ヒロさんから沙英(ひだまりスケッチ二次創作4)
陽ノ下光一
「へぇ〜、じゃあ今日は、ずっとお勉強会だったのね♪」
「ん、終始ゆるっとした感じだったけどねー」
癖の強い髪を左右でお団子にしている少女が、スレンダーで理知的な雰囲気の少女に問いかけると、そのような返事が返ってきた。
「ゆの達には勉強とか、色々頼ってもらってるけど……私自身、自分の進路とか決めかねてるんだよね。みんなが思うほどには、かっこよくもないんだよね、私」
理知的なメガネの少女が、表情を少し曇らせる。すると、もう一方の少女はその表情に似合う、優しくおっとりした声で励ますように言った。
「沙英の悩みは素敵な悩みだもの。そんな沙英も含めて、みんなから頼られているのよ」
沙英と呼ばれたメガネの少女は、頬をかいている。大人びた雰囲気を出しているが、その根は照れ屋であるようだ。
「文系か美術か……あれから1年経つのに、まだ決められないなあ」
思わずつぶやくように、沙英が口に出した言葉。彼女達は高校3年生であり、1つの課題が目の前にぶら下がっていた。
「ヒロー。ヒロはもう決めた?」
ヒロと呼ばれたもう一方の少女は、沙英に砂糖とミルク一杯のコーヒーを差し出すと、そう問いかけられた。
「私は……美大かな」
癖っ毛のお団子ヘアーに、穏やかな表情が似合う少女……ヒロはそのように応えた。
「そっか、そうだよねー」
沙英はコーヒーを口にすると、軽くうなづいた。彼女にとって予想済みの回答だったようだ。
「美大に行くか、文系の大学に行くか……もう決めないといけないのになー」
沙英の半ばぼやきに近いそれを、ヒロは黙って、笑顔を浮かべたまま聞いている。ヒロは目の前の親友の悩みについて、よく理解していた。
彼女達2人の出会いは、2年前の春だ。
私立やまぶき高校……ここは美術科が設置されており、地元だけではなく全国各地から生徒が集まる人気校だ。
その正門真向かいに、2階建て6室の小さなアパートがある。名前を「ひだまり荘」と言い、やまぶき高校で親元を離れて生活する生徒達が入居している。ヒロ達が3年生になった時こそ、各学年2名ずつが入ったが、それ以前は空室がある状態だった。このアパートは美術科の「奇人・変人」が集まると評判だとは、彼女達も入学後、知る事となった。
「あなたも、ひだまり荘なんだ」
やまぶき高校入学式の閉会後、ヒロがひだまり荘に戻ろうとすると、先ほど同クラスになった長身の少女が同じ敷地内に入ろうとしたので、思わず声をかけた。
声をかけられた方……沙英は、頭をかきながら、苦笑していた。
「あ、同じクラスの……ヒロさん……だっけ? ゴメンゴメン。賞の締め切りが明日だったから、忙しくって、他の部屋に挨拶に行ってなかったんだ」
「賞の締め切り?」
ヒロが問いかける。
「うん。趣味で小説を書いてるんだ」
自分と同い年で賞の獲得を目指している。見た目の印象と相まって、かなり大人びた人……同時に、ちょっととっつきにくそうな印象も受けた。
「沙英さんは、小説家になるつもりなの?」
「うん」
ヒロの問いかけに、沙英は即答した。
「これで賞が取れれば、一応プロの小説家としてデビューできるんだ」
「でも、じゃあ……沙英さんはどうして美術科に入ったの?」
「ああ、私ね……自分の小説の挿絵は、自分で描きたいんだ。だから、美術を学ぼうと思ってさ」
ヒロは思わず感嘆したが、同時にこの少女が遠い存在のようにも思えた。自分みたいに絵が好きだから……という理由で高校を選んだのと異なり、ビジョンが明確。まるで、大学生か社会人のようだ。
「私は102号室なんだ。ヒロさんは?」
「私は203号室よ」
「そうなんだ。じゃあ、これから3年間よろしくね」
「うん、私の方こそよろしく」
これが彼女達2人の出会いだった。
その後、同じクラス、同じアパートという事もあって、時間を共有する事が日ごとに増えていった。互いに買い出しが必要な時は声を掛け合うようになり、勉強と称しては一方の部屋を訪れる機会も多くなった。
