【Gloom under the cherry blossom】 - 全章まとめ読み -
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Gloom under the cherry blossom
                                                      陽ノ下光一


 満開の桜よりも葉桜が良いと言ったのは誰だったろうか。高校の古典で教わった気がする。眼前の華美に惑わされず真実を見るということか? 


 しかし、やはりオレはそれでも美しく咲き乱れる桜が好きだ。散ってしまった桜の木に魅力などあるものか。
「ヤバッ! 携帯が無い……」
 オレは慌ててポケットを探るが、やはり無い。どこかで落としたのだ。
 慌てて周囲を見回す。満開の桜の木々の下で大勢の人間が騒ぎ立てている。いたる所にゴザやシーツが敷いてあり、そこを酒盛りの場としている連中が公園の各所を埋め尽くしている。コイツ等は酒を飲みに来たのか? 少しも桜に目を向けていない。
 不快さを感じたその時、風が吹いた。
 花吹雪が視界を埋める。
 綺麗だ。
 気付けば、先ほどの不快さが消えていた。
 桜のこの美しさはどう表現すればいいんだろうか?
 少なくともオレは作家先生ではないのでイイ表現は浮かばない。いや、誰にも表現しきれないんじゃないか? だから、ただ単純に『綺麗』の一言でいいだろうと思う。
「っと……桜に見惚れている場合じゃない」
 オレは再び携帯の捜索を始めた。といっても、同じような携帯は多くの人が持っているから、はたして見つかるかな。唯一つの手がかりは携帯の裏側にある友人たちと撮ったプリクラだが。
 ――― 一時間後 ―――  
 さすがに疲れた。この公園は一キロ四方もある大公園なのだ。桜の木だけでも千本にもなる。さすがにこれでは見付けようがないか。
 そうオレが諦めかけた時、視界の隅に一人の女性が入りこんだ。
 そこは、すこし周りより高く土が盛ってある場所で、桜の木が一本綺麗に咲き誇っている。ゴザなどを敷きづらい場所のため、そこだけがポッカリと穴が開いたようになっていた。
 そこから、どこか遠くを見つめているようだった。風に長い髪がなびいている。背も高く、目鼻立ちも整っている美人だ。
 オレは思わず見惚れてしまった。
 桜も美しくて表現できないが、この女性にもそれは当てはまる。
 綺麗? いや違う。そんな言葉では表せられない。
 オレがしばし見惚れていると、向こうもこちらの視線に気付いた。オレのことを見ている。
 しまった……変なヤツと思われたか?
 オレはバツの悪い思いをし、その場から立ち去ろうとした。
 「あーっ!」
 周りの人間が一斉にオレを見た。その女性の指差す先にいるのがオレだからだ。
 オレは恥ずかしさで顔を紅潮させた。なんで今日はこんなについてないんだと、内心悪態をつく。
 「やっぱりそうだ!」
 なんだ? オレは何に思われたんだ? まさかストーカーとか思われたのか?
 オレが内心で動揺しまくって動けないところに、その女性は寄ってきた。しかも、オレの顔を凝視している。 周りの花見客もオレを見ている。一体オレは周りの連中に何だと思われているんだ。
 そんなオレの動揺などかまわず、その女性はオレの顔を見ている。何なんだよ一体? オレがなにしたっていうんだ?
 オレの心臓はバースト寸前だった。
「あんた……」
 その女性は目を細め、腰に手を当て、覗き込むようにオレを見ながら言った。周りに余計誤解を生みそうだ。 「あんた……」
女性はバックから何かを取り出した。そして、
「これあなたの?」
 オレの目の前に突き出した。
 オレは、突然の事に自体を把握するのに数秒かかった。
「これ……あんたのじゃないの?」
 再度問う女性。
「あ、ああ。間違いなくオレの携帯です。ど、どうも」
 オレはしどろもどろになりながら礼を言って携帯を受け取った。周りの連中はつまらなそうに、再び宴席の騒がしさの中へ戻っていく。
「ん? どういたしまして」
 女性は微笑。オレは鼓動が早くなるのを感じた。
「裏にあったシールみてさあ、誰の落とし物かなあって思って、取り敢えずそこから周り見てたら、偶然あなたの視線に気付いたもんだからさ」
 初対面なのにもかかわらず、結構気さくに話す人だなとオレは思った。
「わざわざどうも。でも、公園の管理局にでも届ければ良かったんじゃ」
 オレは礼を言いつつも、ついそんなことを聞いてしまう。彼女は一瞬、目を丸くしてキョトンとしていた。が、次の瞬間に笑いながら、
「あ、ああ、そうだった。それは気付かなかったわ。ふふっ、バカねえ私」
 オレもつられて笑っていた。
「ひっどーい! なにもあなたまで笑わなくてもいいでしょう!」
彼女は頬を膨らませて抗議するが、目は怒っていない。
「ま、いいわ。お礼に何かおごってもらおうかな」 
彼女は一息置いてさらに続けた。
「なんか初対面って気がしないのよね」
 そう言われると、オレもそんな気がした。初対面なのに不思議と気が合う……ように思えた。
 これが、皆瀬櫻とオレの出会いだった。


「じゃあ、これからしばらくは研修ということになるから。時間は夜の七時から十時」
「わかりました。じゃあ、明日からよろしくお願いします」
 オレは一礼すると、荷物を持って部屋を後にした。大学生活は何かと金もかかるわけで、取り敢えずアパートの近くのコンビニでバイトをすることにした。
 で、採用されてめでたしめでたしっと。
 ふと手元の時計に目をやると ――― 夜の八時。
 ついでだからと、オレはコンビニで弁当を買っていくことにした。こう言うのもなんだが、オレは料理が得意ではない。
「……海苔弁と唐揚げ……緑茶のボトル……ま、これでいいか」
 オレは商品を持ってレジへ、二つあるうちの一つのレジは別の客が精算しているところだった。それに気付いたもう一人の店員が、空いてるほうのレジに入ってきた。
「お客様、こちらのレジへどうぞ」
 店員はそう言って営業スマイルを浮かべている。オレはそちらのレジに商品を置いて、財布を出し、そしてふと正面に視線を向ける。視界に入るのは商品のバーコードを機械に読み取らせている女性店員。
「あれ?」
 ……どこかで見たような。
「八百四十円のお買い上げになります」
 店員はそう言って、オレの方に視線を向ける。その視線が合った。
「……」
「……」
「あれ? 以前会ってませんか?」
 オレは何を思ったか、間の抜けた質問をしてしまった。
 コンビニの店員相手に何やってるんだと思い、言ってから後悔した。
「あ、あの時のキミ?」
 質問に、店員は問い掛けで返した。
 しかし、そのことで目の前の人物が誰か分かった。
「あ、あの花見の時の」
「やっぱり。久しぶり! 覚えてる? 皆瀬櫻よ」    
 オレは答える代わりにうなずいた。
「オレの……」
 名前は覚えてる? と言おうとしたところで、彼女にそこから先を遮られた。
「覚えてるって。えーと……緒方尚也君だよね」
「当たり」
 櫻さんは胸を張って誇らしげに、
「さすが私の記憶力。あれから一ヵ月も経ってるのに……すばらしいわ」
 櫻さんは自画自賛。自分に酔いしれている。
「あ、それでオレ、ここで明日からバイトすることになったんです」
「ええっ……ウソー!」
 櫻さんはかなり大げさに驚いてみせた。
「じゃあ、私がセ・ン・パ・イってわけね!」
「ま、まあ、そうですね」
 オレは櫻さんの異様な気配に少々引いた。
 櫻さんは少々艶っぽい声で、
「ふふ、色々教えてア・ゲ・ル」
 そう言って投げキスをした。オレがどういうリアクションをとればいいか迷っている時、横合いから助けの手? が差し出された。
「皆瀬さん。お客様をお待たせしないように。あと私語も注意」
 櫻さんは、「は〜い」としぶしぶながら頷きつつ、オレの方に片目をつぶりながら舌を出してみせた。
 どこも反省してないな。


