【巡り会う運命】 - 全章まとめ読み -
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巡り会う運命
                                                  陽ノ下光一


『その城は臣民を睥睨していたのだ。その空に浮かぶ姿は圧巻などという言葉では表現し得ない。全ての臣民は支配され続けるかに見えた。しかし、永遠に続く国家など有史以来存在しない。古来全ての道はエルトリア帝国に続くと言われたが、かの帝国も滅びた。獅子心王リチャードの飛翔帝国ブリタニアも、彼の率いる翼竜飛行魔術部隊が、全大陸連合軍の魔術部隊を総動員した大陸障壁に阻まれて孤立し、当時としては画期的だった制空権の概念を喪失するとともに崩壊した。全大陸連合は強敵の崩壊とともに分裂し現在に至るが、その中でも大国であった要塞帝国パリス(現フランス共和連邦)の崩壊は、近代市民社会の幕開けであった。それが政争と臣民の不満、それを有機的に結び付けた抵抗組織に要因があるというのは現在の通説であり、私もそれに賛同する者である。全てを象徴するのは、浮遊要塞の最期である』
S・F・Iwaki『History of Continental States』


「粛清だ! 粛清せよ」
 真紅と金色に光る衣服に身を包んだ貴族が兵士を従えて、城内を血走った目で駆け回っている。自身の行動に心酔しきっている感すらある。
 兵士が開け放った扉の先には、東洋産の絹織物を、高級なソルフェリーノ産染料で染め上げた服に身を包んだ老紳士がいた。本来ならば彼らに敬われるべき立場の人間である。
「騎士であろうに守るべき礼も知らんと見えるな」
 老紳士は毅然として言い放ったが、しかし彼らの心を一センチ動かすことすら叶わなかった。
 隊長らしき男が手を振り下ろすと、短銃が斉射され老紳士の身体に無数の穴を穿った。突然その身体が業火に包まれたかと思うと、後には灰しか残らなかった。
 魔術弾である。予め銃弾の中に魔力を持つ鉱石を埋め込むことにより、様々な効果を持つ銃弾が作れるのである。
 この時代は、遺体は土葬して敬うのが常識であり、燃してしまうことは最大の不敬とされていた。
 しかし、このような事が城の各所で行われていた。阿鼻叫喚の地獄絵図は二日二晩に渡って続いたのである。


『同志よ、どうやら機会が巡ってきたようだ。しかし、しばらくは自重すべきだ。若いやつらは血気盛んでいかんなあ』
          J・ポールの手紙『我が同志へ』


 いつの世にも貧富の差は存在する。絶対専制君主国家ではなおさらであった。王侯貴族と聖職者が、疲れきった老農夫に背負われているカリカチュア。『野蛮な喧騒』と貴族たちが最近呼ぶようになった地上の街は、単に『パンをよこせ!』と叫んでいるだけではなかったのだ。
 それでも、天上要塞に出向可能な上級ブルジョアは、貴族たちとともに国民から搾取する側に立てただけよかった。中、下級ブルジョアはそのような恩恵に与れず、『自由競争を!』と唱えていた。
 しかし、彼らは利潤の追求に走れるだけよかったのだ。彼らは全国民の十分の二にも満たない。大半を占める農民、労働者は、その日の暮しにも困る有様であった。
 首都パリスは、六百年前に大陸障壁を張った際の地殻変動でできたフォンテンブロー山脈が南方に広がり、北方にはクレルモン山脈が広がる。そして、パリスの街はパリス盆地に広がっている。その盆地もセーヌ川とマルヌ川に挟まれており天然の要害となっている。
 そして、専制君主の牙城である天空要塞は、フォンテンブロー山脈の一角にあるヴェルサイユ上空に浮かび、パリスの街を睥睨していた。
 パリスの街は、ヴェルサイユに近い側から上級、中級、下級ブルジョア、そして貧民街で構成されていた。貧民街は狭い範囲に人口が集中し、住みにくさでは欧州一であった。
 その貧民街の一角に、広くスペースを取る傭兵ギルドがあった。かつては軍隊の中核を占めた傭兵も、今では貴族やブルジョアの用心棒。または街の警備隊として雇われる程度になっていた。
 しかし、欧州全土を繋ぐ傭兵ネットワーク網は、スラブ人から東洋人まで様々な人材の交流を可能にしていた。ギルドはかつての軍隊の徴募活動から、情報戦略の拠点としての位置づけに変化しつつあった。
 そんなパリスの傭兵ギルドに所属している者でもリーダー格の男がいる。その名をフレイズ・アレックスという。周囲が金髪、白肌の中、黒髪と、褐色の肌が目立つ男だ。
「アレックス。また寝坊かよ? 今日は重要な話があるってあれほど言ったじゃないか」
 ギルドへの依頼状況を知らせ、傭兵を派遣しているパリスギルド支部。その長である女は、朝から金切り声を上げていた。
「うっせえなあ。朝っぱらからキーキーと」
「何だって!」
 また始まったよと言わんばかりに、その場に居合わせた五十人程の傭兵たちは呆れ顔になった。
「話があんだろ。早く済ませろ。早起きさせられてだるいんだからよ」
 女はその後も金切り声を上げ続けたが、さすがに大人気ないと思ったのか、話を始めた。
「天空要塞の貴族たちからの依頼よ」
「あー、いいや。じゃな」
 アレックスは聞くのも馬鹿馬鹿しいといった感じで、入口へ足を向けた。
「ちょっと、まだ話してないだろ」
「どうせ、下界へ降りた貴族の残党狩りを手伝えって言うんだろ」
 女は言葉を詰まらせた。事の次第はこうである。
 先日の王の死により、跡目争いが起こった。結果、第一王子側の貴族が、第二王子側に付いていた貴族たちを奇襲し、壊滅させたのだ。
 しかし、一部の下級貴族の子息など、警戒が甘くなっていた者たちが脱出に成功していた。彼らは市街に潜伏している可能性が高く、市街戦に強く、広範な情報網を持つ傭兵にネズミ狩りの仕事が回ってきたのである。
「大体、逃亡者リストがなきゃ捕まえる相手もわかんないだろうが」
「わかんねえのか、乗り気がしねえって言ってんだよ。ババア」
 ババアと言われた女は、まだどう見ても二十代後半である。傭兵世界にいるにしては色白で、整った眉目。街を歩けばすぐに男が言い寄ってきそうな容姿も備えている。
「ババアだと。誰に口聞いてっか分かってんのかコラ」
「うっせえなあ」
「なーにがうっせえだ。アンタの実力なら楽に大金稼げるまたとない好機だ、これは」
 アレックスは、王宮近衛兵士百人と魔術師百人に相当するとまで言われた傭兵である。ただ、王侯貴族を毛嫌いしていている節がある。
「そうだけどよ」
 渋るアレックスに、女はカウンターの上に積んである紙を数枚取って押し付けた。
「お、おい」
「いいから持っときな。どう使うかはアンタに任せるけど、どうせなら奴等からたっぷりむしり取って、このサビーネ様を楽させとくれ」
「へいへい」
 アレックスが欠伸を噛み締めながらギルドを出ると、他の傭兵たちもリストを受け取って思い思いに散っていった。


『第一王子フィリップ、ブルボン王朝第五代国王に即位す。王名はルイ十六世』
               一七八九年五月五日付のパリス王立アカデミー新聞
『ルイ十六世、即位当日に貴族、聖職者、市民よりなる三部会召集。逃亡貴族の徹底した討滅を指示す。これによりパリス盆地が封鎖される可能性あり』
        同日の立憲派新聞『プチブル』の夕刊


『ポール氏に手紙を送るのはこれで何通目だろうな。ま、そんなことはどうでもいいさ。先日の氏の手紙にある通り、しばらくは行動を控えるべきだ。もう一つ決定的な決め手を持つまではな。現有の武器を有効に使える決め手を。

追伸 私も若い。若い者は血気盛んだと私に愚痴をこぼすな』
               若者Mの手紙『不良中年のポールへ』


 アレックスは暗くなった夜道、自分の住むアパートに向かっていた。
 貴族狩り以外にも仕事はある。国民が怨嗟の声を発している世の中だ。『税を安くしろ』『食べる物もないんだ』その声に『喧騒』以外のものを感じ取れない天上要塞の貴族と違って、上級ブルジョアは距離が近い分『喧騒』を恐れていた。
 護衛の仕事などいくらでもある。ましてやアレックスのような優秀な傭兵はいるだけでも雇い主に安心を提供できるのであった。
 アレックスは貴族狩りに気乗りがせず日常の業務を増やしていただけだが、それでも渡されたリストの顔はなるべく記憶していた。全部で千人を超す『逆賊』を記憶しきれるはずがないからである。
 渡された紙には五十人程度の代表的な者の似顔絵しか描かれておらず。それ以外は名前しか記載されていない。貴族が一般市民の住む町に潜伏していれば、すぐにボロが出るだろうから、それで十分なのだ。
「子供がいるんです。食べ物を……食べ物を下さい」
 アレックスが道端に目をやると、労働者たちが横になっていた。中には乞食まがいの事をしている者もいる。治安を守るため、夜十一時以降は外出禁止令が出されているのだが、住む家の無い人々はそんな令など受け入れようが無かった。
「おい、もう十一時はとっくに回っているぞ。早く家に帰れ」
 アレックスは労働者に対して言ったわけではない。それは無意味であると分かっているからだ。
「いえ……その」
 声は女のものであった。ランプを向けて照らすと、年の頃は二十程度だろうか。シルクのドレスを着ていた。東洋産なのか見事な純白。しかし高価だろうそのドレスは、あちこちが裂けており、土にまみれている箇所さえあった。
 アレックスはその格好と態度から、近隣の村から身売りされてきた娘かと考えた。よく売り物にされた娘が耐え切れずに逃げ出すことを知っていたからだ。
「追われてんのか?」
 女はコクリと頷いた。
「ならついてこいよ」
 アレックスがそう言うと、女は視線を逸らして困惑した表情を浮かべていた。
「夜警に見つかったら連行されるぞ。ただでさえ見回りが厳しくなってるからな」
 女はまだ迷う仕草を見せたが、結局アレックスの後について来た。
 アレックスのアパートはその路地沿いにあった。台所に風呂場、リビングと二つの部屋がある。この当時の平均的なアパートが台所と寝室しかなかったことを考えると、かなり広い。
「アンタはそっちの部屋を使ってくれ」
アレックスは胸鎧を外しながら、顎をしゃくって奥の部屋を指す。
「そこ空き部屋だから。寝具は引き戸の中にある」
 女は無言で頷いて、奥の部屋へと入っていった。
「さて、どうしたものかな」
アレックスは今夜ここで匿うにしても、その後のことは考えていない。
「サビーネにでも頼むか」
第一、男と住むより、女は女の家に匿ってもらった方がいいだろうと考えた。
「そういや名前を聞いてなかったな。なんていうんだ?」
 アレックスは服を着替えながら、奥の部屋にの女に尋ねた。しかし女は無言である。
 信用されているわけでもねえだろうし、仕方ないか。
 アレックスは気を取り直すと、
「オレの名前はアレックス。フレイズ・アレックスだ」
「え?」
 女は声に驚きの色を隠さずに、ひょっこり部屋から顔を出した。しかし、そこでアレックスの姿を見て、
「キャアァァァ!」
 悲鳴を上げると再び部屋の中に引っ込んでしまった。
「男の上半身見ただけで悲鳴上げるって」
 アレックスは半ば呆れながら服を着た。
「まあ、それだから逃げてきたのか」
 小声で独りごちる。
「おい、もう着替えたから出てこいよ」
 そう言うと女は警戒してか、ゆっくりと顔を出した。アレックスが服を着ているのを認めて、安心したらしく、部屋から出てきた。
「アンタの名前は?」
 アレックスは改めて聞いた。今度はあっさり答えた。
「スミア・テレーズです」
 スミア……どこかで聞いたような。 
 アレックスは何か引っかかるものを感じたが、それが何かが出てこなかった。
「珍しい名前ですね」
 テレーズは警戒をほとんど解いていた。その顔に微笑すら浮かべている。色白で線の細い女性だ。サビーネ同様美人だが、男世界で生きてきた彼女と違い、雰囲気にしおらしさが漂っている。
「まあそうだろうな。この国にはあまりいねえだろうよ。オレは傭兵だから、この国の出身じゃないし」
「じゃあ、どこの出身でいらっしゃるんですか?」
アレックスはその問いにうなった。
「親父も傭兵だったからな。どこの出身なんだか。どこか南方の出身だって聞いたことはあるけどな」
「お父様がですか?」
アレックスはかぶりを振った。
「先祖がだ」
テレーズはその言葉にこう続けた。
「実は私の遠い祖先も南方の出身なんです」
「へえ」
 テレーズは嬉しそうにそう言うが、アレックスとしては特に感じるものが無かった。
 パリスを構成する民族は、遠い昔にエルトリア帝国が崩壊した際に流れ込んできた亡命貴族と農奴たち、そして東方より移住してきたゲルマン系の民族から成り立っている。テレーズの祖先はゲルマン系ではないということかもしれない。
 だが、どちらの出身だったとしても、混血が進んでおり、外見上の見分けなどつかなくなっている。
「その服じゃちょっとマズイな。外に出るような服じゃない」
 土にまみれ、あちこち裂けているドレスでは人目に付き易い。これでは、パリスの町から逃がしづらい。
「オレじゃ女の服とかわかんねえから、明日知り合いに見てもらうか」
「知り合いですか?」
 テレーズはその表情に不安の色を隠さない。もし警察に通報されたらと考えると気が気では無い。アレックスもそれ位は察している。
「大丈夫だって。そいつは信用できる。密告とかそういうの嫌いなヤツだし」
「そ、そうですか」
 それでもさすがに警戒の色は消えなかった。
 オレが名乗った時はすぐに解いたのにな。
 アレックスは思いながら、言葉にせず、
「会えばわかるよ」


