。私はずっと徳田さんの腕に掴まったまま震えていた。

「ま、すぐにはわからないだろう。普通の人間には理解できないことだから」

 徳田さんは私を抱き寄せて、背中を何度か叩きながら、「そのうち慣れるさ、大丈夫」と声を掛けてくれた。

 あれから一年。私は紹介された喫茶『 Earl 』に住み込みで働いている。

 毎晩のように襲われた日の事が夢に出てきた。でも、マスターや他の『トラベラー』、それに徳田さんが色々世話を焼いてくれて、おかげで立ち直れた。

私が『能力者』らしいことがわかったのはつい最近。過去に見た記憶を絵やレポートで再現できるのが私の能力。やっと、あの事件を話せるようになって、そのときに『 Earl 』の人たちが気付いた。おかけで、あのときの犯人は逮捕された。他にも被害に遭った人がいて、連続通り魔としての逮捕だった。

あんなやつ死刑になっちゃえばいいんだ。

 それはともかく、みんなはこの能力に『 sharp eye 』っていう結構かっこいい名前をつけてくれた。で、その記憶力も買われて、私はここで『トラベラー』の人たちが行き来している世界の情報をまとめたり、他の『トラベラー』が集まる店との情報をやり取りしている。

 もちろん、ウェイトレスとしても活躍している。けど、この能力には欠点もあって……。

「……かちゃん。綾香ちゃん!」

「え、ええ、は、はい。ご注文ですか?」

 目の前の中年男性は嘆息して、

「綾香ちゃん。お客様にコーヒー持って行って」

「あ、はい。す、すみません」

 マスターの晴山弘樹さんだった。何間抜けたことを言ってるんだろ、私。

 この能力、記憶を再現するっていう便利な点はあるけど、その量が多すぎると、

「あ、綾香ちゃん。危ない」

「ほえ? あ、ああっ」

 ガシャン、と盛大な音とともに、突っ伏した。コーヒーカップが目の前で無残な姿になっている。

 お客さんたちは、いつもの綾香ちゃんだといって笑うし。マスターはカウンターの奥でノートにメモをしている。『綾香による損害ノート』にこれが記されるたびに、私のお給料が減っていく。……安いやつでよかった。

 とにかく、記憶量が膨大になると、思考能力に影響して、日常ポケッとすることが多くなってしまう。記憶を再現する前に、報告しやすいよう記憶について整理もできるけど、それをしてるときも周囲からは、ぼーっとしてると言われる。

別に私がドジなわけじゃないのに。

 でも、いい人ばっかで結構満足しているかも。

 お客さんも心得ていて、私が失敗すると片付けを手伝ってくれたりする。

「綾香ちゃんがいると和むんだよね」

 といって笑ってくれるけど、あんまり失敗ばかりもしたくない。

 パソコンで情報整理しちゃおう。記憶から再現すると、その記憶は普通の人みたいに曖昧になっていくから、そうすれば、『綾香天然症候群』とお客さんたちが名づけた状態から、回復はできる。

 

Others

 徳田が『 Earl 』に入ると、店内には五、六人の『トラベラー』が情報交換を兼ねてコーヒーを飲んでいた。もっとも、ここのコーヒーの味は評判なので一般客のリピーターも多いぐらいだから、どちらを目的に集まったか定かではない。

 それとも、目当ては鳴島綾香か。『 Earl 』の看板娘になっていて、その人気は高い。

 客の一人が言うには、カワイイ系&天然ボケという稀に見る逸材だとか。

 その当人は、カウンター傍のパソコンに向かってぼーっとしている。そして時折キーボードに何か打ち込んでいる。

 ぼーっとしている理由を『トラベラー』たちは知っているが、それは微笑ましく思われているようだ。

 感情を周囲に漏らさない徳田も、その光景だけには面白さを感じるのか、サングラスを押し上げてごまかしているようだった。

 店内は四人掛けのテーブル三つとスツールが六つ。徳田が一番奥のスツールに腰掛けると、晴山が「いつものかい」と言うのに、頷いた。出てきたのは甘い香りのするキリマンジャロ。徳田は、砂糖やミルクには目も向けず、ストレートに飲む。