 コンビニでの研修が終了したのは、五月に入ろうかという頃だった。
「……」
 やっぱり大学生活を満喫するにはサークルに入るべきだろう。そういう結論に至ったオレは、取り敢えず、どのサークルに入るかを検討し始めた。
 どんなサークルに入るかで、ライフスタイルが大きく変わってくるかと思うと、少しは慎重になるというものだ。
 新入生用のサークルの紹介冊子を片手に、とりあえずサークルを見て回っていた。
 体育会系、音楽系、企画系、ボランティア系、レジャー系……数が多すぎ。
 高校までは水泳をやっていたから……とも考えたが、大学ではもっと違うことをやりたいと考え直した。
 サークルについては、バイトの先輩である櫻さんにも相談していた。彼女、大学の先輩だったのだ。先日の話では、
『まあ、やりたいものをやればいいけどね。高校までとは違うことをやるのもいいと思うよ』『というと?』『文化系だった人は体育会系。体育会系なら……みたいに逆のこと』『櫻さんは?』『私? なに? 私と大学生活も一緒したいの? ふーん』
 そう言われて顔が熱くなるのを感じてしまう辺り、肯定している気がしたが。
『私は、文化系よ。一緒したいなら、それなりに努力してもらわないとね。ウチの大学、文化系多いから』
 うーん、やはり文化系か? とオレは考えた。
 しかし、多すぎる。櫻さんの言うとおりだ。どこにいるかわからない人を探すのは困難だ。
 SF、美術、書道、法律研……やはり色々ある。
 同好会とか含めて二百以上。サークル棟の中にあるだけでも百を越す。色々どころじゃないし。
 って、オレ。櫻さん探してるのか、サークル探してるのか。目的が不鮮明になってる気がする。
 ま、いいか。櫻さんに会えたほうが嬉しいし。
 美人だし、優しいし、……がさつだけど。でも一緒にいられると楽しいし。
 なに考えてるんだろ、オレ。とりあえず、サークルを探そう。
「まずはここから」
 オレが開けた部屋の表札には「文芸部」と書かれていた。
 オレが入ってきたのを中にいた部員が気付いた。二十人は入れそうな部屋だが、いたのは五人だけ。それでも、立ち並ぶ本棚や机、冷蔵庫等が各所を埋め尽くし、やや手狭に感じる。
「見学の方ですか?」
 中の一人が声を掛けてくる。
「はい」
 オレが頷くと、その声を掛けてきた部員が、後の長机に置いてある冊子を二、三冊取ってオレに渡そうとした。
「なに? 見学の人」
 奥から女性の声が聞こえた。もう一人いたらしい。本棚の後にいるらしく、オレからは見えない。
 ちょっとまてよ……。
「ん、ああ」
 部員はその声の方にわずかに顔を向けて応えた。
「どれどれ……こんにちわ! って、あら?」
「あれ?」
 本棚の裏からひょこっと顔を出した彼女は少々驚いた風に、オレは完全に間の抜けた感じに声を漏らした。
 まさかいきなり見つけられると思わず、拍子抜けしてあっけにとられるオレ。彼女はそんなオレに人差し指を突き出し、まるで銃を向けるような仕草をとると、
「バキューン、ビンゴ。大当たり! ってやつ」
 周りの部員が怪訝そうにしている。
 その視線に気付いてか、彼女 ――― 皆瀬櫻は笑みを浮かべ、
「バイトの知り合いなのよ、彼」
 部員の間に驚きと歓喜の空気が広がった。
 勧誘には好都合と思われた。多分そんなところだろうとオレは考えた。
 オレは思わず天井に視線を上げた。
 決まりだな。
「ま、改めて……文芸部部長の皆瀬櫻です」