「へーえ、アンタが女を囲うとはねえ」
 次の日、アレックスはギルドを訪れてサビーネに事の次第を話した。サビーネはつまらなそうに頬杖をついている。
「追われてるみたいだから、かくまってやっただけだ」
「ふーん」
 サビーネはジト目でアレックスを見やった。
「頼むよ」
 アレックスが手を合わせると、サビーネは大きく溜め息を吐いて立ち上がった。
「わかったよ。……アンタみたいな野獣のとこに、そんなかよわい娘がいるのをほっとくわけにもいかないし」
「まだ手は出してねえってば」
 サビーネはアレックスを睨みつけると、その脇を通り抜けて外へ向かった。アレックスは慌ててその後を追った。
 サビーネはしばらく黙っていたが、アレックスのアパートの近くまで来て、思い出したように口を開いた。
「アンタさ、金があるんならその娘を店から買い上げたらいいんじゃないの?」
 アレックスはそれだと言わんばかりに手を叩いた。
「あ、そっか。そうすりゃいいんだ」
「でも、自分を売った両親の下に帰りたがるかしらね」
「テレーズ次第だな」
「へえ……呼び捨て。随分親しいことね」
「変な言い方するな。今日のお前、なんか変だぞ」
 アレックスがそう言うと、サビーネはそっぽを向いて、また黙ってしまった。アレックスは声をかけられず、気まずい沈黙のままアパートへ向かった。
「おい、戻ったぞ」
 アレックスが自室に入ると、テレーズが奥の部屋から不安げな表情で顔を出した。
「へえ」
 サビーネが思わず感嘆の声を漏らすくらいに、テレーズは魅力的な容姿を持っていた。髪は肩口で切り揃えてあり、流れるようにサラサラしている。肌は透き通るような白皙。化粧もしていないそれは生まれつきのものであった。
「こいつが、昨日話した知り合い」
「サビーネ様でしたっけ?」
「サビーネでいいわよ。アンタに合う服を買ってきてくれって、このバカに頼まれたんだけど……ってお前は部屋からちょっと出てろ!」
 そうどやしつけながら殴りつけてきたサビーネの拳を避わしつつ、アレックスは抗議の声を上げた。
「なんで家主のオレが出てかなきゃなんねえんだよ」
「ドアホ! テレーズのサイズを測るからよ。サイズがわかんなきゃ服が選べないでしょ」
「一緒に行けばいいじゃ」
「追われているのに外に出れるわけないでしょ」
 アレックスの言葉を遮ったサビーネは、完全に呆れ果てていた。
「じゃあ奥の部屋でサイズ測ればいいじゃねえか」
「そう言って覗くつもりでしょ」
 サビーネに指摘されてアレックスは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「だ、誰が覗くか!」
「動揺してるあたりが信用できないね。早く出てけ!」


 サビーネに背中を押されてアレックスはしぶしぶ部屋から出て行った。ふと振り返ると、サビーネの後ろでテレーズが笑っているのが見えたが、次の瞬間にはドアを閉められてしまった。
 アレックスが自室へ戻ってきたのは夕方頃であった。
「帰ってきたなバカ男」
 アレックスの姿を認めるとサビーネは笑いながら言った。今までテレーズと談笑していたらしい。テレーズは少なくとも表面上は、サビーネに対して警戒心を抱いていないようだ。
「追い出してしまって、すみません」
 テレーズがそう言って椅子から立ち上がった。その姿にアレックスは思わず見とれてしまった。
 白のシャツに赤の上着とスカート、アクセントに青のリボンをネクタイ代わりにしている。
「似合うだろ。私が選んだんだし、なによりテレーズが美人だからね」
 アレックスはサビーネを見ずに頷いた。完全に呆けている。
「ちなみに全部アンタのツケにしといたからね」
 そう言ってサビーネは数枚の紙切れを渡した。アレックスは何気なくそれを見たが、数瞬後頬を引きつらせた。
「な、な、なんだこの金額」
 サビーネはそんなアレックスを見て満足したような笑みを浮かべた。
「染料は高級品だからね。それに物がいいから値が張るのよ」
「あ、あの、私そんな高いものを」
 テレーズがすまなそうにアレックスの方を見た。アレックスは口をパクパクさせていたが、テレーズの表情を見て何も言えなくなってしまった。
「大丈夫よ。このバカ男、アンタの格好見て喜んでるわよ」
「そうですか?」
 アレックスは頷くことしかできなかった。


『ポール氏へいい連絡がある。先日言っていた切り札だが、なんとかなるかもしれない。その件について調べている。分かり次第結果を知らせる。あと、今日市内を回っていたら、不穏な空気を感じた。組織全体の把握はできているんだろうな』
          若者Mの手紙『不良中年のポールへ』


『ジャック・ファイエット氏惨殺さる。
 パリス市内、サン・ジェルマン教会でのミサの帰り、特権商人ファイエット氏が何者かに襲われた。通報により憲兵が駆けつけたがすでに惨殺されていた。ファイエット氏は浮遊要塞への出入りを許可されている商人であり、新政権との繋がりも深く、現在逃亡中の逆賊の探索に熱心であったことから、狙われたのではないかと捜査当局では見ている。この二日、新政権派の商人や要人の襲撃事件、放火事件が相次いでいるため、国家警察局は捜査人員を増強するとの声明を出した』
                       五月七日付のパリス王立アカデミー新聞


「ここまでに捕まえた貴族は七十五人か」
「といっても、それはウチの傭兵が捕らえた分だから、実際にはもっと……」
 言ってサビーネは何枚かの紙を見せた。
「憲兵や秘密警察も動いているしね。捕らえたヤツは片っ端から処刑されてるみたいだけど」
 アレックスが見た資料には、処刑された『逆賊』の名前と罪状が並べられていた。罪状『国家反逆罪』『危険思想罪』。
「二百人以上いるのか。まだ捜索始まって三日だろ」
「それだけ力を入れているんでしょ」
「逃亡貴族がテロ活動に走っているとも聞くけどよ」
「ああ、ファイエット暗殺事件ね」
 アレックスは首を傾げて見せた。
「何か気になることでも?」
「貴族のボンボンどもさ、自分が逃げるのも手一杯なのに、暗殺とかのテロになんか走れるのかな」
「そうね。考えたら変よね」
 サビーネは腕組みし、考えるそぶりを見せた。
「ところで話変わるけどよ。テレーズ、お前の所で預かってくれないか」
「何で?」
 アレックスは苦笑して、照れ隠しに頬をかきながら、
「いや、昨日のテレーズの姿見てからさ……なんつーか意識しちまって。眠れねえんだよ」
「へえ」
 サビーネはアレックスから視線を逸らした。明らかに不機嫌そうだ。
「頼むよ。やっぱり女同士の方がいいだろうしさ」
 そう頼むと、サビーネは大きく息を吐き出した。
「仕方ないね。いいわ、私が預かる。アンタのとこに置いといたら何があるかわかんないしね」
「助かるよ。オレも手を出さない自信が無くなってきててさ」
 アレックスは安堵の表情を浮かべて感謝した。
「でさ、彼女がいた娼館はわかったの?」
「それが教えてくれねえんだよ。よっぽど嫌な思いでもしたんだろうよ」
「なるほどね」
 サビーネは腕組みをして深刻そうな面持ちで頷いた。


『わが同志よ。お前の言う通り、血気盛んな若者というのは把握しきれないものだな。しかし、正体を周囲に悟られることなく行動して、かつパリス市内部の千五百人に及ぶレジスタンスの把握に勤めているオレの身にもなってくれ。取り敢えず、彼らに行動を自重するようには再度忠告しておくがな』
J・ポールの手紙『我が同志へ』


「ねえ、テレーズは英雄譚に興味ある?」
 サビーネはテレーズを部屋に案内するなりそう尋ねた。人目に付かないようにと、陽が落ちてからアレックスが連れてきたのだ。サビーネの家は傭兵ギルドの三階部分にあり、アレックスのアパートよりも広い。
「英雄譚ですか?」
 テレーズはやや間をおいて答えた。
「特に読んだこともありませんが、祖父やお父様がお好きで、よく話して下さいました。サビーネ様は」
 そこで、サビーネの手がテレーズの口先を遮った。
「様じゃなくて、呼び捨てでいいって。それで呼びにくければ、さん付けでいいから」
「あ、そうでしたね。それで、サビーネさんは英雄譚に興味があるんですか?」
 サビーネはその問いかけに嬉しそうに頷いた。
「小さい頃からその手の話に目がなくてね。今でも本を探しては読んでる」
「いつ頃のを読まれているんですか?」
「そうね、大体は読んでいるけど。最近は古代ものかな」
「古代ですか」
 テレーズの瞳に少し熱が宿ったようにサビーネは感じた。
「特にエルトリア帝国の英雄譚ね」
「本当ですか?」
 サビーネはテレーズが身を乗り出して尋ねてきたので少々驚かされた。これほどの反応があるとは思わなかったのだ。
「う、うん。やっぱり一番豊富だしね。見てて飽きないからさ」
「私がよく聞かされた英雄譚もエルトリア帝国のものなんですよ」
「へえ。じゃあさ、ウィンディの悲劇は聞いたことある?」
 テレーズは首肯した。
 スミア・ウィンディ将軍は、エルトリア帝国近衛兵団の片翼である装甲魔術兵団総長として活躍した名将である。そして美しく聡明な女将軍として有名で、ギリシアやイタリアでは小説家が好んで書く英雄の一人である。
 しかし、二十三才という若さで戦死している。
 この遠征の際の、近衛兵団のもう片翼である、長槍騎兵団総長フレイズ・イワキ将軍とのロマンスは、悲劇オペラが流行した時期には特に好まれ、ブリタニアのイギリス帝国女王エリザベスがオペラを見た後に、彼らのために記念碑を作ったことでも有名である。
「そういえば、テレーズの姓もスミアよね」
「そうですね。偶然でもあの名将と同じ姓というのは悪い気がしませんね」
「それに、美しいっていうのも共通ね」
 サビーネがそう指摘すると、テレーズは頬を手で覆って赤くなってしまった。
「アレックスさんも姓がフレイズですよ」
「有能な将軍と共通するのが力しかないバカだけどね」
 サビーネが肩をすくめると、テレーズはその仕草がおかしかったのか笑い出した。そこにサビーネの笑い声も加わった。


『マインツ氏へ。貴殿が依頼された調査内容の中間報告を送る。彼らの祖先は貴殿の予想通りの人物と考えられる。取り敢えず今のところはそれしか言えない。もっと綿密な調査を行うが、正式な結果報告は一ヶ月以内にそちらへ届けられると思う』
                イタリア支部長の手紙『パリス支部長へ』


「何だ?」
 市内を巡回中のアレックスの耳をつんざくような音が聞こえてきた。周りは狭い路地にアパートが立ち並んでいるため、遠くまで見渡せない。見れば何事かと住人たちが窓から顔を出している。
「とりあえず行ってみるか」
 アレックスは狭い路地を、音のした方へ向かった。走り出した直後、雷鳴が轟いた。空はよく晴れている。誰かが雷撃系の魔法を使ったのだ。
「どこのバカだ。こんな街中で」
 アレックスは舌打ちし、悪態をついた。雷撃系の魔法は周囲にも影響を及ぼすため、一般に広範囲魔法と呼ばれる。このように狭い路地に建物が集中している場所で使用すると、攻撃の対象外にも損害を与える。当然市中で使えば民間人に被害者がでる。
「う、これは……」
アレックスが現場に駆けつけると、黒く炭化して判別不能な死体が五体あった。その後ろには粉々になった馬車の残骸がある。
 きっと浮遊要塞からの逃亡者の仕業だ。そんな声がアレックスの耳に入ってきた。しかし、アレックスは逃亡貴族が、白昼堂々これほどの騒ぎを引き起こすはずがないと考えていた。闇討ちならともかく、このようなリスクの高い昼間のテロ活動を行う意義が、彼らにあるとは思えないからだ。
「何しやがる」
「うるさい。どけ! 邪魔だ。どかんか貴様ら!」
 そう言って、集まっていた野次馬たちを押しのけながら現場へ来たのは、警察ではなく憲兵であった。
 殺られたのは特権商人だな。
 アレックスは心中呟いた。憲兵が出てくるのは、彼らが仕える要人たちか、利益をもたらす人間に事件が絡んでいる時だけだからだ。
 アレックスは、人垣の方に目をやった。すると、口の端を満足気に歪めて立ち去る男が映った。周りの人間は被害者の方に気を取られているらしく、その男に気づいていない。
 アレックスは何気ない動作で人の輪から抜けて、気づかれないようにその男を尾行した。
 アレックスは剣技、体術だけでなく、魔術にも才能を持つ人間である。微かだが、その立ち去った男に魔術使い特有の気配があった。これは、魔術を使える人間でも、特に魔術に造詣の深い人間が感じ取れるもので、普通はわかるものではない。例えて言うなら、剣豪が殺気を感じ取れるのに理屈がないのと同じことである。
 男は食料品店で小麦粉や卵などを買い込み、店主と雑談をした後、そのまま家に戻った。
 アレックスが家の中を覗くと、まだ三十路前の妻らしき人物と、四、五才の女の子が笑顔で男の帰りを迎えていた。男の笑う姿は、先刻の不気味な笑みと同一視できなかった。しかし、アレックスはこの男が犯人であると確信している。物証は無いが、魔術の気配と、なによりあの満足感に浸った顔がそれを裏付けさせる。
 殺し慣れているな。アレックスの傭兵としての経験が判断した。そうでなければ魔術とはいえ、白昼堂々と暗殺ができるわけがないし、家族の前で何事もなかったかのように笑顔を見せられるわけもない。
 アレックスは、最近のテロ事件の何件かはこの男が関わっているのかもしれないと推測した。貴族がやったと周囲では考えられているが、アレックスはそうは考えていない。ならば、この男の行動をしばらく観察すれば、なにか一連の事件の手がかりがつかめるかもしれない。そう考え、明日からこの男の監視と周辺の捜索にかかることにした。


『ジョセフ・ガリエニ氏暗殺さる。
 先日、また特権商人の暗殺事件が起こった。殺されたのは、宮廷御用達商人ガリエニ氏とその妻子五人。白昼の出来事であるが、目撃者がいないという奇妙な事件であり、捜査は困難を極めている。周囲で聞こえたという音や、現場の状況から、土属性の魔術で路面ごと馬車を吹き飛ばされた直後、馬車から出てきた一家を雷撃系の魔術が襲った模様。王はこのような逆賊によるテロ事件の多発に心を痛められ、逆賊に現在懸けられている賞金を倍額にすると仰せられた』
                      五月三十一日付のパリス王立アカデミー新聞


『我が同志よ。本日よりパリスの地下水路を利用し、クレルモン山脈に例の準備を開始した。パリスの地下水路は知らない者が入り込んだら永遠に迷うとまで言われている。貴族の奴等に気づかれることはない。計画は十五年も前から練りに練られたもので、資材だけは十分に揃っている。後は、お前の言う切り札とやらがどこまで使えるか。あの浮遊要塞を無力化できるかどうかが勝敗を分けるからな』
                              J・ポールの手紙『我が同志へ』