「収穫はあったのかい?」

 徳田は首を横に振る。晴山はレジと隣り合わせに置いてあるパソコンに目を移した。ちょうど鳴島が立ち上がろうとするところであった。

「綾香ちゃん。最近のアクセスポイントの帰還状況を教えてあげて」

鳴島は、目を瞬き、しばらくカウンターのほうを見ていた。まだ、完全には『戻って』きていない証だ。

徳田が顔だけ後ろに向け、手を軽く上げると、『戻った』のか、笑みを浮かべ「はい」と元気のいい返事が返る。

彼女がプリントアウトして持ってきたのは、アクセスポイントから帰還した『トラベラー』たちの負傷者数と、三ヶ月以上の未帰還者数であった。

「徳田さんは何で『異界』に行くんですか?」

 紙面に目を通していた徳田は、鳴島に曖昧な笑みを浮かべるだけであった。鳴島は何か気に掛かるのか、再度口を開こうとした。それを、ドアに付けられたベルの、カランコロンという音が遮った。

 鳴島が客の対応に向かうと、晴山は徳田にだけ聞こえるように、

「私は誰かと共同でやったほうがいいと思うがね」

 と言った。徳田が「それは駄目だ」と応える。二人の間に沈黙が落ちると、静かな店内に、

「久しぶりですね。変わらずお元気そうで」

「ん、綾香ちゃんも変わらずナイスバディだね」

 そこで、僅かに静かになると、コンコンとトレイで何かを叩く音が連続した。

「セ、セクハラ。もう、もうもう」

「あ、綾香ちゃん痛いって」

 他の客がクスクスと笑いながら。「確かにそうだ」、とささやく。鳴島は「もう、みんなして私をいじめる」と。

 さすがにマスターは苦笑いをしているが、徳田は、

「ここは、いつ来ても面白いな」

 晴山は腕組みし、

「私は静かにくつろげる喫茶店を作ったつもりなんだがね」

 徳田は「じゃあ、綾香君を連れてきた私の責任だ」と言いつつ、キリマンジャロを口にした。

 

Ayaka

 まったく、みんなして人をからかうんだから。そう思いながら、徳田さんに奇妙な気配を感じていた。

 なんだろ? わからない。だから、徳田さんに今まで渡した紙面の内容を考えてみる。それでもわからない。

 何をしているのかな? 本人は探偵らしいから、教えてはくれないんだろうけど。

 マスターは知ってるみたいだけど、教えてくれないだろうな。

 けど、『異界』って何があるのかな? 私は夢中で『扉』を潜ってきたからわからない。みんな何を求めて行くのかな。

 でも、怪我したりして戻ってくる人や、帰ってこない人もいる。だから、『トラベラー』の情報交換の場とか、『異界』の地図とか作るんだろうけど。

 なんか腑に落ちないなあ。

 だって、徳田さん以外の人にも奇妙な気配感じるもん。怪我してる人には吐き気がするくらいに感じるときもあるし。

 なんだかなあ。

 

Ayaka

「おまたせしました」

 そう言って、アイスコーヒーをお客さんに。

 人が出入りするたびに熱気がかすかに伝わってくる。もう夏だ。海の近いこの町には観光客も多い。山も近いから登山客も立ち寄るんだよね。

 だからか、冷房の効いた店内にはひっきりなしにお客さんが入ってきて、結構忙しい。

 ……というわけでもなかったりする。

 だって、もともと客席数も少ないし。やっぱり喫茶店だからお客さんが長居するんだよね。

 『トラベラー』関係の人と、一般の人は半々くらいかな。

 さっき、カップルのケンカ見ちゃったよ。うーん。夏だよね。というか、単に男のほうが私のこと見てたらしく、彼女が怒り出したとか。

 なんで私が文句言われるんだろ。私、悪くないぞ。

 そういや、しばらく徳田さん来ないな。『トラベラー』の情報交換やってるのってここだけじゃないから、不思議ではないけど。

 うーん、気になるなあ。元気なのかな。

 せっかくの夏なんだし、一緒に海行こうよとか誘ってくれてもいいじゃない。

 ……ん? 何でそうなるの? あれ、変だなあ。

 カランという音。ドアを見る。

 徳田さんじゃなかった。って、何をがっかりしてるのよ。お客さん。お客さん。

 水とおしぼりを持っていく。常連の『トラベラー』だった。

 ん?