「ヤバイ……ヤベエんだよ」
 オレは頭を両手で抱え込んだ。テーブルの向かいに座る友人は頷きながら麦茶を口に運ぶ。
 友人 ―― 清水亮二はいつものように突然現れ、そして人の家の飯を何食わぬ顔で食べていた。
 オレはその清水に小一時間程の間、頭を抱えながら向かい合っていた。
「バイト先で釣りを間違える。大学では教室を間違えたし、砂糖と塩を間違えるは……」
「さっきから間違いの連続ばかり言ってるね」
 清水はさわやかな容姿に似合う、さわやかな声でにこやかに言った。
「なんか頭は熱いし、胸はバクバク言うしよ」
「ハハ、夏だしね」
「サークルで部長に声掛けようとしたら、ノド乾いて声がかすれるし」
「バカは風邪引かないって言うけど、一応診てもらった方がいいよ」
「……」
「……」
「お前、今さわやかな顔してバカにしたろ?」
「いやだなあ尚也。ついには耳もイカレタのかい?」 
「……」
 今もバカにされた気がする。しかし、今は余り頭が働かない。報復措置は次回にしよう。
「清水。この気持ちは一体全体何なんだ?」
「さあね。あ、ご飯もう一杯もらうね」
 清水、報復措置は今回にする。
 ヤツが炊飯器に向き合ったため、今背後は無防備だ。 
 右手に広辞苑、左手に独和辞典を装着。秘技『悶絶転倒』発動。
「お、落ち着いて! ボ、ボクを殺しても意味は」
 殺気に気付いたか、清水は振り返るなり慌ててそう言った。オレの殺気はしかし増幅。
「尚也の悩みの原因をボクは知ってるんだ!」
 衝撃の事実。オレは振り上げた手を一旦降ろした。
「ボクは兄貴同様、大学内にファンクラブがあってね」
「キサマの自慢話に付き合う気はない」
 オレは殺気をみなぎらせ、再び秘技の発動体勢に移行する。清水は両手を何度も振って、落ち着いてと必死のジェスチャーを送ってくる。
「だ、だから、それだけ女性絡みの事には強いということを言いたいんだ!」
「……抹殺決定、だな」
「あ、ああ、だ、だから、な、尚也の悩みは、そ、その、女性絡み。おそらく相手は話しからして」
 ヤツの懇願に、オレは猶予を与えることにした。
「なんだ? 続けてみな」
 コクコクと首に上下運動をさせる清水。
「た、多分、尚也はその人に……の前に、その女性を尚也はどう思うわけ?」
「どうって……」
 言われて返事に詰まる。
 その隙に清水が少しずつ右にずれながら、逃げようとするのが見える。
「ひっ」
 オレはその進路の床を思いっきり踏み鳴らして、その動きを抑えつつ、考える。
「美人だし、がさつだけど、楽しい人」
 オレはそう呟く。
「それだけなら一般論だろ。もっと踏み込んでなにかないか?」
 櫻さんのことを思い浮かべようとする。流れるような黒髪。いたずらっぽい笑み。闊達で、いるだけで周囲が明るくなる。
 思い浮かべているうちに、自分の体温が上がるのを感じる。
 最初に会った、あの桜の木の下。思わず見とれた時間。周りに咲き誇る桜よりも、一層目を惹かれた。
「出会ったとき、周りのなによりも目を惹かれた。見とれてた」
「それだよ!」
 清水は、我が意を得たとばかりに、手を叩き、
「わからないか?」
 問いかけに、しかし、返事が出ない。のど元で張り付く。
 その状況を清水は楽しんでいるようにも見えた。
「やっぱ、そうか。オレ、櫻さんのこと」
「はい、そこまで。これ以上のろけを聞かされたくないんでね」
 そう言った清水の笑みは穏やかですらある。嫌味は感じられない。
「そういう気持ちなら、行動に移るんだな。こういうのは待っててもいい結果にはならないんだ」
 オレは頷いた。
 その後、清水は『この手はボクの専門分野だから』と、様々な助言をしてくれた。
「すまねえな」
 オレが礼を言うと、清水は手を振って、
「気にするなよ。しかしなあ、どうして尚也はこんなに鈍いわけ? 大体自分の気持ちだろ。中坊以下? だから彼女できなかったんじゃないの今まで、というかな、そもそも尚也は、正直バカだ……」
 清水は、調子に乗り出した。さらに延々とオレの悪口、さらには人格論まで述べだした。
 ヤツの饒舌ぶりを披露され、オレは制裁を再決定した。
「だから、尚也はもう少しボクを見習うべきで……あ、な、何? その二冊の辞典。ま、待って……ぼ、ボクは一般論を」
 次の瞬間、悲鳴にならない悲鳴が上がった。


「いつも買い出し付き合ってもらって悪いわね」
 櫻さんは、隣で歩を進めるオレの顔を覗き込んでそう言った。
「別に構いませんよ。アパート同じですし」
「バイトも同じで、サークルも同じで、誕生日まで同じだけどね」
 櫻さんはそう言葉を続けた。
 そう、櫻さんとオレは同じものが多いのだ。余りに出来過ぎていてマンガや小説の世界みたいだ。
バイトと住んでいるアパートが同じだから、バイト帰りに食料の買い出しに付き合うこともよくある。
 というか、清水の『一緒に行動したほうが仲は進展するのさ』との助言もあり、一緒にいられる時間を長くしようとしたためでもあるのだが。
 最初からそういう考えで一緒にいると、後ろめたい気もする。
オレの部屋は三〇七号、櫻さんは二〇七号。ちょうどオレの部屋の真下が櫻さんの部屋だ。
「しっかし暑いわね」
 もう八月の半ばである。夜とはいえ三十度近い熱帯夜が連夜続いている。
 ふと櫻さんに視線を移した。白のシャツにインディゴブルーのジーンズというラフな出で立ちだ。薄着のため、モデル並みの恵まれたスタイル……特にその上の方の部分に目が行ってしまうのは我ながら情けない。
「しっかし本当に暑いなあ」
 櫻さんはそう呟いて、手でシャツの胸元辺りを掴みパタパタと動かして風を送り始めた。
 ……げ、見えてる。
 オレは百七十センチはある櫻さんよりも十センチ程背が高く、その豊かな胸を覆うブラが見えてしまっていた。
 いや、正確に言うと釘づけ状態。そんな自分がやっぱり情けない。
「だああああ!」
「ん? どうしたの?」
 突然頭を振って叫びだしたオレを、櫻さんが先程の動作を止め、不思議そうな表情で覗き込む。
「な、なんでもないです」
 オレは慌ててそう言った。内心の動揺が思いっきり外に出ている気がする。心臓は激しく音を立ててるし、外気の暑さだけでなく、身体の内側からも暑くなっているのが分かる。
 そんなオレの慌ててる様を見て、櫻さんはクスクス笑いだす。
「キミってヘンだよね」
「え?」
「だってさ……ま、今の行動もそうだけどね。それ以外にもね」
 櫻さんは意味ありげに含み笑いをして、
「やっぱりヘンなのよ」


 夏休みの間にも、我が文芸部は活動をしている。夏の間には秋の学園祭に向け、作品集を作るからだ。
 オレは作品を書かないので、他の人の作品のチェックや編集作業に携わっている。
 今日も暑い中、部室で上がってきた作品をチェックしていた。
「岸田さん」
「ん、何?」
「部長の作品って、バットエンドの悲恋物語ばかりですね」
「ああ、彼女は入部してきた時からずっと一貫してそうだよ」
 今オレがチェックしている櫻さんの作品も悲恋物語だ。
 内気な女性と活発な女性、そして一人の青年の間の恋物語。最後は内気な女性が他の二人を刺殺してしまう。そんな物語。
「普段の彼女を見てると、そういう作品とは最も遠い位置にいるように思えるんだけどな。でも、いつもそういう作品しか書かないね」
 岸田さんはチェックの済んでいない原稿をもう一つ手に取り、
「別の作品も書いたらと言ったら」
「言ったら?」
「ヤダよーだ……と言われた」
「……」
「理由聞いても、教えてやんないよと言われるし、それ以上の追求を許さない感じだったから、それ以後は聞いてないよ」
 岸田さんは慣れた手つきで原稿に赤を入れながら、
「何かあったのかな? 彼女」
 岸田さんは何気なくそう言った。
「……」
 しかしオレは気になった。大した理由もないのかもしれないが、何故櫻さんは悲恋物語を書くのか。
 オレの手元にある櫻さんの作品は『紅染まる雪』。