 ドアを誰かがノックする音。深夜にここを訪れる人物は限られている。サビーネは書きかけの手紙を机の引き出しにしまった。
「誰?」
「テレーズです」
 サビーネは嬉しいような期待が外れたような、そんな感情の混ざり合った複雑な表情をしたが、それは一瞬のことであった。すぐに普段の快活な笑みを浮かべ、隣の部屋に住んで一ヶ月近くになる来訪者を迎えた。
「どうしたの? もう十二時過ぎよ。夜更かしは美容の大敵なんだから早く寝なきゃ」
 中に入ってきたテレーズに、サビーネにしては説教臭いことを言ってみせた。ニヤついているからには冗談に違いはないのだが。
「大丈夫ですよ。だって、夜更かししてもサビーネさんは美人じゃないですか」
「ま、私は特別よ、特別」
 サビーネは微笑しているテレーズを見て、心中では変わったなと思った。
 最初来た頃は冗談を冗談とも取れない娘だったのにね。
 サビーネはそう考えると、嬉しいと思う反面、胸が締め付けられるような感覚に捕らわれるのであった。
「で、どうした?」
「その……最近何かありましたか?」
「え?」
 テレーズの言葉にサビーネは思わず動揺してしまった。それを表情に出してしまったため、次の瞬間しまったと思った。
「よく夜中まで何かされているみたいですし、ボーッと上の空になられていて、こちらの話を聞いていらっしゃらない時もありますし」
 勘づかれているのかな? 
 サビーネは冷や汗が滲むのを感じた。
「もしかして……アレックスさんの事で何か?」
 サビーネは思わず椅子からずり落ちそうになった。
 なんだ、そっちか。ま、この娘らしいよね。
 安堵の溜め息を吐いた。
「ん、まー何というか……あのバカがさ。その前に、最近街で起こっている事件は知ってるわね?」
「新聞に載っているテロ事件ですね」
 テレーズは少し俯き加減になって答えた。サビーネは、その微妙な表情などの変化に気づかないフリをして頷くと、
「それでね、アイツさ……犯人の捜索に当たっているのよ」
「?」
「そんなのより儲かる仕事なんていくらでもあるし、第一そんな危険な事に首突っ込むな! それに殺された連中なんて、貧乏人から利益吸い上げている浮遊要塞のバカに群がるハイエナじゃん。って言ったら怒られた」
 一瞬テレーズが複雑な表情を浮かべた。サビーネは言った事に後悔して、しかし言葉には出せず、心の中でゴメンと謝った。
「アイツね、こう言ったの。『殺された連中の中には、そんなのとは無関係な小せえガキとかもいたんだよ! しかもな、そのガキを殺したヤツは、その後自分の家族と一家団欒のひと時を楽しんでやがったんだ! うまく言えねえが、なんか許せねえんだよ。絶対今度は現場押さえてやる。他に仲間がいるかも知れねえから、それも見つけ出してやる。』ってね」
 サビーネはため息を吐き出した。
「アイツらしいよ。ダメだね。私は理解してやれないし、それに」
「それに?」
 小首を傾げて聞くテレーズを見て、思わずサビーネは愚痴と一緒に出しそうになった言葉を飲み込んだ。この娘といると思わず色々言っちゃうね。危ない危ない。 
「サビーネさん」
「何?」
「アレックスさんのことが好きなんですね」
「え?」
 サビーネはぎこちなく顔を上げた。テレーズは微笑を浮かべたまま言っているが、冗談ではないことは明白だった。
「さ、さあね。どうだろうね」
 サビーネはかすれた声でそう答えるのが精一杯であった。が、普段のサビーネらしくもなく視線を逸らしているので、否定は不可能であった。
「いいじゃないですか、素直になれば。本当にいい人ですし」
「私はだから別に……好きとか嫌いとか」
 サビーネの言葉の後ろの方は、もはや消え入るような声であった。
「私は憧れますよ。ああいう人」
「何で?」
「だって、愚直なくらい真っ直ぐで、不器用で世渡りはうまくなさそうだけど、優しいし、強いし」
 テレーズはそこまで言って身を少し屈めて、サビーネの顔を覗き込むようにして再度尋ねた。
「どうなんですか?」
「好き……だよ」


「こんな時間に何やってんだ?」
 そう呟いた男は、年の頃ならすでに五十前後、精悍な顔つきで、それを豊富な顎鬚でさらに強調している。右目は刀傷らしきものが走っており、眼帯で隠している。
 男の視線の先には、廃兵院より多数の兵士が出てくる光景があり、最後尾が出てくるのに一時間ほどかかった。
 すでに時間は夜中の一時。外出禁止令が出ているため、外を出歩く市民は皆無である。
「だいたい二千人ってとこか」
 男は見つからないように、兵士たちから死角となる建物沿いに移動しながら後をつけた。
「これだけの兵士が出て行ったってことは、浮遊要塞の中の兵士は、近衛部隊ぐらいだろうな」
 男が四十分ほど兵士の最後尾をつけていくと、彼らはパリス市中央を南北に貫通するサン・ミッシェル通りに出て、そこからパリス郊外に分散していった。
「へえ、封鎖網を作る気だな」
 男は今までに蓄積している膨大な情報から、彼らの目的を察した。
「それならそれで、オレたちにとっては好都合ってやつだがな」


「よくも娘を!」
「オレたちが何をした!」
「家族を返せ!」
 夜が白みだす頃、鍬や鋤を持った集団が、怒号を上げながら軍隊の正面に現れた。
「なんだこいつらは?」
「構わんからブッ殺せ!」
 兵士たちが突然の出来事に混乱した。しかし、隊長クラスの人間は少なくとも表面上は平静さを保つことに成功し、兵士たちに命令を下していた。
「でも、こいつらは民間人ですよ」
「我々を攻撃してくる者は全て陛下の敵だ!」
 パリス市の東へと行軍していた部隊は、パリス市から十キロほど郊外に出たところで民間人の攻撃を受けた。その数は百人以上。
「撃て!」
 隊長の号令一下、五百人近い兵士が隊列を三つに組み、短銃を斉射した。それだけで、戦闘の訓練など受けていない民間人たちは潰走した。
「追うな!」
 隊長は逃げていく民間人を見て部下を制した。
「治安維持局に通報しておけ。彼らに残敵の掃討をやらせればいい。我々はパリス盆地の封鎖が任務だ」


『パリス盆地封鎖される。
 六月六日未明、浮遊要塞の兵士二千名がパリスの東西南北の四街道を封鎖するため進軍した。逆賊のパリス盆地脱出はこれにて不可能となった。完全な封鎖は十日までには完成することになるとの発表があった。この動きは、最近地主などを襲いその財産を奪い取る農民反乱が地方で相次いでいることから、その動きを牽制する目的も含まれているようである』
                     六月七日付のパリス王立アカデミー新聞
『パリス市郊外の惨劇
先日の封鎖へ向けた軍隊の出撃と偶然にも同日に、重税に苦しめられている郊外の一部農民が王への直訴を考えたらしい。その際、憲兵が集会禁止令に反したとして集会場を襲撃し、女子供を含む三十二名が惨殺され、四十一名が検挙された。このことに憤慨した一部住民が、パリス市内へ移動しようとしたところ、封鎖行動のため移動中の軍隊と衝突し、六十名以上が殺害されたようである。その後、治安維持局により、その行動に関わったとされる村民百名以上が奴隷とされたらしい。地方の動きも、そしてパリス市民の嘆きの声も届く場所はどこにもないようである』
              同日の立憲派新聞『プチブル』の夕刊


 アレックスは、住居から傭兵ギルドへ移動する間、市内の雰囲気が変わったことに気づいた。すでに夕方近いが、多くの市民がそれぞれの家へ戻らずに、なにやら話している。
「何かあったのか?」
 アレックスはまだその日の新聞を読んでいない。六日から七日までの二日間にあったことをまだ知らないのだ。それに、この日は今まで集めたテロ事件に関する情報をまとめるために家にいて、特に人と話してもいないから知る術もなかった。
「おーい、サビーネ、いるか?」
 アレックスがギルド内に入ると、何人かの傭兵が酒を飲んで歓談していた。彼らはアレックスを認めると、敬意をこめた挨拶をしてきた。
 アレックスはそちらへ適当に挨拶を返すと、普段はカウンターの奥にいるはずのサビーネがいないことに気づいた。
「おい、サビーネはどこだ?」
「あれ? さっきまでそこにいましたけど」
 傭兵の一人がカウンターの方を指差した。
「あ、さっき手紙を出してくるとか言ってましたよ」
「そうか、じゃあ待つとするか」
 言ってアレックスは傭兵たちのいるテーブルではなく、カウンターのストゥールに腰掛けた。
「アレックスさん。サビーネの姐御に用でもあるんですか?」
「バカ。姐御にデートの誘いでもしに来たに決まってるだろ」
 その傭兵は酔っているらしく、アレックスに尋ねた傭兵の頭を小突いてニヤニヤしながらそう言った。
 次の瞬間には、アレックスが投げたグラスがこめかみに炸裂し、テーブルに突っ伏した。
「おや? アレックスじゃないか。どうした?」
 それから小一時間ほどでサビーネが戻ってきた。すでに外は暗くなってきている。夜警に出る傭兵が数人ギルドに集まって打ち合わせを始めていた。
「ん、いや。その」
 アレックスは、買い物袋を抱えたサビーネから少し視線を逸らして鼻先を照れくさそうに掻いた。
「先週は悪かったな」
 サビーネはすぐにわかった。あの時からアレックスはギルドに来ていない。
「別にいいよ。アンタの言ってることは間違ってないしね」
 サビーネも照れくさそうに言いながら、カウンターに入って買い物袋を下ろした。
「アレックスさん。もう一息!」
「バカ。お前が雰囲気を壊してどうすんだ」
 奥のテーブル席より、酒を飲んでいる傭兵たちが二人をからかった。
「アホかお前らは!」
 次の瞬間には、サビーネが投げつけたリンゴがそのテーブルにいた傭兵の中の一人の額に命中した。先ほどアレックスのグラスをこめかみにくらった男である。
「で、何か用?」
 リンゴを投げて少し平静さを取り戻したサビーネは、アレックスの方に向き直って尋ねた。
「テレーズが手紙で伝えてきたんだけどよ、お前さ、最近夜歩きしてるらしいな」
「それがどうしたのよ」
 サビーネのグラスを磨く手に力がこもった。
「最近治安も悪いしよ、あまり夜歩きするなよ」
「アンタだって夜歩きしてるじゃない」
「オレの場合は夜警が仕事なんだよ。お前女なんだからさ、夜に出歩くなよ。特に用もないだろうに」
 その言葉にサビーネはカウンターを手で思い切り叩いた。かなり大きい音が立つが、次にサビーネが発した言葉の方がよく響いた。
「なによ、その言い方。女だから何!」
「そんなムキになるなよ」
 アレックスはサビーネの剣幕に驚かされた。
「私だって……多くの人が」
「?」
 サビーネは、慌てて口を閉ざした。
「なんでもない。……それよりアンタ、これ知ってる?」
 サビーネは新聞を何枚かカウンターの前に広げた。
「なんだよこれ?」
 アレックスの手が震えていた。七日付けの新聞記事である。
「それが悲しい現実よね。政権が変わっても、結局多くの人は悲惨な状況のまま。もう百年以上もね」
 サビーネは大きく息を吐き出した。
「この前の件だけどよ」
 しばらく沈黙が続いた後、アレックスが話題を切り出した。
「やっぱり犯人は仲間がいたよ。この前の夜中、何人かの男と話し合いしてたよ」
「そう」
 サビーネは何故か気まずそうに視線を逸らした。
「他の連中も調べてみたところ、随分多くの人数抱えたグループみたいだ。今のところ二十人が確認できた」
 サビーネはこめかみを押さえながら、小さく溜め息をついた。その表情はアレックスに背を向けていたため、彼にはわからなかった。
「結構大きいグループがパリス市内にあって、それが逃亡貴族を隠れ蓑にしてテロやっているのは確実だ。今のところはそこまでしか言えないが。現場が押さえられないからな」
「警告は行き届いてるのか」
「何か言ったか?」
「いや別に。テレーズに会っていくの?」
 サビーネはアレックスの方に向き直ると、何事も無かったかのように話題を切り替えた。
「そうだな、しばらく会っていないし」
「じゃあ上にいる。私もここ片付けたら行くから先に行ってなよ」
 アレックスはわかったと言うと、二階に上がって行った。
「バレたら嫌われそうだな、私」
 サビーネは独り呟いた。


「で、謝ったんですか?」
 アレックスは頷いた。テレーズはそうですかと、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「このところ元気がなかったんですよ、サビーネさん」
「アイツがか?」
 アレックスが意外だと言わんばかりに声を上げると、テレーズは責めるような口調で、
「アレックスさんは全然女心がわかっていません。サビーネさんはああ見えても結構繊細なんですよ」
 まるで姉に説教される弟みたいだ。
 アレックスはそう思った。アイツが繊細かと疑問が浮かんだが、言葉には出さなかった。
 自分が傭兵世界という男ばかりの環境で育ってきているから、女心とかいうものに疎いことは彼自身も認めているのである。
 アレックスは、テレーズに尋ねなければならない事を思い出した。
「ところでよ、娼館は教えなくていいからよ、テレーズの実家はどこなんだ?」
「え?」
「だって、それがわかんなくちゃ逃がせねえじゃねえか」
 アレックスが尋ねると、テレーズは予想していた通り黙り込んでしまった。
「話聞いてると、別に親が嫌いだってわけでもねえだろ。なら、あとはオレが金出せるし、両親の所へ戻った方がいいだろ」
 娼館でもテレーズを探しているに違いなく、だとすれば実家に押しかけているはずなのだ。だから、早く金を持って両親の所へ行かせたほうがいいとアレックスは考えている。
「もう……両親は」
「え? あ、そうか。スマンな」
 アレックスは事情を察した。
「でも、実家はどこなんだ? 一応親戚とかもいるだろうし」
 しかし、アレックスの問いかけにテレーズは泣きそうな表情で首を横に振った。
「そうか」
 天涯孤独ってやつか。
 アレックスも両親はすでに亡く天涯孤独の身である。テレーズの心中が、どれほど辛いものなのかはいくらか想像がつく。
 二人の間に気まずい沈黙が漂った。
「おーい、メシができたぞ。来いよ」
 ドアを叩く音とともに、サビーネの声が室内に聞こえた。
 アレックスはそのタイミングのよさに感謝した。