「綾香ちゃん。大丈夫?」

 気付いたら、床にコップを落としていた。お客さんが倒れそうな私を支えてくれている。

 う、気分が悪い。マスターはまたノートつけてるのかな?

 その『トラベラー』を見ると、私を支えているのと逆の腕は包帯が巻きつけてあった。そう思うと、反射的に聞いていた。

「あれ、腕どうしたんですか?」

「綾香ちゃん。僕の腕はいいから。少し休みな」

 そう言って、私を傍に来ていたマスターに預けた。

 

 店の奥はマスターの家になっていて、横になったときには気分はよくなっていた。

 だからすぐに戻った。さっきの『トラベラー』がいる間は気分が悪かったけど、いなくなるとなんともなくなった。

 絶対間違いない。

 そう確信して、パソコンでさっきの『トラベラー』の近況を確認する。

「特記事項

         異界よりの帰還中に負傷。原因不明」

 やっぱり。ってことは、異界とこっちを結ぶポイントの闇に何かが潜んでいるんだ。

 でも、これだけじゃ物足りない。他にも負傷した人たちを調べないと。他の店にも依頼して負傷者のマッピングをしてみるとなにかわかるかも。

 

Others

 廃屋の扉を開けて一人の男が真夏の空を仰ぎ見る。扉の奥は漆黒であったが、いったん閉まると、窓ガラスから光が漏れていた。

「ここにもいないのか?」

 メモ帳に記された地図に印をつける。メモを閉じるときに出るのは嘆息。

 彼の手帳には『トラベラー』たちの出入りするアクセスポイントが記されているが、それがおそらく他者と違うのは、未帰還者数が詳細に記されているところだろう。

「相手は移動するのか?」

 そんなはずはないと、サングラスを指で押し上げながら独りごちる。

「アクセスポイント間の移動には外の世界に出るしかない。とすれば、全てのアクセスポイントにいるのか?」

 バカな、と彼はうめいた。だとすれば、どうして多くの『トラベラー』が帰還できるのだ。

「あちらの世界でもそのような存在は認識されていない。……当たり前だがな」

 そもそも『異界』同士をつなぐアクセスポイントの原理や、『トラベラー』や『能力者』がどうして『異界』へ行けるのかは、誰にも解明できていないのだ。

 そのとき、男の脳裏に一人の元気娘が浮かんだ。

「久々のこっちの世界だ。顔を出しに行くか」

 

Ayaka

 『異界』をつなぐ通路―――アクセスポイントでの負傷者というのは稀みたいだ。負傷した人たちは、アクセスポイントがそもそも得体が知れないんだから、空間の歪みにでも触れたんだろうとか言ってる。

 『異界』で何かに巻き込まれて行方不明になる『トラベラー』も多い。まあ、だから『トラベラー』同士の救援なんかもある。『異界』の詳細な地図も結構ある。こちらと似た世界だと、地図を売ってるトコもあるし。

 でも、もしかしたらこのアクセスポイントもマズイんじゃないのかな。

 夕方、客入りが落ち着いた頃、カラコロンとドアが開く。かすかに、あの気分が悪い気配がした。

「いらっしゃいませ」

 相手は相変わらず表情が読めないが、ここのとこ現れなかった徳田さんだった。

 いつものようにスツールに腰掛け、飲むのはキリマンジャロ。

 いつも通りの徳田さんだ。じゃあ、この気配ってなんだろう。来るたびに濃くなってきているような。

 これも、『異界』に関係しているんだろうけど、何でだんだん感じ方がキツクなってるのかな? いくらなんでもおかしい。他の人と感じ方が違いすぎる。

 その徳田さんが鞄から包みを取り出して、差し出してきた。私、目をパチパチさせて包みを見る。

「またいつものボケかい?」

 徳田さん、人をからかっている。ボケてないもん。

「マ、開けてごらんよ」

 言われるままに空けてみる。中から出てきたのは不思議な色の石だった。エメラルドでもないし、角度を変えてみるとルビーみたいな色も出す。

 私、あまりに不思議な色のショーに見入ってしまった。

「確か、先月誕生日だったね。向こうの世界で面白い石を見つけたんでね」

私、また目を瞬かせる。へ、誕生日?