「ごちそうさま」
 そう言って、櫻さんは手拍子一つ。
 オレと櫻さんは部屋が間近のこともあり、晩飯を一緒に食べることも多い。
 最初は、清水の助言を受けたオレからの提案だったのだが、いつの間にか日常風景になっている気もする。
 まだ暑い夏、今夜は冷し中華だ。
「キミも料理上手になってきたね」
 櫻さんはそう言ってオレの料理をほめてくれるが、
「別に、スーパーで買ってきたのを説明通りに作るだけじゃないですか」
 オレはいつものように応えるだけである。すると、
「人がほめたら素直に受けなよ」
 そう言って櫻さんはむくれるのだ。褒め言葉に対してつまらない謙遜で返すな、とは彼女の言。
「部長。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「ん、何?」
 オレは聞くべきか否か微かに躊躇して、そして数呼吸分間を空かして聞いた。
「部長の作品……何で悲恋物語しかないんですか?」 
その言葉に、今までの微笑が消えた。眉をひそめて、まるで警戒しているようにも見える。
「別に……いいじゃない。書くのは何でも自由なのが部のモットーだもん」
 櫻さんにしては珍しく歯切れが悪い。たった一言で態度がこんなに変わるものかとオレは思った。
「でも、櫻さんには別のジャンルの方が合ってる気が」
「いいでしょう別に!」
 オレは櫻さんが怒鳴ったのを初めて聞いた。そして理解もした。悲恋にこだわるのに、やはり何かあるんだと。
「もう帰る!」
 櫻さんは立ち上り背を向けた。オレは咄嗟に立ち上がって、気付いたら櫻さんの左手を握り締め引き止めていた。
「え?」
 櫻さんは肩ごしにオレに微かな驚きの視線を向けると、
 再び玄関の方へ顔を向け、視線を床に落とした。背を向けているままだから、その表情がどうなっているかは分からない。
「手、離して」
「へ? あ、ああ、スミマセン!」
 オレは櫻さんの手を握り締めていたことをすっかり忘れていた。言われて慌てて手を離す。
「……」
 櫻さんは背を向けたまま黙っている。いつもの雰囲気からは考えられないことだ。
「聞いたら……私を避ける?」
「え?」
「……」
 避ける……とはどういう意味だろう? オレは首を捻った。
「避ける?」
 再度問い掛けてきた言葉も真剣そのものだ。
「なんで避けるんですか?」
 もっと気の利いた言い方はなかったかと、言ってから後悔した。
 櫻さんは、再度肩ごしにこちらを窺い、また玄関の方を向いた。オレはその表情に驚きを隠せなかった。
 半分涙目になり、唇を噛み締めて何かに耐えているようだったからだ。
 オレは思った。櫻さんは本当はかなり繊細な女性なのではないかと、普段の明るさに隠れているこちらの方が、本当の櫻さんではないかと。


「私には、姉がいてね」
 櫻さんは背を向けたまま話し始めた。
「がさつな私と違って、優しくて気は利いて、おしとやかな人だった」
 オレは黙って聞いていた。下手に言葉を発したら、そこで全てが終わりそうに感じたから。
「姉はここに在学していたことがあってね」
 そこで一呼吸分置き、
「文芸部に在籍していた。そして、姉の初恋の相手もね」
 大学で初恋なんて珍しいわよね、そう続けると、
「でもね、その男性を別の人に取られたんだ……ま、内気で告白できなかった姉も悪いけどね」
「……」
「姉はその後……その女性と男性を……」
 櫻さんの声に、啜り泣く声が混じってきた。
「殺したのよ」
「!」
 オレは驚いたが、声は出さなかった。出したとして何を言えばいいというのか。
 櫻さんが話をとぎれとぎれに続けたところによれば、事件は十一年も前の三月十五日、記録的な大雪の日だったらしい。
 姉の静香さんは捕まったが、精神鑑定の結果、不起訴処分になった。それ以降、静香さんは部屋に篭もり、ほとんど廃人同然だった。
 事件以降、周囲からは白い目で見られるようになり、母親はノイローゼ気味になり、家庭は荒れていった。
 九年前、静香さんは自室で手首を切って自殺。それを見つけたのは櫻さんだった。
 発見した櫻さんは、ショックから、しばらくの間失語症にかかっていた。
 それをきっかけに両親は離婚。大学に入るまで、父の実家に引き取られた。
 さすがに事件から十一年が経ち、この大学は以前住んでいた岩手からも離れている。事件は時とともに風化していき、記憶している人がいても櫻さんがその家族と分かるわけでもなく、櫻さんは努めて明るく振る舞うようになった。
 元々は明るい性格だったが、今は過去の傷を隠すための仮面、と櫻さんは言う。
「悲恋ばかりを書くのは……姉のことを忘れきれないから。だって、余りにかわいそうで……」
 事件のせいで周りからは冷たくされ、家庭が崩壊したというのに、姉に同情できるのだから、よほど姉が好きだったんだろうなと、内心思った。
「ハッピーエンドは書けないんだ。なんか、嘘っぽくてね。私も多分……ハッピーエンドにはならないと思うから。……未だに姉を引きずっているし」
「そんなことはありません!」
 オレは気付けば大声を上げていた。
 櫻さんが泣き腫らした目で、肩ごしにオレを見る。
 その目は「なんで?」と訴えている気がした。
「櫻さんは櫻さんだからです」
 その言葉に櫻さんは、肩ごしにこちらを見たまま、それぞれの手で二の腕を握り締め、身体を強ばらせた。
「オレが幸せにします!」
 その言葉は自然に出た。
 オレは、あの瞬間、あの桜の木の下で会った瞬間から、この人 ――― 皆瀬櫻に惚れていた。
 だから、清水の助言だって受けた。いや、助言などなくても近くにいたい、そう思ったはずだ。
 だから、この言葉に偽りはない。
 櫻さんは、その言葉にゆっくりとこちらに振り向いた。
「ム、ムリだよ……幸せなんか」
 櫻さんは身体を強ばらせたまま、首を横に振った。
「……」
「!」
 オレは身体を縮めるように強ばらせている櫻さんを、両手で包むように抱き締めていた。オレに抱き締められた櫻さんがビクッと身体を震わせた。
「バカ」
「……」
 櫻さんはオレのことを叩きながらさらに続けた。
「バカ、バカ……キミは正真正銘のバカだよ」
「……」
「ズルイよキミは……人の弱いところにつけこんで」 
 言って、櫻さんは顔を上げた。オレの顔とかなりの至近距離。目は赤く、まだ涙の筋が見えたが、顔はいつものように笑みを浮かべていた。
 オレは急に、心臓がバクバク悲鳴を上げているのに気が付いた。
 冷静に考えると、オレは普段じゃ考えられないことをしていた気がする。まるでドラマか何かみたいだ。
 でも、とった行動は正しいと思う。
「裏切ったら許さないからね!」
 部長は快活な笑みを浮かべつつ、そう言い、肘でオレの腹を力を込めて突いた。
「うおっ……」
 オレはその不意打ちに対処できず、そのままふっ飛ばされ、仰向けに倒れた。
「ゴ、ゴメン! 大丈夫?」
 櫻さんが慌ててオレの側にしゃがんで、心配そうに見つめた。
 カッコ悪い……と、内心思った。
「じゃ、これからよろしくね…………尚也」
 櫻さんはそう言ってニッコリ微笑んだ。


