【象牙の塔】   著:タラ・協力/水谷範子
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 ゆるしてもらえなかったら、逃げようね。

 

 いつでも伊知子ちゃんは真ん中で、私といっちゃんの手を取っていた。

 高架下をくぐった向こうは、今やもうただの空き地ではなく、金網と有刺鉄線をもって大人の持ち物になってしまったことを主張し、頑ななまでに幼さの闖入を拒んでいた。

 呼吸などできないほどの草いきれに埋めつくされていたはずの、あの場所は、よそよそしく均された地面の他に何も見当らなくなった。いっちゃんの蹴り入れた炭酸飲料の空缶以外は。

 無理だよ、といっちゃんが責任逃れ半分、申し訳なさ半分に口を尖らせる。「それにあんな缶もうどうでもいいよ」

 だめ。伊知子ちゃんは真新しい金網を見つめながら断言した。大丈夫、ちゃんと気をつければ越えられる。

 その日私は、買ってもらったばかりのスカートを危険にさらすようなことはしないと心に誓っていたのだが、伊知子ちゃんは私にとって絶対だった。ましてや空缶などどうでもよく、彼女が行くならついて行くだけのことだった。 

「違うの探そうよ」

 渋るいっちゃんを尻目に、伊知子ちゃんは網に手をかけた。私も後に続く。その奥では鳩がのんびりと禿げ上がった土地を歩いていた。

 見つかったらどうするんだよ、といっちゃんは置いて行かれた格好に慌てている。その様子に私はほんの少し優越感を抱いた。

「怒られるよ、伊知子ちゃんもさーちゃんも」

「そうしたらあやまるもん」

 どうしてこの伊知子ちゃんの弟のくせにそんなに意気地がないの、という嘲りが聞こえてしまいそうな私の声に、いっちゃんは眉を吊り上げる。

「謝ってもダメだったら? 絶対叱られるんだ」

 すでに半分の高さにまで登っていた伊知子ちゃんが足を止めた。

 私たち二人を見下ろして、その時彼女が実際に口にした言葉はもう覚えていない。

 ただ振り返った伊知子ちゃんの笑顔の見事さに鳥肌が立ったことや、いっちゃんが無言でフェンスに伸ばした細い腕、そのはるか頭上に鉄製の鳥が残した白色の二本線、纏わりつくぬるい熱の生々しさといったもののすべてに、どうしようもなく安心していたことだけは確かだった。

 

 

 今日もいっちゃんは早起きだ。

 往復する手間を惜しみ、長身の彼の腕にも有り余る大きさの金ダライに水を限界まで張ったものを縁側に置く。それから雨ざらしのサンダルをつっかけて、これも無造作に庭に放り出したままの杓を拾い上げて水を撒き始める。

 庭は、植木から雑草まで規則性の欠片もない花々で溢れていた。

 根が強すぎて他の草花を枯らせてしまうものや、土の質が良くなければ絶対に育たないといった類の品種でさえ、ここでは地面において共生している。その有り得ない花園の正体は、何のことはなくそれらのすべてを植木鉢ごと地中に埋めているだけなのだ。

 そして投げやりとしか思えない様子で水やりを一日二回、朝夕欠かさず行なうことだけがここ三、四年の彼の日課だった。どんなに定職を嫌うがゆえの不規則な生活サイクルにあっても、彼はこれだけは怠けることを知らず、ほとんど強迫的に見えるほどその時間帯も同じで、おかげで残業明けにもかかわらず私も朝陽を拝むはめになってしまった。

 六畳の部屋にはいささか不釣り合いな割合の出窓から見下ろすいっちゃんは、まるで壁に掛かった能面のように表情がない。

 思い出すことができるのは制服を着ていた頃の声まで

で、今や隣に住んでいることすら嘘のように現実味がなく感じられる。

 均等に水をやり終えたいっちゃんは、大義そうに腰を折り曲げながらタライを逆さにして残った水を捨てる。

 杓で二回底を鳴らし、それを放り投げるついでのように顔を上げた。目線が合っても何の色も浮かべずに、そのまま部屋へ戻って行くいっちゃんを見送って、私も窓を閉めた。

 いっちゃんにとって私は、昔から存在を認知してはいても独立した個ではなかったし、私にとってのいっちゃんも似たようなものだったので、とくに干渉などしようとは思わない。けれど、この気味の悪い庭だけはどうしても我慢ならなかった。やけくそのように増加の一途をたどる花も、その下に強引に埋葬された容器も、何もかも気に入らなかった。そしてその作業だけのために息をするいっちゃんも。