『貴族にも課税を。
聖職者や貴族は全人口の二パーセント程度であるのに、所有地は全国の四十パーセント、年金は国庫収入の半分、免税特権まで持っている。このままでは国家財政は破綻する。この困難な状況の改善には、貴族の免税特権を解消するしかないという結論に、改革派改め国民議会は至った。我々は、貴族の特権を擁護する三部会より離脱し、憲法制定運動に邁進する。この新聞紙プチブルも名を改め「国民新聞」とする。我々は国民のより一層の支持を必要とする。最後には正しきものが勝利するであろう』
                        六月二十日付の立憲派新聞『国民新聞』の夕刊


『マインツ氏へ最終的な結論を伝える。彼らは間違いなくかの者たちの子孫である。我々がかき集めた資料の写しと、最大の証拠である家系図をそちらへ送る。パリス盆地は封鎖されているようなので、貴殿たちの仲間である下級商人の貨物馬車に紛れ込ませた。早い解放を切に願う』
                        イタリア支部長の手紙『パリス支部長へ』


 サビーネは書類と手紙を引き出しにしまって鍵をかけると、テレーズを部屋へと入れた。
「どうしたんですかサビーネさん? 急に話って」
「かなり大事な話なんだ。テレーズ……あなた」
 サビーネはテレーズに思い切ってその話を切り出した。


  アレックスは、男が何を話しているのかようやくわかった。
このところ何故テロ活動に走らなかったのか。ただ別の準備に追われていただけなのである。
「あとはきっかけだけだ。そしたらすぐにでも行動する」
 男の言葉が微かだがアレックスの耳に入った。


「早いな。もう七月だぜ」
「ちょうど新政権発足から二ヶ月になるな」
 辺りが完全に闇に包まれた頃、パリス市内を流れるセーヌ川のほとりに二つの人影があった。互いに背を向け合っている。周りを警戒するというよりも、互いに顔を見ないようにしている感がある。
 セーヌ川の方を向いて立っているのは、やや背が低く肩幅の広い人物。たくわえられた立派な顎鬚から男であるとわかる。
 もう一方の人物は、市街の方を向いて立っている。背は高いが、肩幅は広くない。その髪は結い上げられていた。
「驚いたぜ。まさか女だとはな」
「女は古代から歴史の転換点にいると相場が決まっているのさ」
「そういやそうだ。……ところで同志よ。名前は?」
「言えないね」
「信用してねえのか?」
「真打は最後まで正体を明かさないものさ」
 女にとってはジョークだったのか、笑みをこぼした。
「ポール氏。アンタの正体はわかっているぞ」
「ただの商人だよ」
 ポールは面倒臭そうに言った。
「そうだな。元宮廷近衛兵の商人だ」
 ポールは軽く口笛を吹いた。
「よく調べたもんだ。それを知っているのは死人だけだと思っていたが」
「二十五年前の蜂起の数少ない生き残りとも言う」
 ポールは唇を噛みしめながら、ただ黙って川の流れを見ている。
「あの時は鎮圧する側に所属してたよ。表向きにはな」
 ポールはそう言って手を振った。
「辛気臭い話をしに来たわけじゃねえ」
「そうだな。今を生きてるんだ。今のことを考えなくてはな」
「本当に男みたいだな」
「まあな。男世界で生きてきたしな。安心しろ。好きな男の前ではこれでも女さ」
「若いやつはいいねえ。さて本題に移るか」
 ポールは脇に抱えていた鞄から、数枚の資料を取り出した。
 それぞれの資料には『魔術弾と百五十ミリ臼砲』『地下水路』『構成員』『浮遊要塞の概要』『土属性の魔術と相殺する属性』と書かれていた。


『サン・ネッケル蔵相罷免される。
 改革派の提案に常に好意的で、貴族への課税を訴えていたネッケル蔵相が、先日王より罷免された。これは国民の訴えに耳を貸すつもりが無いという意味で、国民への宣戦布告である』
                    七月十一日の立憲派新聞『国民新聞』の夕刊


「今でも生活が苦しいというのに」
「上は何を考えているんだ?」
「家には怪我で働けない亭主が」
 アレックスが市内を歩いていると、集会禁止令が出ているにも関わらず、各所で市民が集まって騒いでいるのが見受けられた。
 ネッケルが罷免されたことで改革の象徴が失われ、これからはもっと酷い貴族側からの反動政治が繰り広げられるのではないか。そういった不安が市民の間に広がっているのである。
「そういや閉まっている店も多いな」
 アレックスがざっと見てきただけでも、半数近い商店が閉まっている。ネッケルの罷免で改革が後退するという懸念が広がり、物価が高騰し社会不安が広がって、暴動が起きそうな気配が漂い、商売どころではなくなっているのだ。
「アレックスさん」
 声をかけてきたのは、ギルドに所属する傭兵の一人であった。
「あちこちで憲兵や警察が市民の集会を解散させようとしているんですが、数が多すぎて対応しきれないそうです」
「それで」
「協力要請があるらしいんですが、どうします?」
「乗り気がしねえ。やりたいヤツだけやればいいさ」
 アレックスは傭兵たちの中では尊敬の的である。彼がやりたくないと言えば、他の傭兵もやらないだろう。
 それに、たかだか五十名程度の傭兵が加わったところで、百万都市のパリス全体で起きている騒ぎを鎮めるのにどれほどの効果があるのだろうか。
 戦闘ならともかく、相手は武器を持たない一般人である。戦うことと解散させるために行動することは全く違う。民間人を傷つけたならば、そこから暴動に発展しかねない。
「じゃあ、そう伝えてきます」
 言ってその傭兵は走り出した。これで傭兵たちが民間人と衝突することはないだろう。
 アレックスは、民衆の前でなにやら叫んでいる人物の中に、見覚えのある人物を発見した。以前にガリエニを暗殺した男と、その仲間たちである。
「もうこうなった以上は、我々が政権を取らなくてはいけない」
 男はそう叫んでいた。普段ならばすぐに通報されて憲兵や警察に逮捕されるだろうが、この日は市全体が収拾のつかない状態であり、逮捕に来る者はいなかった。
「アンタの言う通りだ」
「そうだ。このままじゃ死ぬしかねえ!」
 叫ぶ民衆は今にも蜂起しそうな勢いであった。
 アレックスはサビーネやテレーズの身が気にかかり、ギルドへと足を運んだ。
「おい、サビーネ!」
 ギルドには誰もいなかった。傭兵たちは出払っているのであろう。
「上か?」
 アレックスはサビーネの住まいになっている三階へと足を運んだ。
「アレックスさん」
 三階で声をかけてきたのはテレーズであった。
「無事だったか。いや、市内が大騒ぎになっててな。サビーネは?」
「それが……市内が大騒ぎになってから、マズイことになったと言いながら出て行きましたよ」
 アレックスは舌打ちした。もっと早く来るべきであったと後悔した。市内がこの様な状況では、いつどこで事件に巻き込まれるかわかったものではない。
「マズイことって何だ?」
「あ……」
 テレーズがしまったといった表情を浮かべた。アレックスは当然それを見逃さなかった。
「テレーズ。お前何を知っている?」
 テレーズは気まずそうに視線を逸らしたが、それで追求を免れるわけではなかった。
「おい、答えろ!」
 アレックスはテレーズの顔をつかんで自分の方を向かせた。
「でも」
「でもじゃない! なんなんだ? 教えろよ」
 テレーズはしばらく黙っていたが、やがて観念したのか大きく息を吐き出すと、まずこう切り出した。
「わかりました。私が知っている限りは答えます。その前に約束していただけますか?」
「何を?」
「この話を聞かれても、サビーネさんを嫌いにならないと」
「え? あ、ああ約束する」
 アレックスは、何がなんだかよくわからないままそう答えた。
「サビーネさん。実は現在の王政に反対する勢力の一員なんです」
 アレックスは目を大きく見開いた。
「今のでお察しになられたかもしれませんが、最近相次いでいたテロ事件。実はサビーネさんの所属するグループ内の過激派が行ったらしいんです」
 アレックスはサビーネが市中に飛び出していった理由がわかった。おそらく過激派が民衆を扇動して暴動を起こすのを阻止しようとしたのだろう。
 暴動を起こすには確かに最高のタイミングだが、城を制圧しなければ意味が無い。地方から軍隊が押し寄せて革命派は一網打尽にされるだろう。
 だから、おそらく計画が崩れるのを恐れて、彼女は危険を覚悟の上で外へ出て、仲間たちと連絡を取り合っているのだろう。
「しまった。テレーズ、お前はここにいろ。ここなら安全だから。オレはサビーネを探してくる」
 アレックスはそう言って外へ飛び出していった。
「アレックスさん!」
 テレーズが呼び止めるのも聞かず、
「まだ話の続きが」
 テレーズは一人取り残された。


「まったくどこに行ってるんだ?」
 アレックスは傭兵たちにも頼んでサビーネの捜索に努めたが、いつになっても見つからなかった。
「畜生! そうならそうとオレに言えばよかったんだ」
 アレックスは自分がサビーネに完全に信用されていたわけではなかったのかと思うと、無性に腹が立った。
「貴族たちが全て悪いんだ」
「そうだ。奴等を倒せ!」
 周囲に今にも暴動に発展しそうな気配が漂っていたが、アレックスはそんなのに関わっている余裕など無かった。


『おいオッサン。やばいことになってるじゃねえか。市内は暴動に発展する勢いだぞ。今動いたら計画は失敗する。だから、なんとか自重するように回ってみる。オッサンは動くなよ。アンタの身に何かあったら、本当に計画が瓦解しちまう。私が仮に死んでも、あの血気盛んなバカどもが死んでもいいから、オッサンは計画が瓦解しないようにしてくれ。じゃな。
追伸 今のうちに例の切り札とかに関する資料を送っておく。この前渡せなかったんでな。間違いなく彼らはあの古代戦記の人物の末裔だ。それにこの前言っていた娘は貴族の娘だ。どうだ使えるだろ。計画にピッタシだよ。計画のことはその娘にも言ってある。承諾は得てるから安心しろ』
                     若者Mの手紙『不良中年のポールへ』


 廃兵院とは、旧士官学校である。その敷地には現在では首都パリスを守備するために武器庫が設けられていた。そして広大な敷地を利用して、欧州全土でも十隻しかない千人以上を搭載できる巨大飛行艇が一隻と、十人乗りの小型飛行艇が二十隻置かれ、浮遊要塞との連絡や輸送に使用されていた。欧州最大の空港である。
 しかし、守備兵員は常時百名ほどであり、さらにこの時は郊外に兵力を抽出したり、地方反乱に駆り出されたりしていたため、三十名しか駐留していなかった。
 パリス市は軍事的に空洞化していたのである。
「おい、起きろよ。そろそろ勤務時間だぜ」
 兵士の一人が毛布に包まっている同僚を揺さぶって起こしにかかった。そう言う彼自身も朝に弱いのか、その目は眠たそうに見える。
 同僚は寝ぼけ眼を擦りながら、大きく欠伸をした。
「ちょっと顔洗ってくるから待っててくれ」
 そう言って、起こされた方は兵舎の外へ出て行った。
「あ、オレも顔洗う」
 起こしに来た同僚も、その後に続いた。
 男が兵舎の入口の鍵を外し、扉を開けると朝の清々しい空気とともに、いつもとは違う光景が映し出された。
 男はしばらく戦場というものを味わっていなかった。パリスの暇な武器庫兼飛行場の管理で勘が鈍ったのであろう。外にある多数の気配も、殺気も感じ取れなかった。
 次の瞬間、パリス市の静かな朝に、長い静寂を打ち砕く轟音が響いた。


『ポール氏よ、すまんが止められなかった。けど、なんとか仲間の多くはこの蜂起から離脱させた。それでも、ジョセフのグループは止められなかった。本当にスマン! 後は仲間たちを地下へ急いで潜伏させよう。この騒動の最中ならドサクサに紛れ込むことも可能だからな』
                           若者Mの手紙『不良中年のポールへ』


「武器は奪ったぞ! 次はバスティーユ牢獄だ」
「貴族の野郎をブチ殺してやるぞ」
レジスタンスの過激派として仲間内に知られているジョセフは、自分のグループ二十名の若手構成員とともに、パリス市民を煽動した。彼らレジスタンス構成員は武器を所有していたが、一般市民は持っていない。そこで、まず武器の確保のため廃兵院を襲ったのである。それは成功し、彼らは技術者に飛行艇の管理を任せる一方で、千名ほどのパリス市民部隊を率いて、バスティーユ牢獄へと向かった。
「バスティーユに囚われている同胞を解放するのだ!」
 基本的に、貴族以外の政治・思想犯はバスティーユ牢獄に収監された。もちろん貴族側にとって都合の悪い者が捕まるのが常であり、パリス国家のみならず、他のヨーロッパ諸国からも悪政の象徴と見られていた。
「ジョセフ。バスティーユを包囲したぞ」
「攻撃開始だ!」
 ジョセフがそう叫ぶと、廃兵院で鹵獲した大砲三十門が一斉に火を噴いた。通常の火薬弾である。対象を焼き尽くすとか、氷結させるような特性は持たないが、量産が効き、なにより安いという利点があった。
 轟音とともにバスティーユの厚い耐魔術壁に砲弾が炸裂した。壁の一部が衝撃によって崩れ落ちる。
「下賎な輩どもめ」
 バスティーユ監獄の守備司令官兼監獄長である壮年の貴族が、包囲している市民たちを牢獄の監視塔から睨みつけた。
 バスティーユは要塞を兼ねる堅牢な建物であり、高さ十五メートルの耐魔術壁が、牢獄の周囲八百メートルに渡って張り巡らされている。
 しかし、いくら堅牢でも守備兵が少なくては守れるものではない。
 バスティーユの守備兵力は二百人。この内、魔術を使える者は五名に過ぎない有様で、小銃が百丁あるが、弾丸は通常弾が七百発。魔術弾が百発しかない。
 司令官は兵数、装備面での不利を考え、反撃箇所を市民が最も多く集中し、攻撃が苛烈な東門に集中させた。
「暴徒どもを近寄らせるな」
 守備側の抵抗は激しく、市民側は百名を超える犠牲者を出した。特に、時折炸裂する雷撃系の魔術は広範囲を攻撃し、一度に十名以上が死傷することもあった。
「あ、熱い。誰か火を消してくれ!」
火炎系の魔術で誘爆させられた弾薬に巻き込まれる者もいた。
 しかし、包囲する側は弾薬が豊富にあり、大砲も備えている。魔術を扱う者もいる。しかも、東門以外からも攻撃を加えていた。陥落は時間の問題であった。
「司令官。南門が破られました。市民が雪崩れ込んできます」
「くそ! かくなる上はバスティーユもろとも全員自爆を遂げ、暴徒どもを道連れにし、陛下への忠誠を全うするぞ」
 司令官はその安っぽいヒロイズムに酔っていた。周囲にいる幕僚たちも瞳を潤わせ同意したが、ここで異変が起きた。
「ふざけるな。あいつらは皆パリスの市民じゃないか。なんで自爆までして全員死ななくちゃいけないんだ」
「そうだ。オレたちの仲間だぞ!」
 全員自爆の命令を受けた下士官や下級兵士が、逆に士官たちに襲いかかったのである。
 貴族たちは自分たちの論理に浸っていて気づけなかったが、バスティーユの守備兵の半数以上が、パリス市内や郊外の出身で、彼らは貴族たちよりも市民たちの考え方に共感していたのである。
「き、貴様ら血迷ったか?」
「うるせえ。黙れ!」
「死ね、貴族ども」
 貴族の無理解は兵士の反乱も誘発し、守備兵力を集中していた東門は、守備兵たちによって開かれた。