「で、次はどこ行きますか? 部長……げうっ!」
 そう問い掛けたオレの顎に、櫻さんのアッパーカットが決まった。
「だから、何度言わせるの! 付き合ってるんだから呼び捨てでいいって」
「じゃ、じゃあ、どこ行きますか? ……げはっ!」 
 再度、櫻さん……櫻のアッパーカットが決まる。
「敬語も無し!」
 うーん、そう言われてもクセはなかなか抜けないんだよな、と思いながら、顎を摩りつつ起き上がる。
「え、えーと……じゃ、じゃあ、どこに行く? 部じゃなくて櫻」
 オレは頬を紅潮させてそう言った。オレって結構ウブだなあと思いつつ。
「ジェットコースター!」
 櫻はさも当然のようにそう言った。
 オレはその言葉にげんなりしながら、
「櫻……さっきからおばけ屋敷と、ジェットコースターを行ったり来たりしてる気がしないか?」
「だって好きなんだから、しょうがないでしょ」
 とはいえ、二つのアトラクションを三回ずつも乗っているのはどうかと思うぞ。と、オレは内心呟く。
「アトラクションは色々あると思うが……例えば……げふっ!」
 オレは三度、櫻のアッパーカットを食らった。かなり痛い。
 ドサッと音を立てて倒れたオレを笑いながら見下ろし、
「こーんな女に、メルヘンチックなアトラクションが似合うとでも?」
 確かに、そんな気もする……などと、かなり失礼なことを考えた。
「あーっ! 今、そんな気もするとか思ったでしょう。うわあ、かなりショック」
 げ、心を読まれているのか? ……やばい、櫻の拳が震えている。今度こそ殺られる。付き合いだしてから知ったのだが、彼女は実はかなり強い。並みの男二、三人では歯が立たないくらい。
 護身のために空手をやっていたという。納得だ。
「決めたわ」
 櫻は右の拳を左の手のひらに打ち付けて続けた。   
 抹殺決定? オレはそんなことを考えた。
 櫻はビシッとある方向を指差す。ちょっと演技がかった動きだなとオレは思った。……似合ってるけど。 
「尚也の期待どおりに……メルヘンチックなアトラクションに行ったげるわ。もちろん観覧車にもね!」
「へ? 抹殺するんじゃないの?」
 しまった。オレは後悔した。
 間の抜けた言葉に、櫻はようやく起き上がったばかりのオレをアッパーカットでふっ飛ばして応えた。  
「アンタは女の子になんてこと言うんだ!」
 そう言って、起き上がるスキすら与えず蹴りを入れてくる。
 かなり痛いんですけど。
 つーか、自分で女の子うんぬん言うなら、人を簡単にふっ飛ばしたり蹴りを入れないでほしいものだ。
 周囲から突きささるような視線を感じる。
 かなりの美人が連れの男をアッパーカットで数度ふっ飛ばした上、蹴りを入れている構図はよほど珍しいようだ。
 当たり前だが。
「もう、私だって……一応女の子なんだからね」
 そう言ってオレに手を差出し、起こしてくれた。ようやく怒りが収まったようだ。
「それでいて、長身でモデル並みのスタイル持った美人」
「まあね」
 謙遜ぐらいしろって、と言葉に出さないが思う。褒め言葉は謙遜するなと普段から言っているからな、櫻。
「それじゃあ、レッツゴー!」
 櫻は言うが早いか走りだす。オレは慌てて後を追う。 
 この明るさが、表面だけの……傷を隠す仮面ではなくなったとオレ自身では思いながら。
 ――― 数時間後
 もう外は日が落ち始めている。秋の日没は日毎に早くなっていく。
 時間は五時半。夕焼けが眩しい。
「最後に観覧車とは……定番よね」
 オレの向かいに座る櫻はそう呟く。別につまらないといった風には見受けられない。
「見て、綺麗よね。私、この夕焼けの光景が好きなんだ」
 確かに櫻の言うとおりだ。夕焼けに照らされる街は、その逆側から徐々に黒く塗り潰され始めているのが分かる。なんとも表現しがたい美しさだ。
 もうすぐ日が完全に沈む。
「確か、明け方の光景も好きなんだよな」
 櫻は頷いた。
「どちらかというと明け方の方が好き。それまでの暗い世界に日が差し込むあの光景がね……。何かイイ事ありそうって気にさせてくれるのよ」
 櫻はそう言って観覧車の下に視線を移す。日が暮れるにつれて、人の波が入り口の方へ向かうようになってきている。
「高いところから街を見下ろすと、ミニチュアみたいと言うけど本当だな」
「それも台詞としては定番ね」
「じゃあなんて言う?」
 櫻はそう言われて、
「見ろ、人がゴミのようだ」
「……」
「……」
「映画の台詞だろ、それ」
「あら、あの映画好きなのよ私」
 話が微妙に食い違っている気がするが……まあいいか。
「今日は楽しかった?」
 オレは櫻にそう問い掛けた。
「尚也が楽しければ私も楽しかったし、尚也が幸せと感じたなら、私も幸せだった」
「なんか、答えをはぐらかされた気がするぞ」
「……」
 櫻は頬杖をついて外の風景を見ている。
 夕日がその横顔に当たっている。
 ……。思わず見惚れてしまう。改めて美人だなと思う。
「ねえ」
「ん?」
「あなたは楽しかった? 幸せ感じた?」
「ああ」
 オレは迷わず速答した。
 櫻はオレの方に向き直り笑みを浮かべた。
 思わずドキリとしてしまう。
「じゃ、私も幸せ!」
 そう言って、オレに抱きついてくる。ゴンドラが揺れた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「えへへ」
 笑って櫻はオレから離れて、再び対面に座る。
「尚也の唇は奪ったぞ! なーんてね」
 櫻はそう言い、ウインク一つ。
 オレは固まって動けなかった。
「尚也、顔赤いよ」
 そう言う櫻の顔も赤い。夕焼けの光のせいだけではないだろう。
 これがオレのファーストキス。幸せ感じた瞬間。そして幸せを掴んだと確信した瞬間だった。