「沙英。お夕食できたから、一緒に食べない?」
1年生の初めの頃には、ヒロが2人分の夕食を作る光景は日常的なものになっていた。
「あ、ありがとー。すぐ行くよー」
沙英もいつしかヒロの部屋で夕飯を食べる事が、珍しくなくなっていた。そのきっかけもあった。
沙英は見事に投稿作品で受賞し、高校生にしてプロの小説家としてデビューを果たした。果たしたのは良いのだが、仕事の締め切りに追われながら、学業を両立させるのは容易な事ではなかった。
「ちょっと、沙英。ちゃんとご飯食べてるの?」
「あー……うん、最近忙しくて」
「それにこのところ、全然寝てないんじゃない? 顔色だってよくないわよ」
ヒロに指摘されて、沙英は苦笑いを浮かべている。時間を共有する事が多くなったため、ヒロは沙英の日常生活が色々と気にかかるようになってきた。
「もう……沙英。今日の夜は、私の部屋に来てね」
「あー、でも今は……」
沙英が言い淀む。ヒロが玄関口から沙英の部屋をのぞきこむと、沢山の紙が机の後ろに書き散らしてあった。仕事が行き詰まっている様子だと、彼女は気付いた。
「ちゃんと栄養を摂らなきゃ。倒れちゃったら、元も子もないでしょ」
「う、それは分かってるんだけど」
ヒロの言葉に、沙英は眼を泳がせている。ヒロは沙英の手をとって、笑顔に弾むような声を乗せた。
「今日はとびっきり美味しい料理を作るから。一緒に食べましょ。2人で食べた方が、楽しいわよ」
「あ、うん」
笑顔に押されてか、沙英はちょっと赤くなった様子でうなづいた。
こうして、ヒロはいつしか、仕事で忙しい沙英の様子を気遣うようになり、沙英もそれを受け入れるようになった。まもなくクラスメート達から、「まるで夫婦みたいだね」と半ばからかわれるような関係になっていた。
元々ヒロが母性溢れる性格だった事も、そうなった要因かもしれない。また、沙英自身もまだまだ高校1年生の少女だった事も、その関係を急速に接近させたようだ。
「今回の沙英のお話も、素敵なお話だったわね」
「そ、そう。あ、ありがとね」
沙英は周囲の親しい何人かには、自分のペンネームである橘文という名前を教えていた。当然、ヒロには一番最初にそれを教えた。
「沙英の書く、恋愛ストーリーって素敵よね。観覧車から夕陽を見るシーンなんて、思わず赤くなっちゃった」
ヒロの203号室で夕飯後のコーヒーを楽しみながら、沙英の作品の話題が出る事も度々であった。
「ふふ。沙英ったら、よほど恋愛経験豊富なのねー。中学生の時、モテてどうしようもなかったんじゃない?」
ヒロが座卓に頬づえついて問いかけると、沙英は赤面しながら声を上ずらせた。
「あ、ああもう。中学の時は大変だったよー。彼氏8人もいて、どうしようも無いから曜日担当制にしちゃってさー!」
「ふふ、大変だったわねー」
ヒロは言いながら思わず笑ってしまう。要するに沙英は普段は大人びて、ちょっととっつきにくそうに見えながら、同年代の少女に違いないのだ。
恋愛経験など実際には皆無に違いないのだが、強がって嘘をついている。が、根が真っ正直なため、誰が聞いても荒唐無稽な作り話である事が明らかなのだ。
こうした事が積み重なる内に、ヒロは沙英に最初感じていたとっつきにくさを感じなくなっていた。いつしか2人は互いが互いを支える……といっても、どちらかと言えば、ヒロが献身的に沙英を支えているという関係がごくごく自然なものになっていた。
彼女達が2年生になると、みさと、リリの両先輩がひだまり荘を出ていった。沙英の隣室であるリリが卒業したため、ヒロは空き部屋となった101号室へと契約更新の際に引っ越してきた。
部屋が隣室になった事で、2人はますます一緒の時間を過ごすことが多くなった。同時に、新しく入って来た、ゆのと宮古という1年生2人も含めて、まるで家族のような感じで高校生活を過ごすようになっていた。