バスティーユ陥落から三時間後。十四日の夕方五時になり、ジョセフの率いる市民軍は廃兵院に集結していた。
「これから、フォンテンブロー山脈ヴェルサイユ上空に浮かぶ浮遊要塞に攻撃を仕掛ける。これで、我々は全ての抑圧から解放され、人としての生活を送れるようになるんだ」
「そうだ。明日からの飯にも困らなくなるんだ」
「貴族の気まぐれにビクビクする必要もなくなるんだ」
 市民たちが喚声を上げた。浮遊要塞の連中など一人残らず殺してしまえ。などの言葉が周囲を埋め尽くした。まさに革命のフィナーレが近づいているかのようであった。
「これより、この飛行艇を使い、市民軍一千名を浮遊要塞に乗り込ませる。ただし、負傷兵や少年兵はここに残りパリス市内の警戒に勤めてくれ」
「何でだよ?」
「まだオレは戦えるぞ」
 ジョセフの言葉に、飛行艇へ乗り込めない者たちから不満の声が上がった。
「全員連れて行きたいが、乗れる人数に限界があるんだ。どうか抑えてくれ。その代わり、ルイ十六世は公開処刑とする。それで我慢してほしい」
 一部の市民はそれでも不満を漏らしたが、それは本当に少数派らしく、ジョセフたちの行動を妨げるものではなかった。
 そして、市民軍がそれぞれ高揚した気持ちで飛行艇に乗船しだした。
「ジョセフ」
「何だ?」
「浮遊要塞は結界が張られているんじゃないのか?」
「魔術結界はな。どんな魔術も要塞までは届かない」
「コイツは大丈夫なのか?」
 仲間の一人が、市民軍がまさに今乗り込んでいる飛行艇を指差した。
「物理的な障壁ではないだろう。……飛行艇は普段から要塞と地上を往復してるじゃないか」
 ジョセフはそう言って飛行艇の方に向かった。負傷して地上に置かれていく仲間が、自分が手柄を独り占めするのが気に入らないから止めようとしたのだろう。その位にしかジョセフは考えなかった。


「おお、空を飛んでいるぞ!」
 飛行艇内部の市民から感嘆の声が漏れた。いくら飛んでいるのを見たことがあるといっても、実際、魔術で特殊加工された金属と木の船が飛ぶなどとは、感情が受け付けなかったのである。
「すぐに浮遊要塞だ」
 ジョセフがそう言った。浮遊要塞まではパリス市中心部から約十八キロであり、この飛行艇ならば三十分足らずである。
 そろそろ魔術障壁に当たる頃だ。大丈夫だよな。
 ジョセフは実際に浮遊要塞に向かい始めると、不安がこみ上げてくるのを禁じえなかった。
「でかいな」
 市民が上げた声は、飛行艇ではなく、浮遊要塞の大きさである。
 一キロ四方の正方形方の敷地が、上空二千メートルの位置に浮かんでいるのである。その敷地には絢爛豪華な宮殿が建っていた。全て、パリス国民の労苦の上にできたものである。
 その敷地の底部には、二十メートルほどの深さの城壁部分が広がっていて、そこは動力部や発着港があった。
「もうすぐ」
 ジョセフの言葉はそれ以上続かなかった。突然前方で船が砕ける音がして、一気に傾いた。
 市民が次々に押し倒され圧死したり、窓を破って地上へと落ちていった。船内に残った者もパニックとなった。
「くそっ! あれは何も通さねえのかよ」
 ジョセフは地団駄を踏もうとしたが、彼も次の瞬間には崩れてきた鉄板に挟まれて圧死した。


 地上でその光景を見守っていた市民たちは、自分たちが敗北したことを知った。
 浮遊要塞は落ちなかったのだ。


『市民の暴挙は失敗した。
 先日十四日。市民たちの一部が暴徒と化し、パリス市内を制圧後、畏れ多くも陛下を弑逆しようとした。しかし、浮遊要塞は陛下の見事な指揮の下、守られたのである。これより、暴徒どもには正当な罰が課せられるだろう。すでに郊外に布陣していた兵団がパリス市の暴徒を鎮定するため出撃した。』
                           七月十五日付のパリス王立アカデミー新聞


「見つからねえ」
 アレックスは十五日の明け方までサビーネを探して市内を駆けずり回ったが、結局見つからなかった。アレックス以外の傭兵たちもサビーネを探しているのだが、見つかってはいない。
十三日の朝から一睡もしておらず、アレックスの身体には既に限界が来ていた。
その間に市民の蜂起と失敗があった。失敗するのがわかっていたからこそ、サビーネは市中に危険を顧みず飛び出したのだろう。
市中の活動家たちの間を駆け回っていれば、秘密警察や憲兵の目に留まり易い。まして蜂起が失敗に終わった今となっては、サビーネの身はかなり危険な状態にある。
「蜂起は失敗したんだし、ギルドに戻っているかもしれねえな」
 もう既に地下に潜っている可能性もあるが、アレックスはギルドにいるという可能性に賭けてみた。正確には賭けたかった。もう一度会いたいというのが切実な願いだった。
 アレックスがギルドに戻ると、テレーズが一階のテーブル席に座っているのが目に入った。目の前に一通の手紙があるが、テレーズの視線は床に注がれていた。
「テレーズ」
 アレックスは、テレーズが一階に降りてきていることには驚かなかった。すでにパリス市内は混乱の極みにある。風俗街の者たちも、自分の安全を図るだけで手一杯になっているはずだからだ。
「アレックスさん。戻られるの……遅すぎです」
 顔を上げたテレーズの目からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
 アレックスはテレーズを軽く抱き寄せた。少しは落ち着いたのか、テレーズは話し始めた。
「そこの手紙。サビーネさんが今日の夜明け前に置いていったんです」
「来たのか?」
 テレーズは首肯した。アレックスは後悔したが、遅かった。
「サビーネさん。そろそろ手が回りそうだから、もう会うのはこれが最後だねって言われて、その手紙を置いて出て行ったんです」
 アレックスは、テーブルの上に置いてある手紙を手に取った。


『アレックス。正体隠したままでゴメンね。テレーズから聞いただろうけど、私はパリス国内のレジスタンスに参加してた。しかも幹部。驚いた? でもね、市内は大混乱。私の力じゃ止めようがなかったよ。貴族の連中あんな酷い事を百年以上もやってきたんだからね。一度火が付いたら止めれやしなかったんだ。あの混乱の中とはいえ、あれだけ動き回ってたんだ、私はおそらく憲兵や秘密警察が追うところになるわ。だからもう会えない。うまく逃げたレジスタンスの仲間に迷惑かけてもマズイから、地下にも潜伏しない。つけられていたらそれで一網打尽だからね。そろそろ手紙を閉じる。




 …………最後に言わせてくれ。私はアンタが好きだった。それじゃあね。テレーズのこと頼むよ。もうアンタしか頼れない娘なんだから』
                             最後までバカな女マインツ・サビーネより
 手紙には、その後ろに追記があった。
『アレックス。もし、レジスタンスに手を貸してくれるなら、ジャック・ポールという男に会ってくれ。住んでいる場所、合言葉はテレーズに教えた。できれば会ってほしい。そう言うとアンタは苦しむだろう。だから頼む。レジスタンスに加わってくれ。と最後に卑怯なセリフを残す』
 アレックスの唇は噛みしめられた力によって、今にも音を立てて血を噴き出しそうだ。テレーズはそれを黙って見ているしかなかった。


 精悍なその男の表情は憔悴しきっていた。彼、ポールの耳には市民が敗北し、郊外から軍が押し寄せて、市街戦が繰り広げられているという悲報が届いたからである。
「だから早かったんだよな。傭兵ギルドの姉ちゃんよ」
 ポールは、テーブルの上に置かれた手紙と、資料が入った袋を安楽椅子に腰掛けながら見ていた。それは、先ほどポストに投げ込まれた物である。
「オレが正体知らねえと思っていたんだな。甘く見ちゃいけねえ」
 そう独り言を漏らすポールは、口調とは裏腹に沈痛である。
「律儀に、渡した資料全て戻しやがった」
 袋に入っていた資料は、この前のセーヌ川での会合時に渡したものであった。
 ポールはコーンパイプの煙をくゆらせながら、手紙を手に取った。
『どうやら秘密警察に私の存在が嗅ぎつけられつつあるようだ。だから氏に送る手紙はこれが最後になるかもな。氏がくれた資料は、貴族側に渡るとマズイし、燃やすにも炎系刻印が押してあって焼却できなかったから返す。今夜の内には秘密警察が私を突き止めると思う。それまでにパリス市から脱出できれば私は助かるかもな。最後だろうから名乗ってやるよ。傭兵ギルドのマインツ・サビーネだ。じゃあな』
                                マインツ・サビーネの手紙『不良中年のポールへ』


 七月十六日に日付が変わる頃、サビーネはパリス市でも最も北側に位置するサン・マルタン門の近くまで来ていた。郊外に脱出し、外のレジスタンス組織と合流する望みは捨ててはいなかった。
 すでに、パリス市の四方から二千近い兵力が流れ込み、市民軍と市街戦を展開しており、市内の各所から火の手が上がっていた。
 サビーネのいる辺りは昼の内に既に戦闘が終結した地域であり、最前線に国軍の目が注がれている今は脱出の好機であった。
「そこの女、止まれ」
 サビーネは門側を向いたまま、視線だけを僅かに後ろへ送った。
 青を基調とした制服を着込んだ男が五名。思想弾圧を主任務とし、絶大な権限を振るって市民の恐怖の対象となっている、国家秘密警察である。
「何かしら?」
 サビーネは振り向いたそのままの姿勢で男たちを睨みつけた。
「外出禁止令違反だ。お前を逮捕する」
 リーダー格らしき男がそう言い放つと、残りの男たちがサビーネを取り押さえにかかった。
 あと一歩のところで見つかるとはね。
 サビーネは舌打ちした。
「もちろんそれだけではないがな。傭兵ギルドのパリス支部長殿」
 サビーネはその男の言い方に生理的な嫌悪すら覚えた。舌なめずりして獲物を狩ることに快感を覚えているのだろう。
 実際、秘密警察に検挙された"思想犯"、その多くは『抵抗』したとして殺されるのである。
 例えば、検挙した老人がふらついて彼らの肩に当たることも立派な『抵抗』なのである。
「レジスタンス過激派の幹部の間を行き来していたのはわかっているのだ」
 サビーネは後ろから羽交い絞めにされ身動きできず、男を睨みつけ強がるのが精一杯の『抵抗』であった。彼女は普段から強がってはいるが、別に身体能力が優れているわけでもない。男世界で生きるために身に付けた強さは腕力ではなかった。
「たっぷり仲間のことを吐いてもらいますよ」
 男はそう言って、サビーネの顎から首筋に手を触れた。
「汚ねえ手で触れるな。この獣野郎!」
 サビーネは言い放つと、首筋に触れていた男につばを吐きかけた。
 男はハンカチでつばをぬぐうと、静かな目でサビーネを睨みつけた。
「抵抗は万死に値する。楽に死ねると思うなよ」
 男はすぐ側の廃屋へ視線を移した。部下だろう男達の野卑な笑いと視線は、サビーネの肢体を品定めするかのようであった。


 アレックスはポールに会いに行く決心がつかず、結局疲れ果てていたこともあり、ギルドの仮眠室で眠った。テレーズも寝ていなかったらしく、三階の寝室で休んでいた。
 そして日付が変わって十六日の太陽が出てきた頃に起きだしたアレックスは、ギルドに駆け込んできた傭兵の一人とぶつかって尻餅をついた。
「あ、アレックスさん。大変です!」
 その男は謝りもせず、慌ててそう言った。その様子から、ただ事ではないと察したアレックスは、黙って立ち上がった。
 ちょうどそこへテレーズも降りてきた。
 テレーズの姿を認めた傭兵は、サビーネ以外の女性がギルドにいたことに少々驚いた様子を見せたが、それも一瞬であった。
「あ、姐御が。サビーネさんが殺されてるんですよ!」
 その言葉にテレーズは手で口元を覆い、目をむき出して驚いた。アレックスは、傭兵の胸倉をつかんだ。
「ウソだろ」
 アレックスがそう言うと、傭兵は俯いてしまったが、アレックスは傭兵の胸倉を激しく揺さぶって再度叫んだ。
「ウソだろ!」
 傭兵は首を横に振った。
 アレックスは、傭兵を解放してうなだれた。
「サン・マルタン門近くの廃屋で……その殺され方が」
「殺され方がどうした?」
 アレックスはサビーネの死を予感していても、実際それを受け入れられるかは別の事であった。
「口にはさるぐつわがされていて……多分、舌を噛み切られないようにしたんでしょうが……」
 傭兵が遠まわしに話を切り出すことに、アレックスは苛立ちを覚えた。
「はっきり言えよ! どう殺された」
「犯された挙句に最期は首を絞められて」
 傭兵は悲痛な面持ちでそう告げた。
 テレーズの口から嗚咽が漏れ始めていた。アレックスは壁を思い切り拳で殴りつけた。