「徳田君。よく覚えていたね」

 マスターも石の光が気になるのか、カウンターから覗いている。

 ……私だけなの。誕生日忘れていたの? っていうか、マスターも覚えているなら、プレゼントぐらいくれてもいいのに。

「ありがとう。こんなきれいな石貰えて嬉しいです」

 私、両手で徳田さんの大きな手をギュッて握った。徳田さん、空いてる手でサングラスを押し上げる。

 もしかして、徳田さん照れてるのかな? だとしたら嬉しいな。あれ、私も何考えているのよ。

 キリマンジャロが空になると、徳田さんはいつものように情報をプリントアウトした紙面を持って行った。

「ありがとうございました」

 そう言う私のスマイルは、営業用なんかじゃない。

 徳田さん、私のこと気にかけてくれてたんだ。そう思うと思わずニヤけてしまう。

 あれ、だからなんでそうなるんだろう? おかしいなあ? 

 その日、パソコンで情報を整理していて思い出した。徳田さんにアクセスポイントのこと聞こうと思っていたんだっけ。

 今度いつ来るのかなあ。

 

Others

 扉と扉の間は漆黒の闇。人間が持ち込む光の類はすぐに吸い込まれる。

 光が見えないまま延々と歩き続けるときもある。

 それが長いか短いかは、そのアクセスポイントによる。

 そして、その闇から抜け出せるかも……場合による。

 

Ayaka

 マスターも休みをくれることぐらいはあってもいいんじゃないかなー、とか思っていた八月のある日だった。

 正月以外は年中無休の『 Earl 』に「臨時休業」の札が掛かっていた。掛けたのは私。

 マスターもカゼを引くことぐらいあるんだなあ、などと感心したりする。

 他人の不幸につけこむようでなんだけど、嬉しかったりする。たまには昼間に出歩きたいと思うもん。

 夏空の下ってのはやっぱり暑いなあ。若いのにこの感想はマズイと思うけどね。私ってば、そこら辺のキャリアウーマンよりも労働してるんじゃないのかな。

 でもなあ、外に出てもウィンドウショッピングぐらいしかしてないんじゃあ、夜出歩いているのとたいして変わんない気がする。

 一緒に出歩く男の人もいないんだもんね。あーあ、寂しい夏だわ。

 そう思いながら歩いていると、またあの気配がした。何かと思って周囲を見ると、通りがかった軽食屋の中に知ってる人。

 迷わず入って声を掛ける。

「徳田さん」

 私が声を掛けると、少しびっくりしたみたいだった。いつもみたいに、サングラスの位置を直している。

「綾香君か。昼間に外出とは珍しいね」

 言いながら、手で向かいに座るように勧めてくれる。

「マスターがカゼ引いちゃって、休みなんです」

 応えて徳田さんと向かい合う形で座った。ウェイトレスさんにミックスサンドとアイスティーを注文する。確認して、少々お待ちくださいと言って立ち去る後ろ姿を見て、あんなにスラッとしててキレイだったらなあ、などと思ったりする。