 

 少し早い時刻ではあるが寝直す勇気もなく、台所へ降りていくとこれも早起きな母親の背中が迎えてくれた。

声をかけるのと同時に振り返る笑顔にどことなく影が落ちているのに気がつく。

「どうかしたの」

 冷蔵庫から麦茶を出し、私と自分の分を注いでから母は重い溜め息を吐いた。

「昨日聞いたんだけど、お隣のいっちゃんね、またお仕事やめちゃったのよ。これから暑くなるからそろそろだとは思っていたんだけどねえ」

 せめてお父さんかお母さんのどちらかが生きていればねえ、と視線を投げ捨てるようにして昔を思う母は、いっちゃんのことを実の息子のように可愛がっていたし、今でもおそらくそうに違いない。

「心配?」

「……本当にあんたは。昔はあんなにいつもくっついて回ってたくせに、薄情なんだから」

 軽く机を指先で叩きながらの苦笑に私は失笑を返す。薄情? 冗談じゃない。

「そんなの全部いっちゃんが馬鹿だからじゃない。だから伊知子ちゃんにも捨てられるのよ」

 佐穂、と厳しい声に制されて終わりの方はほとんど言葉にならなかったが、それでもよかった。言いたいのは母にではない。

 硬い表情のまま話をそらす彼女に従うようにして、早い朝食を摂り家を出ることにした。頭の内側深くでは、暗色の水面がいまだしつこく揺れている。

 

 

 海が見たいという口実で車を出させた。

 十五分弱の沈黙の道行きの後、窓を開けると潮の匂いと波の音。

 後からついてくる足音を無視したまま岩場に降りる。

「ひとつ聞いていい」

 低い声は、かろうじて色の判別がつく遠さの船に向かって私をすりぬけた。むしろ気持ちがいいほどに。

「何が悪かったの」

 さあ何が悪かったのだろう。考えることはいくつもあった。同じことを聞けるものなら聞いてみたいが、その無意味さも知っている。

 足下に散らばる藻屑はなんて簡単に振り払えることか。

「思い当たることがあるの?」

「あったら聞いてないよ」

「それなら私の自分勝手ってことにしてくれていい」

 なんだよそれ、と尖った呟きが身に刺さる。本当にそう思う。けれどもここでは彼の存在が雑音なのだ。

 肌に触れる飛沫はいちいち生温く、水底の暗さを思わせた。

 きっとこんなに風もなく、硬質で、拒絶することしか知らない、その光景を私は覚えている。

 置いていっていい。図らずも懇願の響きを含んだ私の拒絶を、数時間の猶予をもって彼は拒否した。

 帰り道にも言葉はなかった。

 

 耳に海鳴りを残したまま家の手前で彼と別れ、そういえば今日は誰もいなかったことを思い出した。鞄の中の鍵を探していると、薄暗がりに人影が背後を通り過ぎる。

 隣に用だろうかと鍵を回しながら目を向けると、相手もこちらを見ているようだった。次第に目が慣れてその顔が確認できると同時に、驚くほどあっけなく手の力がするりと抜けた。

 そんなはずがない。けれども口は、伊知子ちゃんの名前を呪いのように洩らす。

「サホちゃん?」

 ガラス越しの海の底が脳裏を行き過ぎる。

 気がつくと、私はいっちゃんの名前を半ば叫ぶようにして呼んでいた。後から考えれば、直接彼をそうして呼ぶのも実に四年ぶりで、電気も点いていなかった家から顔を出した彼は心底驚いていたようだった。

 そして彼女の姿を見、一瞬だけ全身を硬直させた後で「違う」と鋭利にも吐き捨てた。

 恐ろしい勢いで扉を閉ざしたいっちゃんの残像を追うように、私たちはその場に立ち尽くした。 

 