 アレックスはそれでもサビーネが殺害されたのを認めきれず、傭兵の案内で現場へ向かった。テレーズも、フードを被ってついてきている。
「酷い事しやがる」
「子供まで殺しやがった」
「みんな。神父様をお連れしたぞ」
 現場では、表面上は落ちついたらしい付近の住民が、戦闘で無くなった人の埋葬をしていた。その中にサビーネも含まれていた。
 その有様を見かねた市民が掛けたのだろうか、大きな布生地がサビーネの上には掛けられていた。さるぐつわもとられている。しかし、どういう仕打ちを受けたかは明らかであった。布から出ている顔や手足についた無数のあざや擦り傷。アレックスは布生地の下を確認する気にはなれなかった。
 アレックスはサビーネの手が握っているものに気がついた。
 それは小さな金製のバッチであった。それをつけているのは秘密警察だけである。
「テレーズ」
「はい?」
 テレーズの目は赤かったが、すでに涙は止まっていた。ここ数日の間に起きた出来事が余りに急で、涙さえ出なくなったのかもしれない。
「ポールに会う」
 それはつまり、レジスタンスに入るということである。
「レジスタンスは気に食わねえが、サビーネのためにもな」
 アレックスはそう言って、市民たちがサビーネの遺体を運んでいくのを見た。
「私も……サビーネさんの仇が」
 テレーズの肩は、怒りに震えていた。
 アレックスは先ほどの考えが間違っていたことに気づいた。
 テレーズはサビーネの仇をとる決意をしていたのだ。まだ泣き続けていたいはずだろうに。
 アレックスは、テレーズと密かにその場を後にした。
 後ろからは、神父の死者に捧げる祈りの文句が聞こえてきた。


「ポールさん。二人が来ました」
 ポールが自室で資料に目を通していたところ、彼の部下が部屋に入ってきた。
 彼の邸宅は、パリス市でも最も東端に位置する場所であった。そこは、セーヌ川を挟んで南側の地区であり、商人たちが多く住む地区であった。ポール自身も宮廷への出入りは許されていないが、武器商人である。
「そうか。通せ」
 ポールは資料から目を離さずそう言った。
 部下が部屋を出て行って何分もしない内に、アレックスとテレーズの二人が入ってきた。
 ポールは入ってきた二人を一瞥するなりこう言った。
「なんだその格好は?」
 ポールの前にいる若者二人は、ずぶ濡れであった。外は雨など降っていない。
「あちこちで市街戦やってんだ。北地区からまともにここへ来れるわけねえだろう」
 北地区と南地区はセーヌ川で分断されている。市内には六箇所で橋が架かっているが、どれも激戦区となっていて通れるわけがなかった。
 そこで二人は市の外れからセーヌ川を泳いできたのである。
「テメエはいいとして、嬢ちゃんが風邪引くといけねえ。風呂を用意させるから入れ」 
 その後、小一時間ほど経ち、二人が落ち着いたところでポールは話を切り出した。
「サビーネの件は残念だった」
 ポールはそう言って重い息を吐き出した。
「嬢ちゃん。サビーネから話は聞かされたよな?」
 テレーズは首肯した。
「そこの小僧はどうなんだ?」
「小僧じゃねえ。アレックスだ!」
「オレから見れば小僧なんだよ。いいから質問に答えろ」
 アレックスは不快感を表情に出したまま、
「オレはアイツからは直接聞いていない。テレーズから、レジスタンスの一員だと聞いて驚いた」
「それだけか?」
 アレックスは不満げに頷いた。テレーズも知っている何かを、自分だけ知らないというのが不愉快なのだろう。
ポールはテーブルの上にある資料から、サビーネが送ってきた資料の一つを取り出し、それをアレックスに突きつけた。
「見てみろ。お前と嬢ちゃんの繋がりがわかる」
 アレックスが見た資料は、イタリアの傭兵ギルド支部の調査報告書であった。


『ウィンディ将軍のスミア家は、エルトリア帝国の帝室の血を引いている。スミア家は将軍の死で途絶えたと言われるが、それは小説家たちの創作がもたらした虚偽の内容である。スミア家は分家があり、代々優れた雷撃系魔術使いを輩出しているため、優遇されている。エルトリア帝国崩壊時に、現パリス帝国の源流であるフランク王家に仕え、現在まで存続している。故に、スミア・テレーズもおそらく雷撃系の魔術に優れていると思われる』


 アレックスはその内容に驚いて、資料から一旦目を離し、テレーズを見つめた。
「お前、貴族だったのか?」
 テレーズは頷いた。
「この前話そうとしたんですが、アレックスさん、サビーネさんを捜しに飛び出して行ってしまわれたので」
 申し訳なさそうに言うと、さらに続けた。
「貴族がお嫌いなようなので言いづらくなってしまって。……サビーネさんの件もありましたし」
「お前はお前だ。別に貴族だって言ったら嫌いになるわけじゃねえよ」
 アレックスはそう言ってテレーズの肩を優しく叩いた。
 テレーズは視線を外して頷いた。
 確かに妙に言葉遣いは丁寧だったし、よく考えれば、逃亡貴族のリストに名前があった気もする。
 アレックスはそこまで考えて、一つの結論に達した。
 サビーネのやつ、そのことに最初から気づいていて、それでレジスタンスに結び付けたのか。
 アレックスはポールに視線を移した。彼は別の資料に目を通している。
 読めたぜポールさんよ。アンタの計画。
 アレックスはそれを問うのは後に回して、続きを読んだ。


『イワキ将軍のフレイズ家は、遠征失敗の責任を取らされ、ウィンディ将軍の戦死のため敗戦の責任を一身に背負うことになり、市民階級に落とされたところから、その恋仲がよくオペラで催されたウィンディ将軍のスミア家とは大きく異なる過程を歩むことになる。フレイズ家は槍術に長けており、イワキ将軍の死後、その子孫たちは新興勢力のゲルマン系の王国に才覚を売り込んだ。しかし、政争や戦乱に巻き込まれ、獅子心王の死後は、一族が壊滅状態となり、一部の者が傭兵となることで生き延びている。その中でも代々傭兵を続けていた一派もいた。これは傭兵ギルドに登録状況が残されており、間違いない。フレイズ・アレックスは、イワキ将軍の末裔である』


 アレックスは、テレーズが自分の名前を聞いて、すぐに警戒を解いた理由を理解した。テレーズのスミア家は、おそらく大帝国エルトリアの帝室の血を引いていることを誇りにしており、ずっと話が受け継がれていたのだろう。それゆえ、フレイズ家の名前に親近感を覚えたに違いない。
「わかったようだな」
 ポールは読んでいた資料をテーブルの上に置いて、アレックスを見ていた。
「お前らは、そういう血筋の者だったってことだ。サビーネも面白い組み合わせを考える」
「勘違いするなよオッサン」
 アレックスは資料をテーブルの上に置いて、
「オレは今を生きているんだ。血筋がどうとか家柄がどうとかは関係ないね」
 そう言うと、テレーズが寂しそうな表情を浮かべた。アレックスはテレーズの頭を撫でながらこう続けた。
「でも、それがあったから、コイツはオレに対する警戒心をすぐに無くしたわけだ。それを考えると、先祖の名前に感謝できるよ」
 アレックスがそう言うと、テレーズは頬を真っ赤にして俯いた。その様子を見ていたポールは肩をすくめて、
「青臭いこと言いやがって。ま、オレもそんなのはどうでもいい。嬢ちゃんは追われている逃亡貴族。しかも要塞内の地理には明るいときている。オレとサビーネはまさにそれを利用したかったのさ」
 ポールが視線を移した窓の向こうには火の手が見える。市街戦が激しくなっているのか、それとも出火した火が消えないだけなのか。立ち込める煙が陽光を遮り、パリス市内は暗闇に包まれていた。
「しかも、嬢ちゃんは魔術も使えるし、剣術もできるんだよな」
 テレーズは恥ずかしそうに頷いた。驚いたのはアレックスである。それを見たテレーズが説明した。
「スミア家は、ウィンディ将軍の件もあり、魔術使いも多く出るので、彼女のような魔術剣士を目指そうという考えが強いんです。男も女も訓練を受けます」
「そういう形で、スミア家の誇りを守っているってわけだ。おかげでオレは要塞に嬢ちゃんを安心して送り込める」
 アレックスには、強いというならサビーネの方がよっぽどそう見えた。テレーズのような清楚な女性が、魔術はともかく、剣術にも優れているとは考えられなかったのである。
 しかし、アレックスに魔術使い特有の気配を感づかれないということは、相当の使い手という証左であった。
 魔術を使うには魔術理論を習うだけでは不十分で、その人間の生まれつきの才覚、一般にキャパシティと呼ばれる力が必要である。これは人間が持つ、魔術を生み出すのに必要な精神力と考えられている。
 スミア家はこの魔術使いの血を絶やさずに来たということであろう。
「要塞に送り込む?」
 アレックスは首を傾げた。
「そうか、お前は知らないんだったな。要塞攻撃の計画」
 ポールは納得したように言った。
「市民の蜂起が失敗に終わったのは、要塞を落とせなかったからだ。あれさえ落とせば、王政はその象徴を失って、崩壊する」
 やっぱりな。
 アレックスは心中で頷いた。テレーズが貴族であるなら、その処刑場所は浮遊要塞であるからだ。強行突入はできないが、彼女を連れて行く目的ならばそれは可能だ。
「それには、要塞に入り込んで、内部から攻撃する部隊が必要だったんだ。それが見つかったと、サビーネから手紙が来ていたわけだ」
 ポールはテレーズの方に視線を移した。重要な任務であると同時に、まず生きては帰れないだろう攻撃方法だというのに、落ち着き払っている。
 さすが、スミア家のご令嬢だ。コイツは本物の魔術剣士になれるぜ。時代が時代ならな。
 ポールは感心した。
「飛行艇の墜落を見たと思うが、あの要塞は数層の障壁に覆われていて、四属性の魔術のいずれも受け付けない。物理攻撃もだ。大陸障壁の時みたいに大陸全土から十万人もの魔術師を集めれば別だろうがな。内部から攻撃し、障壁の発生装置を破壊するしか手はねえ」
 四属性とは、火、水、風、土の四属性で、それぞれに特性を持った魔術がある。しかし、相互干渉という現象があり、火と水、風と土は互いを相殺しあってしまう。
 雷撃系の魔術は風の属性であり、かつて翼竜部隊を退けた大陸障壁も風属性の魔術であった。今では消滅してしまった共同魔法というもので、複数の魔術師が魔力を合一させたものである。しかし、魔術師には相性の合わない属性があり、魔術師の組み合わせ次第では魔術が発生しないのは、共同魔法の最大の欠点であった。
 しかし、大規模の共同魔法は消滅しても、二人一組で発生させる共同魔法は少数であるが存在する。
「飛行艇の墜落で市民一千人が死んだよ。半数は地上に落ちた後に、軍隊に狩られたらしいが」
 ポールは安楽椅子に深く座り込み天井を見上げた。
「しかし、まだレジスタンスは多数生き残っているし、市民も各地で立ち上がり始めた。計画を早めて、このドサクサに紛れて要塞を落とす。まさか、短期間の内に二度も襲撃してくるとは思わねえだろうからな」
 その意味ではジョセフに感謝するがな。とポールは付け加えた。
「仲間に連絡を取り合って作戦を開始する。四日後に発動だ」


『市民と軍隊の衝突は激化。
 市民は当初意気消沈していたが、四方からパリス市内に軍隊が雪崩込み、略奪と虐殺を繰り広げるのを見て、すでに蜂起していた市民軍の残党と合流し、正確な数はわからないが、その数は万単位に達したと考えられる。地方の民衆もこの動きに呼応し、軍隊の一部は市民側に着いたとの情報もある。すでにパリス市はその四分の一が焼けたが、市民の抵抗は激しくなる一方である。各所でバリケードを築いている市民は、以前の不満を言っているだけの市民と違う。自分の生活のため、生まれてくる子孫のために王政を打破しようとしているのである。これより我々も彼らに合流する。パリスの国民その子孫たちが安心して暮らせる国家を築くために。同志よ立ち上がれ。
 最後に、我々にも立ち上がる勇気を与えてくれた、傭兵ギルドパリス支部長故マインツ・サビーネ氏に、心から哀悼と感謝の意を示す』
                      七月十九日付の立憲派新聞『国民新聞』の夕刊


「あの女、政党を動かすのにも成功していやがった」
 ポールは夕刊から顔を上げた。彼は、不満を抱えている中小の商人たちを結束させ、資金、装備の充実を図っていて、さらに逃亡貴族の対応にも追われていたため、立憲派政党にまで工作の手を回しきれなかったのである。それゆえにそちらの任務はサビーネに任せていたのだ。
 それが成功したということは、王政を倒した後に無政府状態になることは避けられるだろう。
「おい、オッサン」
 ポールが振り向けば、ノックもせずに部屋へ入ってきているアレックスの姿があった。
「なんだ小僧?」
「王政を倒すことに成功したとするよな」
「成功させるんだよ。仮定にするな」
 アレックスはポールが睨みつけるのを無視して、
「その場合、王はもちろん貴族たちも」
「怒り狂った民衆にブチ殺されるさ。生き延びてもな」
 ポールは当然といわんばかりに言い放った。
「テレーズはどうなっちまうんだ?」
 アレックスの尋ねに、表情一つ変えずポールは黙ったままであった。
「答えろよオッサン」
「小僧。お前が守れ。家柄にこだわらねえんだろ? なら貴族として生きさせるな。自分と同じ傭兵としてどっか行ってもいい。身分を偽り続けてもいい。一緒に生きろ。英雄譚の二人みたいに後悔することになるな」
 ポールは、レジスタンス内部では逃亡貴族であろうと全員処刑の考えで固まっていることを知っているし、了承している。レジスタンスの幹部以外には、テレーズは傭兵ということで名を通させている。しかし、解放後落ち着きが戻ってくれば、テレーズの正体に気づく者も出てくるだろうし、幹部の中には処刑を叫ぶ者も出てくるだろう。
 ポールは、テレーズが要塞陥落の最大の功労者となれば、幹部や市民たちも納得し、例外的に処刑されないかもしれないとは考えていた。
 ポールの言葉は、そんな事情や思惑など何一つ匂わせなかったが、アレックスは納得したように呟いた。
「そうだな」
 サビーネとの最後の約束は守り通して見せるさ。
 後半の言葉は心中で呟いたので、ポールには聞こえなかった。
 七月二十日。パリス国軍の制服を着込んだ部隊百名ほどが、廃兵院を占拠していた。その中の一人が、廃兵院の飛行場管制室にある、耐魔術壁の前に立ち暗号を唱えた。それはエルトリア帝国の政界で使われたラテン語という言語であった。
 それに応えるように、分厚い壁が開いた。ここは隠し部屋であり、存在を知っていて、さらに暗号を知っている者しか入れない。
 中には大きな魔鉱石が鎮座しており、緑色の光を放っている。通話用結晶体というものである。
 大きさは大人三人で手を繋ぐと周囲をようやく囲める位である。このような大きな鉱石は年間に一つ生産できればいい位に貴重な物である。
 これだけの大きさがあって初めて、二十キロ圏内の同じ大きさの鉱石が置かれている部屋と通信ができるのである。
 先頭に立つ兵士が暗号を唱えると、結晶の中から声が聞こえた。
「その部屋で我々に通信を送れるとは、そなたたちは下賤な輩とは違うな」
 それは、横柄な態度以外で人に臨んだことがないかのような言葉であった。
「はい。パリス市内に突入した軍にございます。市内を制圧しつつある我々は、ここ廃兵院も制圧いたしました。ただし、激戦により隊員の多くが戦死しました」
「ご苦労であった」
「ところでここへ来る最中、暴徒どもを指揮する逆賊を捕らえました」
「ほう」
 浮遊要塞で話を聞いているらしい男は、興味深そうに声を漏らした。
「その者、魔術と剣術を操り苦戦しましたが、捕らえてこれよりそちらへ連行する所存でございます」
「名はなんと?」
「スミア・テレーズです」
「空港に残っている小型飛行艇を使い護送せよ。その方らの飛行艇が接近したらば、障壁を一時的に解除する」
「はっ!」
 男は大げさに敬礼して見せた。もちろん映像が向こうに届くわけではない。直後、緑色の鉱石が一瞬鈍い光を放ったかと思うと、通信は途絶えていた。