 オレと櫻が付き合い始めてから、はや五ヵ月。早いものだなとオレは思った。
 櫻はとにかく明るい。悲恋物語も書かなくなった。というより、作品を書かなくなった。
 ま、気にするほどのものじゃないとオレは思った。櫻は過去と決別したんだ。幸せになってくれてるんだと、オレは思っていた。
 もう今日から二月だ。実は一番寒いのはこの時期だったりする。記録的な大雪とかもこの時期に集中する。
「うう、寒い」
 オレは寒さに弱い。九州の出身者にはこの寒さはさすがに堪える。
 オレは寒さに耐えながら、バイト先のコンビニへ向かっていた。今歩いている道路のすぐ先に急なカーブが見える。そのカーブを曲がり、反対側の車線に面したところにコンビニはある。
 いつもは櫻と行くのだが、今日は櫻に用事があるらしく、シフトの時間をずらしてある。オレとちょうど入違いのシフトだ。
 車が急なカーブより現われオレの脇を過ぎていく。ちょうどその時、名前を呼ばれた気がした。
 反対側の車線に面した歩道を見る。いた。
「おーい、尚也!」
 手を振っているのは櫻だ。
 オレは手を上げて応える。
「西川さんが少し早く来てくれたから、ちょっと早く上がらせてもらった! まだ島田さんは残ってるから」
「分かった!」
「あ、ちょっと待って! そっちに行くから」
 櫻はそう言って、歩道から車が来ないことを確認。確認すると、車道を横切ってくる。
 カーブはオレから見て右に急角度で曲がっている。つまり、左手側の歩道にいるオレの方がカーブから来る車が見える。その逆は……。
 櫻が車道の中央辺りまで来たとき、オレは気付いた。 
 気付いた途端に身体が勝手に走っていた。
 車のクラクション。櫻はその音源の方を見て固まってしまう。
 オレが櫻を反対車線に突き飛ばした直後、オレの身体は宙を舞っていた。
 直後、意識は暗闇の中へ消えていった。


 オレが意識を取り戻したのは、二月六日。意識不明の重体で運びこまれたらしいということは、両親が教えてくれた。
 手は……片手を固定されているが、右手はどうにか動く。口も……話すことは出来るみたいだ。
「あ、あのさ……さ、さく、櫻は?」
 オレはろれつの回らない状態でなんとか言葉を出した。
 両親は笑みを浮かべ、
「ああ、あの見舞いに来ていた人だな。あの人なら無事だよ」
 まあ、見舞いに来ていたんだから無事なんだろうな。とオレは心の中で安堵した。
「いや、お前はよくやった。好きな女のために身体を張れる。それこそ男子の本懐!」
「お父さん……さっきまで死の淵をさまよっていた息子になんてこと言ってるんですか!」
 オレはそんな両親の言い合いを聞きながら、再び眠りに就いた。
 櫻が無事でよかったと思いつつ。


 身体へのダメージは比較的軽いほうだったらしく、三月十五日に退院となった。
 一ヵ月半ぶりの外の空気は気持ちがいい。
 気になるのは、オレが意識を取り戻してから櫻の見舞いが無かったことだ。差し入れを看護婦に頼んで届けてきたことは何度かあったが、直接会いには来ていない。 
 携帯は事故の時に大破していたので、新しいのを店に買いに行き、そして部屋へ戻った。久しぶりの部屋だ。 
 鍵を差し込み開ける。
 開けてまず驚いたのは、一ヵ月以上も使われていない部屋が綺麗に掃除されていることだ。
 両親か櫻か、もしくは両方が掃除していたんだろう。 
 靴を脱ごうとして、下を見て気付いた。
 鍵が落ちている。この部屋の鍵だ。オレの持っているものでも、両親の持っているものでもない。狐のマスコットキーホルダーが自己主張しているそれは、間違いなく櫻のものだ。
 ドアの新聞受口から中へ投げ込んだのだろう。
 オレはそれを拾い上げ呟いた。
「どういうつもりだ?」
 そう言葉にして数呼吸分間を置くと、不安が沸き上がってくるのを感じた。
 階段を駆け下り、櫻の部屋の前へ。急いで合鍵を差し込む。焦りのため手が思うように動かないのがもどかしい。
 カチリ。開錠の音。ドアを思いっきり開く。
「……」
 誰もいない。
「……」
 取り敢えず側にあるスイッチに手を伸ばし明かりを着ける。
「帰省しただけ……だよな」
 普通に考えればそうに決まっている。今は三月で春休みなのだから。
 とは言っても、入院している間のことといい、退院すれば不在。櫻らしくない。
 オレは、綺麗に片付けられている部屋の中央。テーブルの上にある便箋を見つけた。
 嫌な予感がしつつも、それを見る。
『突然ゴメン。どうしても尚也の顔が見れない。私のせいで尚也を不幸な目にあわせた。やっぱり私にハッピーエンドはついてこないよ。周りも不幸にするのは姉と同じ。尚也は私といないほうが幸せになれる。私はやっぱりダメ。……合鍵は返しておく。帰省してしばらく考えたいと思うんだ。だから、大学は休学する。場合によっては止めるかも。こんな私に付き合ってくれて、そして心配までしてくれて、本当にアリガトウ! そしてさようなら
                                                       皆瀬櫻』
 よく部屋を見渡してみた。本棚から本が消え、クローゼットは空。一部の調度品を残してみんな無くなっている。
「嘘だろ」
 オレは手を強く握り締めた。爪が手に食い込み血が出るのも構わずに、強く強く握り締めた。