 明るく賢かった伊知子ちゃんは、どこかで何もかもに絶望していた。そしてそれをひた隠すのに必死だった。大人は誰一人として気がつかず、私といっちゃんだけが知っていた。

 けれど私は舟の上から手を出すにとどまり、いっちゃんのように飛び込んでいこうとはしなかった。一緒に溺れて沈んでしまうことがわかりきっていたからだ。

 それでも結局のところ、海底に置き去られたのはいっちゃんの方だった。

「サホちゃんでしょう? それで今のがイチヤ」

 違う、といっちゃんが言ったそのままに私も思う。

 両親が法事で留守のおかげで、何の言い訳も必要なく彼女を家に招き入れられることだけが救いだった。とりあえず落ち着いて向かい合うと、確かに外見は伊知子ちゃん そっくりなのだが、周囲にある空気が完全に違っていた。イト、と名乗ったこの人の方がざらりと強い圧迫感を受けるのだ。そしてそれが、伊知子ちゃんを知る私たちにはとても不快だった。

「伊知子ちゃんを知っているんですか?」

 私はあえて聞いた。動揺していたはずのいっちゃんが、それでも瞬間的に断言できた根拠はその声だったからだ。いくらか伊知子ちゃんよりも低くはっきりとした発音の彼女の声に慣れることで、早く「伊知子ちゃんではないこの人」を確信したかった。

「私たちの所によく遊びに来ていたから。そういう話は聞かなかった?」

「伊知子ちゃんが、違う場所に時々行っていたのは知っていますけど」

 危ないから止めなさいと、厳格だった両親によく注意されていたのを思い出す。伊知子ちゃんが唯一、私たちを連れて行けなかった所。その術を持たない私たちを置いてでも、危険さえ厭わずに行きたいと望んだ所。

 帰ってきても、そこについて話してくれることはついになかった。

「どんな所なんですか、イトさんたちがいるのは」

 少し考え込んで彼女は眉を寄せた。黙ってしまわれると、まるで伊知子ちゃんが私の部屋に遊びに来ているようで、その既視感に軽い眩暈を覚える。

「私は感じたことがないけど、イチコがよく言っていたのはここと比べて決まりごとの方向性がないみたい。……ああ待って、違うわね。モラルって言ったかしら。それがないって」

 わかったようなわからないような、今いち納得のいかない説明に困惑してしまう。「あとは?」

「あとって?」

「その他に何か、特徴としての違いはないんですか? 社会的なシステムとか、生態系とか、そういうものに」

 再び口を閉ざした彼女は、たっぷり思考の海に沈んだ後で首を振った。「思い当たらないわ」

 だとすると伊知子ちゃんは、何のためにそこへ行っていたのだろう。他の場所にも行っていたとしても、イトさんはよく来ていたと言った。少なくともそこの何かが必要だったのには違いない。

 すっかり冷めてしまったお茶を一口飲んで、イトさんは窓の外を眺める。目線の先にはいっちゃんの庭が横たわる。伊知子ちゃんが見たことのない捻れた庭。

「……伊知子ちゃんは元気ですか」

 目を眇めるようにして彼女は頷いた。

「サホちゃんのことをとても心配しているわ」

 思わず湯呑みを取り落としそうになり、慌ててお盆に戻す。本当に?

 真正面からイトさんを見据えると、彼女は伊知子ちゃんの顔で違う笑い方をする。

「お隣のサホちゃんは妹のようなものだからって、いつも言うのよ」

「嘘よ」

 背中で何かがはじけたかと思うほどの熱が、体の真芯を通過した。

「イチヤといいあなたといい、決めつけるのが得意ね」

 苦笑を洩らすイトさんが歪んでいく。悔しさが眼球に集中して込み上げた。

「帰ってこないもの。伊知子ちゃんはあの人と一緒に海でいなくなったもの。私たちのことなんて放り捨てたまま思い出しもしないのよ」 

 唇を小さく動かしかけて彼女は何か言おうとしたが、肩をすくめてそれを止めた。

「それはそう思わせるイチコが悪いわね」

 そして腰を浮かせたイトさんが、もう一度窓の方を向いたちょうどその時に、縁側からいっちゃんがタライを腕に出てくる音がした。顔を拭い、私も立ち上がる。

 暗闇の中、手探りで杓を捜すいっちゃんをイトさんは興味深げに見つめている。その横顔はやはり私がなりたかった人そのもので、余計に悔しさが募っていくのを感じた。

 眼下ではようやく杓を見つけ出したいっちゃんが、いつものように水を撒き始めていた。どう見ても花に水をやっているようには思えないそのあまりのいい加減さに、しばらく閉口していたイトさんが私を呆れた顔で振り返る。