「ポールさん。味方の布陣が完了しました」
「そうか」
 ポールは頷くと、南方のフォンテンブロー山脈を見つめた。その上空には浮遊要塞が地上の惨劇など関係ないとばかりに浮いていた。眼下のパリス市は各所で火の手が上がっている。
 ポールの手元には、レジスタンスの組織員二百名がいた。他にも十人ほどの商人仲間がいる。彼らは技術者でもあり、ポールの後ろにそびえている特注の百五十ミリ臼砲を整備していた。臼砲は構造が単純なため、民間でも数発撃つ程度の物なら作れたのだ。
「そろそろ動き出すぞ」


 パリス市に突入していた軍隊はその時点で三万を数えていた。これはパリス市周辺のほぼ全兵力に相当する。抵抗する市民は廃兵院で手に入れた武器や分捕った武器で戦っていた。訓練を受けていないとはいえ、その数は数万に達し、軍隊はなかなか掃討できずに苦戦していた。
 浮遊要塞に連絡したいが、廃兵院に繋がる道はバリケードが築かれ、市民の抵抗も激しく突破できなかった。
「隊長。背後より敵!」
 伝令がそう伝えた瞬間、軍隊の背後で爆発音が響いた。レジスタンス部隊の奇襲である。
「バカな。いったいどこから回り込んだのだ?」
 隊長は貴族であった。彼は市内を巡っている地下水路のことなど知らなかった。
 レジスタンス部隊は、水路を利用し各所で軍隊を攪乱した。その隙を突いて市民が反撃に出たため、鎮圧部隊の損害は見る間に増加していった。


「本当に空を飛ぶんだな」
 アレックスは十人乗りの小型飛行艇の窓から、眼下のパリス市を見やった。他に乗り込んでいる者もやはり眼下の光景を見ている。ただ一人を除いて。
 この飛行艇に乗り込んでいる者は、レジスタンスでも幹部要員に当たり、その女性の正体を知っていた。
 他にも四隻の飛行艇が浮遊要塞へ向かっている。さすがに、廃兵院から全兵員が消えては怪しまれるから、全員が付いてきたわけではない。レジスタンスでも精鋭部隊のみである。
 テレーズは終始無言である。表情は戦場に赴く戦士のそれであった。そこからは貴族の令嬢だという印象は微塵も受けない。
 テレーズを含む全ての乗員がパリス国軍の軍服を着込んでいる。国軍に支給されているものとは異なって対魔術防御に優れた特殊加工のもので、レジスタンスが自前で調達したものである。
「テレーズ」
「はい?」
 応えるテレーズの口調はいつもと変わってはいないが、アレックスは殺気が漏れているのを感じた。普段のテレーズからすると考えられないことであった。
「いや……本当にお前って戦士なんだな。イメージに合わないけど」
「戦士と言われると照れますね」
 優れた魔術剣士であることは、スミア家の誇りである。それを認められることは、テレーズにとっても誇りなのだろう。笑みを浮かべて喜ぶ顔は、これから半時も経たない内に戦場に到着する女性のものとは思えなかった。
 テレーズは多くの時を過ごした浮遊要塞を落とすための、その最も重要な存在となるのである。その心中は複雑なものだろうとアレックスは慮った。
「同情はしないで下さい」
 テレーズはアレックスの心中を察してか、そう言った。
「私の両親も祖父も、友達もみんな殺されたんです。そしてサビーネさんも。これは、私にとって敵討ちなんです」
 テレーズはそう言って前方の窓に広がる要塞を見た。そろそろ障壁のある空域なのである。
 浮遊要塞が大きく視界に入ってくる。すでに前方の窓からだけではその全貌を見ることはできない。
「障壁を抜けました」
 テレーズが言った。障壁は見ることはできないが、要塞から決まった位置にある。テレーズは要塞と地上を何度も行き来していたため、周りに広がる山脈の風景や要塞の大きさで大体の位置を把握できたのだろう。
「さて、いよいよだ」
 乗員の間に緊張が漂った。


「来たぞ! 衛生兵は待機」
 浮遊要塞の発着港には、宮廷近衛兵十人と衛生兵五人。そして出迎えの下級貴族が一人、他に見物に来た貴族十人が要塞に接岸する飛行艇を見ていた。
 激戦があったというからには負傷兵が護送に当たって、健常な兵士が地上に残ったのだろうと考え、衛生兵も待機しているという気の利かせようである。
 地上の状況をいち早く把握したいという動機のためであり、兵士たちに対する気遣いなど彼らにあるわけはなかった。
「どこまで制圧したのだろう?」
「早く首謀者らの首が並ぶのを見たいものだ」
 『神は常に我らと共にある』『特権と世の支配は神に付与された神聖不可侵の領域である』というのは貴族たちの通念である。それ以外の世界など彼らにはなかった。
 しかし貴族たちも人間である以上、情報に対する飢えを抑える事はできなかった。
 しかし、接岸した四隻の飛行艇から人の出る気配がない。乗員は無事なのかと衛生兵と近衛兵が駆け寄った。
 次の瞬間、先頭の飛行艇の扉が開き、中から女性が出てきた。兵士たちが何かを言う前に、彼女の手から生み出された光の奔流が、通路にひしめく兵士全員を焼死体にした。
 それを合図に、全ての飛行艇からレジスタンスの乗組員が飛び出した。
「暴徒どもの一味か」
「貴様、逆賊スミア・テレーズでは」
 アレックスの生み出した炎の矢は、死が平等であることを"神聖不可侵"である貴族たちに知らしめることとなった。
 魔術とは、それを発動させるのに何か文言が必要なわけではない。術を具現化させコントロールし易くするために用いられる程度である。例えば、炎を矢のように出現させたければ、それを言葉にすることでイメージの手助けにできるわけである。
 だから、今の二人のように言葉にしなくても発動はできる。その規模は術者の才能、キャパシティによるし、その時の精神状態にもよる。
「よし、それじゃあ計画通り、退路の確保と陽動班に分かれろ。後は、オレとテレーズが障壁発生装置のある部屋へ。陽動班はハデに暴れろ!」
「了解だ!」
 陽動部隊を率いるリーダーが力強く頷いて、部下を引き連れ要塞内部へ突入していった。彼らは、事前にサビーネの情報による要塞内の地図を記憶しており、テレーズにいくつかの隠し道を教えられている。
 その最大の目標は要塞の居住スペース、つまり宮殿である。ここを攻撃すれば兵士の多くは王や貴族を守るために集結しなくてはならない。陽動としてこれ以上の目標はない。
「よし。テレーズ、行くぞ!」
 テレーズは頷いて走り出した。アレックスはぴったりその脇について走る。
 本来なら先頭に出て敵を一手に引き受けてやりたいが、要塞内の地理を熟知している彼女より前に出ることは罠などに掛かる危険を増大させるだけである。
「テレーズ」
「なんですか?」
「この戦いが終わったらどうするんだ?」
 テレーズはしばらく無言で走り続けた。息を切らせる様子も見せない。相当鍛えられている。脚力もあり、アレックスの足に十分付いてこられるものであった。
 テレーズは傍らを走るアレックスの顔を見て、口の端に笑みを浮かべた。
 アレックスさんに任せますよ。そうその表情は物語っていた。
 アレックスは前方を通りかかった兵士に剣を振るい、一刀の元に首を刎ねた。
「こんなとこでするには不謹慎な話だな」
「そうですね」
 アレックスは照れ隠しに言っただけだったが、テレーズはそうは受け止められなかったらしく、真剣な表情で前方を見つめた。


 ポールは、パリス市北方のクレルモン山脈から様子を見守っていた。野戦用の望遠鏡から目を離した彼は安堵の溜め息をついた。
「どうやら乗り込むのには成功したな」
 彼らが要塞の障壁を消すことに成功すれば、ポールの後ろにある臼砲が火を噴き、要塞に百五十ミリの巨弾を撃ち込む事が可能となる。
 巨弾は魔鉱石を中に含んでいる。封じ込められているのは術者が最も少ない土属性の魔術で、風属性の魔術を相殺する。
 臼砲も巨弾も、国外の援助グループ、特にイタリアなどのようにパリスに介入されてきた歴史を持つ国家から、傭兵ギルド経由で手に入れたものである。
 これを浮遊要塞に撃ち込めば、いくらその土台に巨大な魔鉱石をふんだんに使っているとはいえ、その自重に耐え切れなくなり要塞は山脈の中に落ちるであろう。
 ポールは、要塞を武力攻略することは困難であると見抜いていたため、魔術相殺による要塞の"撃墜"を考えていたのである。
 それには障壁をどうするかが焦点だった。
「ポールさん。大変だ!」
 ポールが振り向くと、部下の一人が息を切らせて走ってきた。
「こ、この山に向かって来ている一団が……そ、それも、百や二百じゃねえ」
 ポールは男が指差す方を望遠鏡で覗いた。パリスの市内からやってくる一団。五百は軽く上回る。
「あいつら軍隊だけじゃねえぞ」
 軍隊は市内で苦戦を強いられている。その隙に砲撃を行うのがポールの考えで、それは成功している。
「特権商人の私兵軍団だ。くそっ! 誰か内通してたのか?」
 ポールは強く舌打ちをすると部下たちに命じた。
「しょうがねえ。砲撃班以外は全員配置に着け。何が何でも要塞に砲撃を加えるまで持ちこたえるんだ」
 ポールはそう檄を飛ばすと、要塞に視線を戻した。
「頼むから、急いでくれよ」
 その呟きは、山を登り始めた商人の私兵軍団が放った魔術の爆裂音にかき消された。


「氷漬けになっちまえ!」
 アレックスの叫びとともに、横手の通路から現れた数名の兵士が大人の倍近い高さの通路ごと氷漬けにされた。そのことで、後ろに続いていた敵兵が足を止められた。
 陽動部隊が宮殿の方に向かっているとはいえ、アレックスたちの向かう場所はこの要塞の重要な箇所に当たる。護衛の兵士や援護が皆無なわけはない。
「テレーズ。まだか?」
「あと少しです」
 その台詞はすでに何度目かになっていた。
 三十段以上の階段を昇降すること二十数回、百メートル以上の通路を走り、迷路のような道を走ることは数え切れなかった。
「あの突き当りを右に折れると、緩やかな坂になっています。その行き止まりにある扉が」
 テレーズはそこで言葉を止めて、下段に構えていた剣を上段に振り上げ、前から突っ込んできた兵士の刀を弾き、降ろす一刀でその顔面を切り裂いた。
 アレックスはその間に兵士の後ろにいた魔術師に腰だめから小刀を投げて、その腕に命中させた。ひるんだ隙に、接近して一刀のもとに切り伏せる。
「その扉が、障壁の発生装置……魔鉱石のある部屋ってことだな」
 そう続けたアレックスの言葉にテレーズは首肯した。
 東西南北に各一キロというと狭いように感じるが、実際には浮遊要塞の地上、つまり空中庭園には建造物が立ち並び、地下の構造物には迷路のような通路が張り巡らされている。その大きさ以上に内部は広かった。
「炎よ壁となれ!」
 通路を折れた瞬間、アレックスの叫びに応じて二人の前に通路を埋め尽くす炎の壁が広がった。そこへ、これもやはり通路を埋め尽くさん限りの氷の槍が突き刺さる。火と水の属性相殺が起こり、アレックスたちに届く前に全ての槍が消滅した。
「雷の雨よ」
 炎の壁と氷の槍が消滅する瞬間、それぞれの属性に干渉しない雷撃系の術が、坂の下にいた魔術師四名を包み込み、声を上げさせる時間も与えず薙ぎ倒した。
 アレックスは思わず口笛を鳴らした。
「ありがとうございます」
 戦いの時でも、テレーズの落ち着きと丁寧な言葉遣いは変わらなかった。
「オレが使う属性がよくわかったな」
 アレックスが感心して言った。もちろん坂を下りながらである。
「通路の先に感じた気配から先読みしただけですよ」
 テレーズは頬を赤く染めていた。照れ隠しか、視線はアレックスの方に向けていない。
 気配から、その先読みまで行ったことにアレックスは驚いていた。戦いの経験が豊富な者にしかわからないものだからだ。
「小さい時から訓練も受けていますし」
 テレーズは言うが、訓練だけでそのようなことはできない。これは戦闘勘だからだ。
「テレーズはオレより才能あるぜ、絶対。そんな感覚、実戦積んだってそうそう身に付かねえのに」
 テレーズは笑みをこぼした。戦闘力の高さを褒められるのが嬉しいのだ。
 二人は、自分たちの身長の倍はある扉の前で止まった。
「ちょっと待ってください」
 テレーズは扉の脇にある柱を調べていた。やがて一箇所外れる部分を見つけ、中にあるレバーを倒した。
「な、なんだこれは?」
 アレックスは扉の中から現れた光景に目を奪われた。
 部屋はかなり広く、天井まで四メートルほど。部屋自体は五十メートル四方に及び、その壁には手前の壁から時計回りに赤、青、緑、黄色に光る魔鉱石が埋め込まれていた。
 赤は火、青は水、緑は風、黄は土に対応する属性色である。
 しかし、アレックスが目を奪われたのは、部屋の中央に鎮座する巨大な黒色の魔鉱石である。
 その大きさは幅だけでも十メートルを越している。高さは天井近くにまで達していた。
「それは、多目的型鉱石です」
「多目的型?」
「はい。ふつう火と水、風と土属性は相殺しますが、鉱石に封じた状態では、外から対属性の魔術を掛けられない限り相殺しません。これは、それぞれの鉱石を巨大な炉で溶かして作り上げる特殊な鉱石です」
「何に使っているんだ?」
「この部屋の魔鉱石の力を要塞の外に展開させているんです。つまり魔術の転送展開用鉱石と言えばいいでしょうか」
 アレックスは興味深そうに鉱石を見ていた。
「で、こいつらを壊せばいいわけだ」
 テレーズは首肯した。
「それぞれの魔鉱石は対属性魔術を掛ければいいだけです」
「じゃあ、早速やろうぜ。これだけ広い部屋だと多少大きい魔術を使っても大丈夫だろう」
 アレックスはそう言うと、手前にあった赤色の壁に向き直った。
「あ、でも、この黒色魔鉱石は、物理攻撃を防ぐ障壁を張っています。これも潰さないと意味がありません」
 飛んでくる砲弾の中身は魔術弾だが、到達するのには弾丸という物体を使う。それを言っているのだ。
「けどよ。これ、どうやって壊すんだ」
 アレックスは剣で軽く叩いたが、叩き壊せるような物ではない。
「黒色魔鉱石は矛盾の物体なんです」
「?」
「ですから、その矛盾をこの鉱石にぶつければいいんです」
 アレックスは、テレーズの言わんとすることを理解した。
「よし、コイツから潰そう。反対側から雷撃を撃ってくれ」
「はい」
 テレーズは頷くと、アレックスと魔鉱石を挟んで向かい合った。互いの姿は見えなくとも、気配でわかる。
「それじゃいくぞ」
テレーズが頷いたのか、動く気配がした。
 一瞬の沈黙。
「土に還れ!」
「雷よ!」
 二人の声は同時であった。
 石の表面で連続した爆発と、雷撃の奔流が衝突し、互いに相殺し合った。
「!」
「きゃっ!」
 二人は壁に叩きつけられた。石の内部に封じられていたそれぞれの属性魔術が相殺しあって、衝撃波を生んだのである。
 その余波は周囲の壁に埋め込まれている魔鉱石にも及び、部屋全体で相互干渉が起こった。