「うーん……彼女の帰省先はオレにも分からないな」
 サークルの人間に聞いて回ったが、誰も櫻の帰省先を知る者はいなかった。
 元々は岩手にいたことを知るのはオレ一人のようだ。しかし、そのオレも現在の櫻の帰省先……父方の実家は知らない。
 もちろんサークルの名簿も調べたが載っていない。
 大学のアルバムにも載ってはいない。
「やっぱり岸田さんも知りませんか」
「彼女、そういうことは教えたがらなかったからな」 
 岸田さんは、二年前に卒業したOBだが、フリーターとして大学の近くに住んでおり、サークルにもよく来る。
 サークル一の事情通なら知っているかと期待したのだが……ダメだった。
「オレの方は、緒方君になら教えているんじゃないかと思っていたんだがね」
「……」
 オレはどうしたものかと思案にくれる。
「何か込み入った事情があるみたいだが……春休み明けに彼女と話をするというのは?」
 オレは岸田さんに事情は説明していない。ただ櫻に会いたいとしか言っていない。電話が通じないことは伝えてある。
「それが……」
 オレは言葉に詰まった。
 アレは言っていいことではない気がするからだ。
 ……どちらにしても、前期が始まれば分かることかもしれないが。
「サークルを止めるつもりなのか? 彼女」
 岸田さんはそう聞いてくる。当たらずとも遠からず。 
 しかし、実際にはもっと深刻で、休学……いや、大学を止めるかもしれないのだ。
 岸田さんは、オレが深刻な表情をしていることに気付き、こう続けた。
「まさか……大学を止めるとか?」
 オレは思わず頷いていた。
「そうか……」
 岸田さんは椅子に深く腰掛け、腕組みをし、思案にふける仕草をする。
 今この場には、オレと岸田さんしかいない。二人の間に沈黙が漂う。
「何故、彼女は緒方君に別れを告げたんだ?」
 オレはその言葉に唇を噛み締める。
「いや、答えたくないならそれでもいい」
「彼女は幸せにはなれないんだそうです」
「?」
 岸田さんが首を捻る。
「彼女は過去の出来事から、自分も幸せになれないと思っています」
「何かあったのか? いや、いい。それは緒方君達の秘密だろう。続けてくれ」
 オレは岸田さんが深く詮索してこないことに感謝しつつ、話を続けた。
「だから、オレが幸せにすると。で、彼女はオレが幸せなら自分も幸せだと……」
「……」
「二月……オレが事故で重体になった……それが原因みたいです。自分は人を不幸にするだけだと」
「彼女……」
「え?」
「その事故の後でオレに言ってたよ。『私も人を不幸にするだけ。だったら私なんていないほうがいい。幸せになる資格なんか無い』ってね」
「……」
「だから、過去に何かあったんだとは思っていたんだけどね」
 岸田さんは天井を仰ぎ、ため息を吐いた。
「なにか過去に捨てきれないものでもあるのか……トラウマってやつかもしれない」
「オレは……どうすれば……」
「人には……」
「人には?」
「思い出を大事にする人もいる。彼女の過去に何があったかは知らないが……それは、何かの思い出に起因しているのかもしれない。だったら緒方君は、自分たちの思い出に賭けてみないか?」
「と、いうと?」
「緒方君たちが出会った場所はどこだい?」
「大学側の公園ですが……あの桜並木の」
「だったらそれに賭けてみたらどうだ? 電話に出てくれなくても、メールは彼女に届くだろ」
 オレは、岸田さんの言いたいことを悟った。
「わかりました! やってみます」
 言うなり、オレは部室を後にした。


 オレは、あの桜並木の中、何で櫻があの桜の木の下にいたのか、過去の話を思い出して、そして今ようやく理解した。
 今、オレはその出会った桜の木の下にいる。その前方、通りに面した植込とベンチの並ぶ場所。そここそが櫻にとって、全てを過去に結びつける場所だったのだ。
 十一年前の、櫻の姉静香さんが殺人事件を起こした場所がそこなのだ。
 周りより少し土が高く盛ってあり、花見客がゴザを敷いていないそこに櫻は立っていたが、それはただの偶然だったのだ。そこが、事件の現場の目の前だったに過ぎない。
 そんな場所が、オレとの出会いの場所というのは運命の皮肉だろうか。
 櫻がこの大学に来たのも、文芸部に入ったのも、全て過去が彼女を束縛していたに過ぎなかった。
 オレは今の今までそれに気付けなかった。櫻はもう過去とは決別していたと思い込んでいた自分はバカだった。
 彼女は、オレと付き合いだしたことで、却って過去に死んだ姉に後ろめたいものを感じ続けていたのだ。
 オレはそんなことを考えながら、櫻へメールを打った。
『あの桜の木の下に鍵がある。夜が明け日が全てを照らし出すための鍵が』


 オレは来る日も来る日も櫻を待った。あの出会いの桜の木の下で。
 三月十八、十九、二十……二十九、三十、三十一日。 
 オレは、いつも夜が明ける一時間前から明けた後一時間、そこで待っていた。
 櫻は言っていた。
『どちらかというと明け方の方が好き。それまでの暗い世界に日が差し込むあの光景がね……。何かイイ事ありそうって気にさせてくれるのよ』
 だから、メールにはそれを暗示させておいた。
 暗示にしたのはそれなりの意味がある。
 櫻が夜明けが好きと言っていたのには、おそらく過去の束縛から逃れられない自分が逃れられるかもしれない。
 ……そういう意味が込められている気がしたからだ。
 だから、待つ時間は夜明け前から夜明け後しばらくの間なのだ。
 しかし、櫻は来ないまま三月が終わった。


 四月。オレは櫻を待っていた。
 最近では夜中の内から、花見目的の連中がゴザを敷いて場所取りを行なっている。
 もう、櫻と会って一年になるんだな。
 四月八日の朝が明ける。
 春休みの間 ――― 結局櫻は姿を見せなかった。


 四月九日。
 オレはこの日も待っていた。しかし、現われなかった。
 この日からは大学の前期が始まる。オレは大学へ行った。
 しかし、その時間はオレにとってなんの感慨も引き起こさなかった。
 周りは、二年になって専攻過程に入り、新しい期待を持って前期に挑む同輩。新入生が入ってきた後のサークルの宣伝活動について相談する連中などばかりで、それぞれに充実している様子が見て取れた。
 しかし、オレにはそれらは何の関心も引き起こさない。
 ただの周りの喧騒。そうとしか映らない。
 自分のこれからの大学生活も……ただ流れていくだけだ。
 まだ、オレもあの桜の木の下に束縛されている。


 四月十、十一、……十四、十五日。
 虚しく日々は過ぎていくだけ。 
 桜並木の下で宴会をやる連中も、だんだんと減ってきている。桜はもうその六割ほどが散ってしまっており、葉桜が目立つようになってきていた。
 この櫻との出会いの場所に咲く桜も、花よりも葉の方が目立つようになっていた。
 それでも櫻はやって来ない。
「オレが幸せにするって言ったのにな」
 オレは、眩しい朝焼けに手をかざし、目を細めた。
 四月十六日の朝がやって来た。


 四月十七……十八日。
 待ち人は来ない。それでも夜は明け日常が始まる。
 オレは、夜が明けると日常の流れに身を任せた。


 満開の桜よりも葉桜が良いと言ったのは誰だったろうか。高校の古典で教わった気がする。眼前の華美に惑わされず真実を見るということか? 
 しかし、やはりオレはそれでも美しく咲き乱れる桜が好きだ。散ってしまった桜の木に魅力などあるものか。 出会いの場の桜の木も、周りの木と同様に葉桜となっている。
 しかし、オレはまだ待っている。
 オレと櫻の思い出……それがオレが持つ鍵だからだ。 だから、オレの中ではまだこの木は満開の……あの出会った日の満開の桜の木なのだ。
 その桜が散り、葉桜となっているなら、すでに鍵は失われているのだ。