1年生の宮古はいつも金欠腹ペコで、ヒロの料理を美味しそうに食べていき、ゆのは様々な悩み事を打ち明けに来てくれた。毎日何かがあり、楽しく過ごせる日々がそこにあった。
「3年生か……」
沙英がつぶやくように言った。2人が一緒の時間を過ごすようになって2年を経過している。ひだまり荘には、2年生となったゆのと宮古の他、1年生の乃莉となずなが入居している。自分達はもう最高学年になっていた。
リリ先輩が卒業して1年以上が経っている。この101号室は、ヒロと沙英、後輩達と共有する時間が多くを占めるようになり、それは永遠のもののように感じていた。
だが、巣立っていった先輩達のように、自分達の巣立ちも目の前に迫ってきている。修学旅行は先日終わり、眼前の夏休みが過ぎれば……あっという間の事だろう。
沙英が進路調査票にどのような進路を書くべきか迷っている事を、ヒロはよく知っている。まだ、沙英の進路調査票が白紙のままである事も。それは、夏休みが明けたら提出しなくてはならない。しかし、まだ3年生のこの時期になっても白紙であることを。
沙英は小説家として文系大学で文筆を極めたいと思っている。また、挿絵を描くために美術を学びに来たのに、勉強する内に美術にも魅了されて、美術系大学に行きたいという思いも持っている。ヒロは、そんな沙英の抱えるジレンマを知っていた。
先ほど、沙英に聞かれた時に、実はヒロは少し言い淀んでしまったのだ。
「ヒロー。ヒロはもう決めた?」
と、進路について聞かれた時、ヒロは複雑な思いを抱えながら「私は……美大かな」と応えていたのだ。
ヒロは小さい頃から細かい作業が好きで、小中学校で絵を描いては両親や先生に誉められ、いつしか絵をたくさん書くようになって、美術科へと進んできた。そこから先は……と、彼女は迷っていたのだ。
美術が好きな事は疑いようも無く、ヒロは美大に進む事が自明のようにも思っていた。しかしそれは……おそらく文系に進むだろう沙英と、同じ空間を共有できなくなる事も意味していた。
ヒロにとって、このかけがえの無い親友との時間が失われる事の方が、進路を決める上で悩ましいものになっていた。
沙英が明確な目標の中で進路を決めかねているのと異なり、ヒロは目標の手前の段階で進路を決めかねている事を自覚していた。
それゆえ、彼女の進路調査票も実はまだ白紙のままであった。
「大丈夫よ、沙英」
進路に迷う親友に、ヒロはそう声をかけた。いつものように笑顔で言ったつもりだが、心情が反映されてか、その表情は少し曇っていたかもしれない。
「そうだね、うん。ありがと、ヒロ」
沙英はうなづいてくれた。ヒロにとってこの親友の背中を支える事が、学園生活の中で一番自然で、大事で、嬉しい事も明白だった。だから、いずれ一緒の空間を共有できなくなるとしても、親友の追っている目標へ押し続けてあげることが、彼女には自明の事のように思えた。
「ごちそうさま。おいしかった♪ 流しに置いていい?」
「ありがと。適当に重ねちゃって」
この日の夕食も、沙英と過ごすことができた。この先、後何回、こういう機会が残っているのだろう。漠然とした不安がよぎるが、それゆえに1回1回のこういう場を大事にしたかった。
「……ヒロの字って、優しくていい字だよね」
「えっ? 何? 急に……」
急に言われた事に、ヒロが振り向くと、冷蔵庫に貼っていたメモ書きを沙英は見ていたようだ。
「ん、見たまんま言っただけだよ」
「もう、沙英ったら……お世辞言っちゃって」
言われて、照れてしまうが、素直に受け止められる。沙英と一緒の時間……残り少ないけど、大事に過ごしたい。そう思うヒロは、今日も考えあぐねて、美大に進むと言うほぼ明確な進路希望を持ちつつも、進路調査票にそれを書けないまま、1日がまた過ぎようとしていた。
【完】
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