「ま、いつも働き詰めなんだから、たまには休めばいいんだよ」

 私、水を飲みながらどっちに言ってる台詞かなあ、とか思ってみたり。

「綾香君、まだ若いんだからさ。マスターも休みぐらい出せばいいんだよ」

 私に言ってる。とか思って嬉しくなったら、同時に照れくさくて、口にしてた水をコクコク飲み続けてしまった。飲み干して少しは落ち着いた。

「この間は本当にありがとうございました」

「お礼なんていいんだよ。ただの石なんだからさ」

 でも、覚えてもらえてることが嬉しいんだけどな、とか思う。それにくれたの徳田さんだし。

 さすがに恥ずかしくて言えないけど。

 あ、大事なこと思い出した。

「そういえば、徳田さんは何で『異界』に行くんですか? 前に聞いたときは答えてくれませんでしたけど」

 単刀直入すぎたかな。徳田さん黙っちゃった。

 うう、気まずいよう。こうなったら、全部言っちゃったほうがいいかなあ。

「それと、最近『トラベラー』の人たちに異様な気配を感じるんです。だから、どうしても気になって」

 そしたら、徳田さんが反応した。

「どういうことだい?」

 質問してるのこっちなのにい……っていけない。プラス思考が大事だね。

「特に怪我をした人たちからは強く感じられて、ひどく気分が悪くなるときがあります。調べてみると、みんなアクセスポイントの中で怪我してるんです」

「やはり」

 徳田さん、今にも身を乗り出してきそう。表情もこわばってきている。

 徳田さんが探してるものって、もしかして今の話が絡んでる。私の勘も捨てたもんじゃないなあ。

「あ、すいません。この人にチョコレートパフェを」

 通りがかったウェイトレスさんに追加注文。そんなことしなくてもいいのに、とか思っても止めない私。だって好物だし。

 あ、これも覚えててくれたんだ。

 徳田さんがこちらに向き直ると、私は切り出してみた。

「それと、徳田さんは怪我してるわけでもないのに、その気配が強くなってる気がするんです」

 徳田さん、サングラス越しだけど視線を外した。なんとなくわかった。だから、聞くべきだと思った。

「一体、何を探しているんですか?」

 徳田さん。また黙ってしまう。そこに頼んでいたメニューが届く。私がサンドイッチに手をつけると、大きく息を吐き出した。まるで観念したみたいに。

「これは、マスターにしか言ってないんだ。絶対に口外しないと約束してくれる?」

 私、サンドイッチを口にしたまま、コクンと頷く。ちょっと間抜けに見えるかも。

 徳田さん、少し気が抜けたのか、背もたれに寄りかかる。要点だけかいつまんで話してくれた。

 『異界』に行ったまま帰らない友達がいること。その人を探し続けていること。そして、『異界』じゃなくて、アクセスポイントになにかあるんじゃないかと睨んだこと。『トラベラー』がアクセスポイントで遭遇する原因不明の現象。これは絶対に何かが潜んでいるんだと確信しているらしい。

 でも、その話を聞いて直感した。

 だからだ、だから徳田さんには異様な気配がまとわりついてるんだ。このままじゃそのうちに……。

「止めたほうがいいです」

 確かに友達は大事。私も目の前で殺されたんだ。アイツ死刑にしてほしいって今でも思ってるもん。気持ちはわかる。

 でも、それで自分になにかあったらどうするの? 

これ以上大事な人がいなくなるのなんて嫌だ。

 だから私、思ったまま言った。

 でも、徳田さんは頷いてはくれなかった。

「いや、その気配が私についてるということは、相手に近づいてるわけだ。ここで止められない」

「だから、危ないって言ってるじゃないですか」

 ちょっとムキになった。いけない、ケンカしたいわけじゃない。落ち着かなくちゃ。

 アイスティーを飲んで気を落ち着ける。

「私の能力なら大丈夫さ。キミも知ってるだろう」

 徳田さんの能力は聞いたことがある。確か『 replace 』。自分と相手の位置を入れ替える能力だったかな。かつて銃殺されかけたときに発現したとか。

 気がついたら、発砲した相手が血溜りの中に倒れていたって聞いた記憶がある。

「相手を必ず突き止めてやる」

 徳田さん。友達の生存は信じてないみたいだ。これじゃ、まるで敵討ちみたい。徳田さんの勘が外れてる事だってあるはずなのに。目的がズレてきていない?

「その、何度も言いますが、止めたほうが」

「なぜだい?」

 徳田さんは穏やかに言ってくるが、口調は強く感じた。別に自分が負うリスクはどうでもいいみたいに。

 いい加減わかってよ。

 またイライラしてきた。

「危ないし、第一、能力が通じる相手かわからないじゃないですか」

 徳田さん、今度は黙っている。向こうもイラついてるかもしれない。少し言い方を変えなきゃ。

「じゃあ、せめて誰かと組んだほうが」

「駄目だ。人を巻き込めない」

 強い口調で言われた。さすがにムッときた。

 ん? 巻き込めない?

「それって危険てことじゃないですか。だったらなおさらです」

「だから巻き込みたくないんだ」

「なら止めてくださいよ」

「それはできない」

「徳田さんのわからず屋!」

 私、バックを掴んで立ち上がる。ウェイトレスさんがチョコパフェを持ったまま、困惑していた。その横を抜けていこうとして立ち止まる。

 バンッ、と大きな音を立ててさっきまで食事をしていたテーブルを叩く。夏目のおじさんを二枚置く。

「それで十分でしょ」

 悔しくって、悲しくって、逃げるようにその場から立ち去った。

 