 四月二十二日。
 この日は、夜明けの一時間近く前から急に雨が降りだした。
 天気予報では晴れといっていた気がする。通り雨だろうか?
 夜明けの時刻には晴れてくれよと願う。
 それとも、この雨は思い出など……自分にとっての過去など洗い流して、新しい思い出を作れということだろうか?
 たとえそうであったとしても、オレとの思い出は、過去も未来も櫻としか考えられなかった。
 激しい雨。雨音が周囲の音を支配している。
 ずぶ濡れになったが、そんなことには構わなかった。 
 オレはいつものように木の下に座っている。
 視界はかなり悪い。まだ暗いのと雨が激しいせいだ。 
 オレは視線を地面へ移し、しばらくの間、その小高い今いる場所から、雨で作られた川が流れていくのを見ていた。
 ふと、視線を歩道の方へと戻した。
 雨はしたたかに、地面とそこにいる人物を打ちつける。
 オレはその場から立ち上がった。しかし、待ち望んだその瞬間に動けなかった。
「やっぱりキミは正真正銘のバカだよ」
 櫻は傘も差さずに歩道に立っていた。
 櫻はゆっくりとこちらに歩み寄り、手を伸ばせば届くかどうかという位置で立ち止まる。
「どうして?」
 櫻は責めるような強い口調でオレに問い掛けてきた。 
 泣いているのだろうか? しかし、雨が激しくそれはわからない。
「私にはハッピーエンドなんかない! 過去しかない! それなのにどうして私に構うの?」
「……」
「私は人を不幸にするだけ。姉と同じなの。……だから……だから、あなたにだけは幸せになってほしいから、だからサヨナラしたのに」
 櫻はそこまで言って言葉に詰まる。
 肩が震えている。
 オレは、静かに櫻の次の言葉を待った。
「こんなことされたら……あなたを諦められなくなるじゃないのよ」
 そこまで言うと、櫻は手で顔を覆って泣きだした。
「オレは櫻に謝らなくちゃならない。それと、櫻が間違ってるところを言いたい」
「……」
「オレは、櫻が過去と決別して……それで初めて幸せになれるんだと思ってた」
「……」
「それは間違いだったんだ」
 櫻は顔を覆う手をずらして上目遣いにこちらを見る。 
「思い出とは別れられないんだ……オレ、櫻を待っていてそう思った。だから、オレは櫻のことを結局理解していなかった。それを謝りたい」
 櫻は首を横に軽く振る。謝る必要などないということだろう。
「だから、思い出と……過去と決別なんかしなくてもいい。そこに、新しい思い出を重ねていけばいい」
「……」
「それと、櫻が間違ってる点」
 そう言うと、櫻は射るような視線でオレを見た。
 自分の何が間違っているの? と、その視線は主張しているようだ。
「櫻は人を不幸にするだけだって言った。でも違う! オレは幸せだった。不幸だなんて思わなかった」
「そんなことない!」
 櫻が叫ぶように言う。
「なんでだよ? なんでそう思うんだよ?」
「だって、だって」
 櫻は両手の拳を強く握り締め震わせている。
「オレが櫻をかばって事故ったからか? オレはあれを不幸とは思ってないぜ」
「でも……」
「櫻、以前言ってたよな。オレが幸せなら自分も幸せだって……オレ、櫻が自分の前からいなくなることが一番不幸に感じる」
「で、でも……」
 櫻は何かを言おうとして、しかし口を閉じる。
「だから、オレはまた櫻と一緒にいたい。思い出を作っていきたい。一緒に幸せになりたい」
 櫻は何度も首を横に振りながら呟いている。
「ムリだよ……ムリだよ……私に幸せなんて……」
 オレは櫻の両肩を掴み、強引に引き寄せた。
 抱き寄せて、唇を重ねる。
 しばらくして唇を離す。櫻の温もりが伝わってきた。 
 そのまま抱き締め続ける。
「バカ……やっぱり尚也はズルイよ」
 言って櫻はオレの背中に手を回し、しっかりと抱きつく。
 オレはこの温もりを忘れない。この瞬間にすでに新しい思い出は始まっているのだから。


「すごいびしょ濡れになっちゃったね」
 櫻はオレに腕を絡めて隣を歩いている。雨はすでに止んでいる。
「部屋に戻ったらフロ沸かさねえとな」
「あーっ!」
「な、なんだ?」
 櫻はオレの問い掛けに深刻な顔をして答えた。
「部屋の中のもの、みーんな実家に送っちゃったから……き、着替えがない」
「……上着なら貸せるが。ジーンズは乾かせばいいとして……問題は……」
 イカン、目がどうしてもあそこにいく。……スタイル良すぎだお前は。
「今……いやらしいこと考えたでしょ?」
「え? いや、そんなことは……ぐえっ!」
 櫻は腕を絡めた状態で、器用にオレの脇腹に肘打ちを入れた。
「まったく」
 櫻は少しうつむき加減になる。頬が赤くなっている気がするのは気のせいか?
「まったく、今部屋に布団とかもないんだから……しばらく泊めさせてもらうけど……変なことしないでよ」 
 オレはその言葉に舌打ちし、指を鳴らす。
 次の瞬間、櫻がこちらを睨んでいた。
 かなり恐い。
「は、はい。自信はないけど」
「バーカ」
 今度は怒っていない……一体どっちなんだ?
「コンビニで下着買ってかなきゃな」
 櫻はそう呟いた。そして付け加える。
「外で待ってなさいよね」
「櫻……当分の間、洗濯はどうするんだ?」
「……」
「……」
「洗濯機借りるけど……変なこと考えないでね」
「はいはい」
「それと、今日は日曜か……服飾買ってくるから付き合いなさいよ」
「だから、実家から届くまでオレが上着ぐらい貸すって。金の無駄だぞ」
 そう言うオレを、櫻は再度睨めつける。
「あの狭い部屋でびしょ濡れの美女が、男に服を借りる……はたして私は無事でいられるのでしょうか?」
「……」
「黙り込むな!」
 三度、櫻の肘打ち。だから、かなり痛いんだって。
 と、その時。
 日が差し込み始めた。
 本来なら少し前に夜は明けていたが、しかし、やはりこの言葉が自然と出てくる。
「夜が明けたな」
 オレの脇で櫻が頷く。
「私は夜明けが好きなんだ。見れてよかった」
 そう、夜は明けた。
 この瞬間から、新たな日々が始まる。
 今、オレと櫻は新たな一歩を踏み出した。
 過去の上に現在を歩き、さらに未来を歩きだすその一歩を。

【Gloom under the cherry blossom】 - 全章まとめ読み -
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