「……あんなのでよく育ってるものね」

 あ、と思う暇もあらばこそだった。

 耳聡いいっちゃんが顔を上げるのがやけにゆっくり感じられる。

 私の後ろで、卓上用のスタンドが派手な音を立てて割れた。その突然の襲撃に、先に我に返った私がカーペットの床に転がっている杓を認めるのと、金ダライも外に出したままいっちゃんが障子の奥に消えるのがほぼ同時だった。

 やっとのことで事態を把握したイトさんが苦々しげに、「何も投げつけなくてもいいじゃないよね」と呟くのを、蛍光灯の破片を拾い集めながらうわの空に聞き流した。 

 

 小さい頃から伊知子ちゃんになりたかった。

 一度だけ、それを本人に話したことがある。理由を聞かれて誇らしげにも言ったものだ。

「だってね。伊知子ちゃんは頭がいいし、やさしいし、みんなに好かれているから。足りないものなんかないでしょう」

 当然喜んで貰えるものだと思っていたのだが、意に反して伊知子ちゃんはその整った顔を曇らせた。

「ちがうの?」

 どうかすると泣きだしてしまいそうな彼女を焦って見上げると、逆に伊知子ちゃんが身を屈めて私を仰ぎ見る格好になる。私の両腕をやわらかく掴んで、「私はさーちゃんになりたいよ」と笑ってくれた。

 お世辞とも知らずに単純に嬉しかった私は、じゃあ交換できたらいいねなどとのんきに言った。頷いた伊知子ちゃんは、今思えばとても切実だったのかもしれない。

 

 イトさんはその日から何をするでなく、いっちゃんの庭を見に毎日訪れた。会う人会う人に伊知子ちゃんと間違われては、従姉妹だの他人だのと説明するのに疲れるとこぼしていた。どちらでもないくせにと皮肉を投げると、いっそこのまま本人に成り代わって住み着いてやろうかなどと笑えない冗談を口にした。

 いっちゃんはそんな彼女を完全無視で貫き、それでなくても細すぎるその身体から一層肉を削ぎ落とすことになってしまい、今では精悍を通り越してみすぼらしいほどだった。

 私はというと、時期的に仕事が忙しく帰宅も遅くなりがちな毎日の中で、いつの間にかイトさんがいる状況に慣れてしまっていた。

 たとえ見た目が同じでも、中身が違うとまったくの別人として脳の中で整理できてしまえるものだということを体感し、私は高校生の頃に読んだ多重人格の犯罪者についてのノンフィクションを思い出したりした。

 なんだか何もかもどうでもよかった。

 妙なことに、私はそれまでの現状に満足していたようで、イトさんが何の目的でここへ来たのかも、彼女と伊知子ちゃんの関係さえも聞き出そうとはしなかった。

 もしかすると、救いようもなく子供じみていることだが、一人でそっぽを向いたまま自分勝手に拗ねていたのかもしれない。これも我侭な彼女たちに対して。

 

 じっとりと絡みつく熱気を押し分けるようにして家に帰ってくると、今日もまたイトさんがいっちゃんの家の前に立っていた。こんばんはと声をかけると、まったく気付いていなかったようで目を丸くされてしまう。腕時計を見ると夜の水撒きにはあと少しだったので、彼女の横に並んでみた。背はあまり変わらない。

「イトさんは、この庭のことどう思いますか」

「……どうって?」

 唐突な質問に口ごもりながら彼女は私を見る。私は、ついこの間までつき合っていた人のことを話した。

「その人がここをいい庭だって言ったから。私はそれが本当に理解できなくて、だから他の人はどうなのかと思って」

 すると彼女は、なぜかやたらと嬉しそうな顔をした。

「そうね。病的だと思うし、あの子自身がきっと意図的にそう作っているから、さーちゃんは気に入らないわね」 確かにそうだと思った。いっちゃんは、造りものの海で一人、自ら溺れたままでいる。それは偏執的なまでに見事に。

 五分とたたず、ここからだと向かって左側に見える縁側から金ダライが姿を現した。それを支える半袖の腕はわずかばかりの筋肉しか残さずに、節々が痛々しいくらいに目立っている。その貧弱な手がコップで水をすくっては撒き散らすのを見て、杓を返していなかったことに今更ながら気がついた。

「イトさん、私、杓を取ってきます」

 小声で一応断ったが、返事もせずにいっちゃんに視点を定めて動かない彼女をその場に置いて、急ぎ足で部屋へ駆け上がる。しかし考えてみれば、わざわざこちらから返してやる義理もないはずなのだが。