Others

 徳田は、鳴島と口論になった後も探索を続けていた。時折『 Earl 』に行くが、気になるのは鳴島が不在の日が目立ち始めたことだ。

「わからないんだ。彼女、最近やたらと外に行きたがる」

 晴山の言う外が、『異界』だということは間違いない。徳田は自分を止めようとしながら、鳴島が『異界』へ行こうとする理由がわからなかった。

 『 Earl 』以外の自分たちが集まる店で、『トラベラー』の専用サイトを覗いて見たとき、徳田はしまったと遅ればせながら頭を抱えた。

 キャットというハンドルネームは鳴島のものだ。その名前が募集している情報には、

「アクセスポイントに関して

 @何かに襲われた経験のある方

 A中で能力を発動させた経験のある方

 B毎回通る際に感じた変化(些細なことでも)

 Cその他何か感じたり、意見をお持ちの方

 情報をお待ちしています」

 晴山の話と合わせれば、自分と同じものを追っているとしか解釈できない。

「止めなくては」

 徳田は、ページを閉じると店を後にした。

 

 その日『 Earl 』へ行くと、客がちょうど出て行くところで、一段落した鳴島はパソコンに向かっていた。

「綾香君。話があるんだが」

 徳田が言いつつ、カウンターから身を乗り出し覗いた先には、他の『トラベラー』たちとの情報交換を行うページが表示されていた。鳴島は即座にディスプレイの電源を落として、むくれていた。

「綾香ちゃん。店のほうは落ち着いたから、今日は上がってもいいよ」

 晴山のカウンター奥からの声に、鳴島は徳田を無視して行こうとした。徳田が肩を掴むと、振り返らずに、

「外で待っててください」

 ただそれだけを言い残して店の奥に行ったので、徳田は外で待つしかなかった。

 待つことしばし、鳴島はまだ怒っていて、まともに視線すら合わせないが、徳田に会いに来た。

「綾香君。率直に言うが、君はこの件から手を引くんだ」

 そう言うと、鳴島はますます意固地になるようだった。一度睨みつけると、また視線を外し黙り込む。

「綾香君」

 徳田が困り果てた様子で言うと、鳴島はやっと口を開いた。

「徳田さんが手を引かないなら、私も引きません」

「そういうわけにはいかない。頼むからわかってくれ」

 鳴島は、徳田の胸を何度か叩くと、そのまま顔を押し付けてしばらく沈黙した。蝉の声だけが耳障りに奏でられる。

「わかってくれないの、徳田さんじゃないの」

「君に教えなければ良かったかもしれない。とんだことに巻き込んでしまった」

 徳田は心底心配して言ったことだったかもしれないが、それは鳴島にとってはあまりにツライ言葉だった。

「そんな言い方ないじゃない。何でわかってくれないんですか!」

「え?」

 徳田はその剣幕に押されたのではない。鳴島は泣いていたのだ。その理由を徳田は察することができなかった。

「大っ嫌い!」

 そう叫んで駆け出す鳴島を、徳田は止めることができなかった。

 

Ayaka

 徳田さんのバカ。大バカ。何で私の気持ちをわかってくれないのよ。

 だったら、私が捜査し続ける。正体さえ突き止められれば、徳田さんは危険な目に遭わなくて済むはずだから。

 それに、もし徳田さんが私の事思ってこの件から引いてくれるなら、私の方選んでくれたってことだよね。

 ここ最近、『扉』を潜るようになって思う。

 アクセスポイントは本当に怖い。入れば光さえ掻き消される闇なんだ。

 そして、今潜ってきた『扉』の闇を閉ざす前に一度見てみる。

「なんだろ? やっぱりおかしい」

 何かが私を見ているような。引き込まれそうな感覚。

 あの暗闇のせいなのか、やっぱり意志を持った何かがいるのか。でも、何かと遭遇したわけでもない。

 潜っているときは『 sharp eye 』を発動させて、全ての事象を完全に記憶しているけど、有力な情報は何も存在していない。

「わからないなあ」

 何度目になるかわからないため息が漏れる。後ろで『扉』が閉まった音がした。

 

Others

 徳田は一種の嫌悪感に囚われていた。鳴島の説得に失敗して以来、彼女の尾行を続けていたのである。探偵としての彼の能力からすれば容易いことであったが、やはり自分がしていることへの嫌悪は避けられない。