「ポールさん! 障壁が破れました」
 ポールたちは、懸命に山を登ってくる私兵軍団を防いでいた。
 もう山の中腹までが占拠されており、あと一時間持つかどうかというところであった。
 ポールは部下の言葉に促され、南部のフォンテンブロー山脈を望遠鏡で見やった。 
 山脈のヴェルサイユ村上空に浮遊要塞がある。その下の村付近から煙が数条立ち上がっていた。それはポールが部下に指示して上げさせているものであった。
 ヴェルサイユは山脈の中にある鉱山街で、その標高は七百メートル。そこから要塞の障壁までは約三百メートルほどである。
 煙は要塞の底辺部に達していた。つまり物理的な障壁は存在していない。
「やってくれたか。よし、ただちに砲撃開始だ。砲身が壊れるまで撃ち込みまくれ!」
 ポールの言葉に、砲台にとりついている二十人が、忙しく動き始めた。
 轟音とともに一発目が撃ち出され、すぐに二発目が十人がかりで装填される。
「一発目、命中!」
 周りから喚声が上がった。
「待て! 今のは火薬が炸裂しただけだ。魔術弾は相殺されている」
 ポールは望遠鏡を覗きながらそう言った。
 部下たちはその言葉に肩を落としたが、ポールは諦めていなかった。
「砲撃を続けろ! まだ物理障壁以外の障壁が解除されてないだけかもしれねえ」
 その言葉に応じ、二発目が発射された。
「よし!」
 今度こそ、攻撃が成功したと知って、周囲は沸いた。
 砲弾は炸裂時に火薬爆発で分散し、各所に魔術弾をばら撒く。有効範囲は一発で半径百メートルに達する。それぞれが厚い装甲を貫通する徹甲弾である。
 要塞の底部で炸裂すれば、風属性の緑色魔鉱石を相殺する。要塞の最底部は緑色魔鉱石で構成されており、その力で空中に浮いているのだ。
「アイツら……脱出できるだろうか?」
 ポールは要塞内部で戦っているメンバーたち、特にサビーネに繋がる二人が気に掛かったが、次の瞬間には、私兵軍団が要塞を落とさせるものかと猛攻撃を掛けてきた。
 ポールもまた、無事この急場を凌げるかというと、可能性は絶無であった。


「邪魔するな!」
 アレックスは前方を塞いでいる十人以上の兵士に向けて雷撃を放ち、戦闘不能にしたが、彼らが放った矢を一本右肩に食らった。
「チッ」
 アレックスは一瞬顔を苦痛で歪めながら、その矢を引き抜いた。幸い毒は塗られていなかったらしい。
「退いて!」
 テレーズはその隙に向かってきた敵兵を切り伏せていた。
「大丈夫ですか?」
 アレックスは親指を立てて笑みを浮かべたが、びっしりと玉の汗をかいていた。顔は青ざめており、決して余裕のないことを示していた。
 テレーズもアレックスも過度の魔術使用から魔力は底を尽きかけており、これ以上使い続けると命の危険すら出てくる可能性があった。
「!」
 壁際を走っていたテレーズが声にならない悲鳴を上げた。急に要塞が傾いたため、壁に身体をしたたかに打ちつけたのである。
「だ、大丈夫です」
 アレックスが手を差し出してくるが、テレーズは自力で立ち上がった。しかし苦痛に表情を歪めた。
「あ……」
 テレーズはアレックスに左腕をつかまれ、反射的に声を漏らした。アレックスは表情を僅かに曇らせた。
「折れてるじゃねえか」
「大丈夫ですよ。そんなに重くない剣ですから」
 そう言って、無理に笑みを浮かべながら、右手一本で剣を拾い上げた。
 テレーズのスタイルは両手持ちであり、片手のみになったということは、普段より剣の反射速度が落ちることを意味する。
「それより、急いで脱出しましょう」
 アレックスは、テレーズが痛みを無理にでも気にしていない振りをしていることに気づいており、それゆえにその話題は出さないことにした。
「そうだな。オッサンたちが砲撃に成功しだしたんだ、早くしないと要塞ごと地上に落ちちまう」
 アレックスもまた笑みを浮かべた。二人とも余裕はない。
「いたぞ!」
「道連れにしてやる!」
 兵士や魔術師が三十人以上、二人の視界に飛び込んできた。
 要塞の状況に助からないことを感じているのか、その目つきは異様に血走っている。
「テレーズ。共同魔法って知ってるか?」
 テレーズは頷いた。
「あまり魔力も残ってねえし、一か八かやってみるか?」
「はい!」
 共同魔法は、術者同士の相性がよければ普通に魔術を使うよりも遥かに大きな威力を発揮する。しかし発動しない場合もある。これは賭けであった。
「幸い通路も広いしな」
 そこは飛行艇の発着港に繋がる連絡通路である。ここを切り抜ければ生きて帰れるはずである。
 二人は固く手を繋ぎ、もう片方の手を向かって来る兵団に向けてかざした。
 十人以上の歩兵が剣や槍を構え突進してくる一方で、弓兵十名近くが弓を引き絞って二人に狙いを定める。その後ろでは魔術師数名が手をかざして、今まさに魔術を放とうという瞬間であった。
「雷よ奔流となって道を開け!」
 二人の言葉が完全に重なった。
「!」
 雷撃の奔流は、高さ十メートル、幅二十メートルの広い通路一面を埋め尽くし、魔術師の放った術も、弓兵の放った矢も全て飲み込み、兵団の全てをも飲み込んで通路全体を包み込んだ。
 それが収まった後には、何も残っていなかった。消し飛んだ兵士たちは痛みを感じる暇すら無かっただろう。通路の耐魔術壁もところどころ剥げ落ちている。
 二人は手を繋いだまま、その場にへたり込んだ。
 二人とも、余りの威力に圧倒されたのと消耗感で立ち上がれなかったが、次の瞬間には笑い出した。
「成功したぞ!」
「そうですね。相性が合っていたんですね」
 二人はひとしきり笑った後、砲弾が炸裂した音を聞いて、腰を上げた。
「さて、急ぐぞ」
「はい」
 二人は走り出したところで、手をまだ繋いだままであることに気づき、慌てて手を離した。そして今度は走りながら笑みをこぼした。
「ところでさ、さっきなんでオレの言葉がわかったんだ?」
「アレックスさんこそ、何でわかったんですか?」
 アレックスが傍らを走るテレーズの顔を見ると、向こうはアレックスを見て小首を傾げていた。
「ま、いいよな。とにかく相性がよかったんだ」
「そうですね」
 二人の会話は危機感とは無縁であった。
 しかし発着港に戻った二人の前には、戦闘後の光景が残るだけであった。
 発着港の確保に当たっていたグループと引き返してきた陽動部隊、それを上回る数の貴族と兵士の死体が散乱していた。
「全滅かよ」
 逃げ出そうとして発着港に殺到した貴族や兵士たちと激戦を繰り広げたのであろう。
 飛行艇も破壊され、全て使い物にならなくなっている。
「うおっ!」
 轟音とともに再び要塞が傾いた。崩壊音という断末魔が、落下までの時間の無い事を知らせていた。
「きゃっ!」
 テレーズが小さな叫び声とともに、発着港から足を滑らせた。なんとか床に手を掛けて下に落ちるのは防いでいた。そこにあった転落防止用の柵は破壊されていたのだ。
 テレーズの足元にはフォンテンブロー山脈が広がっている。
 テレーズは思わずその光景に小さな悲鳴を上げた。本能的なおびえというものである。テレーズの眼前を死んだ兵士が滑り落ち、眼下に消えて行った。
「く、くそっ!」
 アレックスは要塞が揺れ動くため、テレーズに手を伸ばそうにも伸ばせなかったが、僅かに揺れが収まった隙にテレーズの手を取り、引き上げた。
「アレックスさん! 後ろ」
 アレックスがテレーズを引っ張り上げたその時、アレックスの背後から一人の兵士が襲いかかった。
 咄嗟の事にアレックスは反応できない。テレーズもまた剣を失っており、バランスを取りきれていないこともあり反応が遅れた。
「っ……!」
 アレックスは余りの苦痛に膝を着いた。右腕を肩口から切り落とされたのである。
 混乱しているのか兵士の視界にはアレックスしか入っていないらしく、再び剣を振りかぶり、止めを刺そうとしたところを、テレーズが放った雷撃を受けて首から上を弾き飛ばされた。
「アレックスさん!」
 テレーズの声は上ずっていた。目には涙が滲んでいる。
「は、はは、少しは効いたな」
 アレックスは笑おうとして失敗した。表情が引きつり苦痛に歪む。
 テレーズは軍服の左腕と左足部分を引き裂いて、アレックスの肩口から腰にかけて幾重にも巻きつけ止血をした。彼女も左手を骨折しているため、アレックスも残った腕でそれを手伝った。
 要塞は傾きの度合いを増し始めていた。このまま墜落するだろう。
「は、これまでか?」
 アレックスは微かに笑みを浮かべながらそう呟いた。テレーズは黙っていたが、急に何かを思い出したように立ち上がった。
「スミア邸に行きましょう!」
「?」
「まだ小型の飛行艇があるかもしれません。父上たちが私の後を追って逃げるために隠して置いたものがあるんです」
 諦めかけていたアレックスの瞳に再び生気が宿った。
「よし、行こう!」
「はい!」
 テレーズは、重傷のアレックスに肩を貸しながら、それほど早くない足取りで要塞の奥に消えて行った。


『我々の勝利である!
 パリス全国民に告げる。我々は悪政の象徴たる浮遊要塞を七月二十日に陥落させた。
 国王ルイ十六世は王妃マリーと脱出したが、結局逮捕され、去る八月二十六日、パリス市内のコンコルド広場にて断頭台により公開処刑した。
 同時に人権宣言を発布し、これよりパリスはフランス共和国と名を改め、民主国家の道を歩むことになる。多くの同胞たちの血によって勝ち取られた勝利は、後世に長く語り継がれるであろう。
この民衆の革命に際しレジスタンスを指揮し、勝利に導きながらも、七月二十日に壮烈な戦死を遂げたジャック・ポール氏に哀悼の意を表す』
                  八月二十七日付の立憲派新聞『国民新聞』の夕刊


『私の両親は、このフランス革命の直後アメリカに亡命した。父は右腕がなく、物心ついた頃から私はそれが気になって尋ねたりもしたが、笑ってごまかすだけであった。
 母は英雄譚が好きで、幼い私によく本を読んで聞かせてくれた。私が歴史家になったのは、母が読んでくれた英雄たちに興味を持ったからという単純な動機に他ならない。母は自分の旧姓がエルトリア帝国戦記の英雄と同じだといっては喜んでいた。                 
 そういえば、父の旧姓はフレイズであり、かのウィンディ将軍の恋人と言われたイワキ将軍と同姓だ。母はこの英雄譚が父と自分を結び付けたと言っていた。母は物語が好きであったから、その辺りに運命でも感じたのであろう。
 しかしだからといって私は今に生きるのだから、そのような過去の血筋や家柄はどうでもいいことだ。これは、今は亡き両親の口癖でもあった。
 私の名前はイワキである。両親は娘が生まれたならウィンディとするつもりであったらしい。両雄の結ばれなかった恋を偲んでのことだろう。
 娘が二人いたら、もう一人はサビーネと付けるつもりだったとか。これは死んだ親友の名だと言っていた。
 私は今、アメリカのプリンストン歴史大学において歴史学を研究できるようになったことを、両親に感謝したい。そして、この本を手に取られた方にとって、歴史学を学ぶきっかけになるならば幸いである。人は常にどこかで相互作用をしながら生きることを、私は両親から学んだ。その相互作用こそが歴史を作り上げていること、それを学んでいただけると非常に喜ばしいことである』
 Sumia・Freizu・Iwakiの『History of Continental States』発行を記念するキャンペーン中のパリス公演(一八六〇年七月十四日フランス革命記念日)の言葉より抜粋。

【巡り会う運命】 - 全章まとめ読み -
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