 部屋の明るさに目を眩ませながら戻ってみると、イトさんはすでにいなかった。まったく勝手な、と冷めた頭で考える。

 あの顔の人はみんな私を置いていくのだ。

 構う事無く門扉を開き、近付く私を気付かないふりで無視するいっちゃんの鼻面に杓を突き付ける。

「お返しします」

 暗い目が、勝手に入ってくるなと言外に語っているがこの場合は完全にこちらに分があった。仕方なく杓の柄を握り、そのままそれでタライから水をすくおうとするいっちゃんが、その時ひどく惨めで腹立たしく思え、思わず地団駄を踏みたい衝動に駆られる。私はすぐ横にあった金ダライをその場でひっくり返し、半分近く残っていた水を全部ぶちまけてやった。

 これにはさすがに度胆を抜かれたらしいいっちゃんの顔に、久しぶりに表情らしい表情が浮かぶ。何を、と言いかけた彼に先んじて私は口火を切った。

「私、本当は知ってたのよ」

 今度こそいっちゃんは目を見開いた。伊知子ちゃんによく似たその顔が先刻のイトさんと重なって、網膜の裏で波間に溶ける。

「伊知子ちゃんがいなくなった所。私、見てたもの。隣にいた人の顔も、いっちゃんも。だから知っていたの。たぶん伊知子ちゃんも」

 一面の青色の支配の中、あそこに捨てられたのは誰でもない、私だけ。ましてやいっちゃんでなどあるはずがないのに、そうしていつまでも。

 空っぽのタライを頼りのない体に押しつけ、言いたいことだけ言った私は庭を後にした。

 日増しに上昇する暑さにもかかわらず、それからしばらく窓は開けなかった。水音も届かない。

 

 

 もし私たちが、イトさんの言うような場所に生まれていれば何か違ったのだろうか。

 無数の方向性に知らず知らず拘束されている私には、そこがどんな所なのか想像することすら難しく、思いついてはその都度尋ねてみた。

「法律はあるけれど、破ったとしてそれに対する罰則がないの。まあ、大体にしてそういう人がいないっていうだけの話よ」

「じゃあ殺人とか強盗が一切ないってことですか」

「無いことは無いけど、その場合被害にあった人やその周囲の人間がまず間違いなく報復するでしょう? だからそれでも構わないっていう特異な人種しか、そういうことをしようとしないの」 

 ホウフクという単語がその意味とすぐには結びつかず、語感だけが上滑りしていった。

「後は例えば、これはイチコが言っていたことだけど、信号機があるでしょう。横断歩道で青になったら渡る。これは同じね。ただもし、自分一人で信号待ちをしていた場合に車がいなければ、まず渡るわよね。その時に、罪悪感を覚えるか覚えないかの違いだって言うのよ。それが悪いことだと思う感覚が、私にはよくわからないけれど」

 同じ理屈で、親は子供を自分の老後の為に育てるということや、誰にも危害を加えられないように危害を加えないようになるという行動原理を彼女は説いた。

 つまり究極的な合理主義というのか、徹底した損得勘定があらゆる物事の動機づけになっているらしい。

 引っくり返せば、損でなければ何をしてもいい所。

 ―――ゆるしてもらえなかったら……―――

 

 

 二週間ぶりの連休早朝、車で家を出た。

 陽が昇って間もないというのに、舗装された地面にこもった熱がすでに辺りを蹂躙しきっている。濃紺のペンキが触れると移ってしまうのではないかと心配になるほど最近に塗り替えたらしい柵に腕をかけたまま、しばらく放心する。どれくらいそうしていたのか、色とりどりの魚の絵が壁面を飾るその建物の奥から、軽快な足取りで予想通り彼女がやってきた。私に気がつくとゆったりとした動きで手を振って寄越す。

 私もそれに応えてから、表情がはっきりと見える距離まで彼女が近付くのを待ち、それから口を開く。

「イトさんが誰なのか、まだ聞いていませんでしたよね」

「当ててみて」

 柵越しに向かい合った私たちは、同じように右手だけをそれに預ける形で焦りを呑込んだ。汗が肌を覆う。

「あなたはあなたの所の『いっちゃん』でしょう。そしてあの人が『伊知子ちゃん』」

 目を細くして、「当たり」と唇だけで言うその横顔にわずかに澱の残骸を映しながら、イトさんは満足気に息を吐いた。

 扉の数だけ存在する魂の同胞は、同じ個体ではありえない。そう聞いたことがあった。そして、彼女たちの場合はさらに少し特殊だ。

「それから、イトさんとあの人も兄妹なんでしょう?」

 それでも身じろぎひとつせずに微笑んでいる彼女との国境が、人造の海を身の内に隠蔽するこの建物だった。

 