 しかし、もし彼女の身に何かあればと考えると、やはり『扉』を潜る際に見守っていたほうがいいと考えての行動であった。

 もし何かあれば、自分が身代わりになればいい。

 徳田は、この時点で大きな過ちに気付いていなかった。それは、彼が自身の目的をすでに見失っていたことである。鳴島の身を案じて後をつけるなら、それは本末転倒と言える。それならば、最初の目的を諦めて、そのことを鳴島に話せばいいだけなのだから。

 二人のすれ違いは大きすぎた。

 

Ayaka

 今日も早めに店を上がらせてもらえた。今回は海辺の廃屋にあるアクセスポイントへ行ってみよう。とりあえず、当たれるところは全てやってみないと。

 蒸し暑いな、と思ってたら風が出てきた。雷かな? 空を見上げると透き通った青空に雲が掛かりはじめていた。

 いけない、急がないと降られるぞ。

 ちょっと急ぎ足で向かった廃屋の周囲に人影はない。

 『扉』を開けたときの中の空間って、普通の人には見えないんだけど、さすがに人が消えたらビックリするだろうからね。

 思い切って開けてみる。ちょうど、中に入るのと雨が降り出すのが同時だった。危なかった。

 さーて、能力を発動しますか。これ使うと反応が鈍くなるのが難点だけどね。

 ちょっと進むと、自分の足元さえ見えなくなる。あ、そういえば『扉』閉めてないや。ま、いいか。どうせ普通の人には見えないんだから。

 まだ自分が入ってきた『扉』の光は見えている。それほど進んでない証拠だ。

「あ、れ?」

 なんか空気がおかしい。何? 何よこれ?

 急に気持ち悪くなってきた。周囲の闇が自分を包んで、まさかこれって……。

 ちょっと待ってよ。

 あ、あれ、胸が苦しい。気のせいかな、息も荒くなってきたような。

 一瞬、能力発動中で感覚の鈍っている私にもわかる激痛が走った。見ると、服やジーンズのあちこちに鎌で切りつけられたような線が無数に走っていた。そこから血が流れ出す。

 さすがに命の危険を感じた。もと来た道に駆け込もうとする。けど、能力発動中で思うように身体が動かない。それに空気もどんどん重く……。

「ヤダ。た、助けて」

 ダ、ダメ。声がかすれる。

 無駄とわかっても諦められない。あの時と同じ。あの雨の日と。だから、死にたくないから、叫ぼうとした。

「誰か。誰か助けて!」

 こ、声が出た。け、けど、それでどうしろっていうんだろ。う、た、立ってられないよ。

「きゃう」

 顔に激痛。額や頬から血が流れ始めた。お、女の子の顔に傷つけて……こんな風に思うのって、もう諦めてる証拠かな。

 ごめんね。

 思い浮かんだ人に謝る。ケンカなんてしなければなあ。

「綾香君」

 え、今、徳田さんの声が聞こえたような。

 そう思った次の瞬間、私は廃屋の『扉』に向かって立っていた。脱力感が身体を支配していて、そのままへたりこむ。下は水溜りになっていた。バシャって音とともに泥水が跳ね上がって私を汚す。外は土砂降りだ。

 雨で額の血が流され、私の視界を紅く染め上げる。

 なんでこんなに感覚は明瞭なの? あ、能力を発動中だからだ。え、でも、でも何で私はここに?

 立つことすらできず、ただ能力を発動し、全ての事象を正確に記憶しながら、『扉』を凝視している。

 あ、れ? 徳田さんの能力。だから私、ココにいるのかな? あれ、ダメ。全然考えがまとまらない。

 『扉』の奥から、パンパンって乾いた音がした。そうだ、徳田さんって拳銃を持ってた。『異界』での護身用に。

「……ぐあ……あ……ぎ」

 え、今良く聞こえなかった。あれって、悲鳴。

 あ、ヤダ。ヤダよ。き、記憶に全て残っちゃう。た、助けなくちゃ。あれ? 身体が動かない。あ、そう、そうだ、能力を切れば。

 能力を切った直後、私の頭に悲鳴が響いた。

「徳田さん!」

 私の叫びは闇に吸い込まれ、返る声はなかった。

 風で扉が閉まり、何も無かったかのように、雨が廃屋と私を叩きつけた。


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