 その頃にはもうほとんど、伊知子ちゃんは人と会うことに倦んでいたので、たとえいっちゃんと一緒にでも外出するなどということは滅多に無かった。それに加えて単純極まりない私の嫉妬心が、バスに乗ってまで二人の後を追いかけさせたのだ。

「着いてみて、余計に腹が立った。どうして水族館に来るのに私も誘ってくれなかったのか、とても悲しかったんです。確かにその時私は高校の友達と遊ぶのに忙しかったけれど、伊知子ちゃんが声をかけてくれれば、半年前からの約束だって喜んで破ったのに。そう思って、結局中までついていったんです。そしてそこで、伊知子ちゃんはいなくなりました」

 巨大な水槽の中には深海にしか住めない魚が、暗い照明と人間の操作で騙され続けながら生きていた。その蒼白の世界に、伊知子ちゃんはいっちゃんを突き落とした。

 もがきながら自分を責めるいっちゃんを振り払って、彼女が足を踏み入れた途端に、かすかながらもその場所を覗き見ることができた。

 ここではない場所で伊知子ちゃんの隣に立っていた、あの人の顔はいっちゃんに酷似していた。

「私が隠れていた所からはよく見えました。少しだけ大人になったいっちゃんが、伊知子ちゃんを連れていったんです」

 もともと似ている姉弟、違う場所の当人同士が似るのは当然といえた。ましてや彼らも兄と妹だ。

 イトさんは、そんな私を哀れむように眺めた後で柵の隙間から腕を伸ばした。

「よくわかるわ」

 倣うつもりか、仕返すつもりか。

「いっちゃんを連れに来たんでしょう」

 焦げつきそうな陽射しが私たちを直撃する。そのしなやかな腕から逃れて、私は初めて『伊知子ちゃん』を拒絶した。

 どこからか漂流してきた本物の潮の匂いに、彼女はいくらか怯んだように見えた。

 その間に、私は身を翻し車に走る。

 

 

 ほとんどの道を制限速度オーバーで戻ってきた私を絶句させたのは、変わり果てた庭だった。

 無残にも土は強引に掘り返され、ところどころに覗く鉢と赤錆色の土はまるで骨と肉のようにも見える。あのタライが、端の方に立て掛けられて奇妙に荒れた庭を統率していた。花や草は、縁側の前で根ごと引き抜かれたままの姿で、折り重なって枯れるのをただ待ち焦がれていた。

 それらの光景のすべてに私は脱力感を拭うことができず、茫然と道に座り込みそうになると玄関が開いた。

 旅行鞄を肩から下げたいっちゃんは、私を軽く一瞥すると荷物を地面に置き、自分もその上に腰を下ろした。

 同じ目の高さのいっちゃんに怯えて私は俯きかけたが、これだけは言っておかなければならないと思い直した。

「本当は、嬉しかったんでしょう」

 自分を置いていく伊知子ちゃんが、あの人の隣に並んだのを見た時のいっちゃんは。

 あの顔は、いつかのフェンスを越えていこうとした時のそれと同じだった。絶大なる信頼と安心感。

 許されないことの実現をその目にした幸福感。

 いっちゃんは眇めた目を私に向けて、彼らだけの懐かしい呼び名を口にする。さーちゃんも来る?

 私は首を横に振った。いっちゃんは小さく笑って立ち上がった。

「じゃあ、あそこはやめとく」

 そしてそのまま、家を出て行って帰らなかった。

 

 

 

 

 

 窓から見下ろす無人の家の庭には、もう嫌悪感を抱くことはない。

 その代わりに沸き上がるこの感情は、もしどこかの私に会うことさえあれば、少しは分け合うこともできるのかもしれない。無力な私はそれを心待ちに、爪を立てながら海面をひたすらにめざす。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

        *

 ただね、と彼女は彼らに言った。

「許されないとわかっていても、二人に会いたかったの。私だけの、愚かで愛しい弟と妹」


【象牙の塔】   著:タラ・協力/水谷範子
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