1.地元の飲食店から活性化を!!
(地域でふんばる商店主がキーマンだ)


2005年4/7(by.光一)

 ここ近年「不況」であるとか「商店街の寂れ」などといった話題をよく耳にする。
 私は茨城のある中規模の都市に住んで20数年経つが、飲食店を回ったり、商店街の店主たちと話をすると、きまって出るのが「最近はさびしいねえ」である。


 私の地元は昔は賑やかだったとよく聞かされる。
 それが地元人の単なる過去の美化でないことは、昔の町並み資料を見ればわかるのだ。
 私も、街中の商店街区に人が溢れ、祭りの時には活気に満ち満ちた若者や、商店街区の親父たちがいたのを、幼少の記憶として覚えている。


 そう、商店街区の親父たち。
 私の地元の祭りを支えていたのが、まさに彼らだったのだ。
 多くの祭りのための装置が町中に張り巡らされ、観光客で溢れかえった時期には、彼ら「粋な親父たち」が「1年に一度の晴れ舞台」と惜しみのない援助をしていたのだ。


 長引く不況の中、街の空洞化と大型店舗の郊外進出、さらには電子情報社会化の波は、商店街区の活気をさらっていき、祭りもそれにつれて元気を失っていった。


 今や、私の地元に残されたのは、膨大な量の「シャッター街区」である。


 それが私の地元の状況ではあるが、多くの市町村においても、このようなケースは当てはまるのではなかろうか?


 かつての地元経営の「百貨店」「スーパーマーケット」が縮小し、代わって進出するのが、全国規模の巨大スーパーや、駅前開発ビル、それに都市近郊のやはり全国規模チェーン店。同時にコンビニも増えた増えた。


 しかし、コンビニや全国規模のスーパーに百貨店。それに加えて、外資系のショッピングモールが果たして地域に愛着を持っているのだろうか?


 私は答えを「No!!」と言う。


 よく考えていただきたい。
 コンビニや全国規模の巨大店舗というのは、日本全体(あるいは世界全体)における「企業グループ」の利益主体で動くものである。
 儲かるとわかれば、一気に投資を行う。
 彼らは資金力・人員力において、地域の小店舗など敵ではない。彼らがその気になれば、地域の店舗など飲みつぶしてしまうのだ。心当たりがないだろうか?


 しかし、彼らの思考が「地域主体」でないことは明らかで、例えばM市での利益率が悪くなれば、即座に撤退するだけである。地域に残されるのは、無残な廃ビルと、潰されつくした地域の小店舗の残骸……シャッター街区である。


 要するに、「日本全体(世界全体)における企業利益」によって動く、全国規模の巨大店は、「地域の切り札」とはならないのである。


 地域にあった様々な小店舗が、全国規模大型店に潰されきった後、その大型店が地域から「利益にならない」として撤退したら、地域には何が残るのだろう?
 また、そういった「大型店舗依存症候群」に罹ってしまった地域は、その後の「地域活性化」なるものを考えることができるのだろうか?


 そう、最近は「地域の活性化」とやらが叫ばれて久しい。
 高度成長期の「一極集中型」「最大効率の最大利益」といった美徳が、もはや美徳でなくなった時代に現れたフレーズの一つでもある。地域を前面に押し出したPRが出される中で、「スローであること」、つまりは「ゆとり」というものがようやく打ち出されてきたわけである。


 さて、「地域」にせよ、「スローないしゆとり」にせよ、これらは「人間性」を重視するべきであるという価値観を根底に持っている。
 それは、かつての「一極集中型」「最大効率の最大利益」といったものが、以下の意味を持っていたことへの反省でもある。それは、「地域との紐帯を断ち切られ、人間的つながりの希薄な社会」や「会社人間・人間の部品化」といった「非人間性社会」を構築してきたことの弊害を認めたうえでの、価値観の転換に立っているからである。


 さて、ここからが本題なのだ。
 かつて、地域を熱くしてきたのはまさに、「人間性」なのだ。
 それは、粋な商店街区の連中が仕掛け、また地域の人間がそれに絡みついてきた、「人間関係」に他ならない。


 地域の商店街の店主たちは、全国規模店の東京本社にどっかり腰をかけているような、社長様とは違う。社長様は、いらない地域など一発でリストラするが、地域の店主たちはそんなことはしない。というよりもできない。彼ら地域の店主たちは、「地元」ないし「周辺地域」に立脚しているがゆえに、そこが商売の基盤であり、生活地域である。そこから離れることは、店をたたまない限りはできない。彼らは、何が何でも地元で踏ん張るしかない人々なのだ。


 だからこそ、地域の商店主たちは地元の人々と密接な関係を持っている。この「人間関係」なしには、自分の商売も立ち行かないことを知っているからだ。


 公民館の集会に来る、地域の電気屋とか八百屋の親父。飲食店の店主はいるけど、全国規模店の社長様がいらっしゃるはずもない。仮に来るとすれば、「公演者として呼ばれた先生様」としてである。
 これが、地域の商店主と全国規模の社長様の違いである。


 とすれば、「地域の活性化のカギ」は、こういった地域主体の商店主たちと、そこに住む人々の「人間関係」の構築に大きく左右されるのではないだろうか?


 私が、地元の小規模な飲食店によく食べに行くことは、実はこのことと無関係でもない。
 私は回った店を全てここで紹介しているわけではない。実際には、遥かに多くの店に行っているし、私が常連化している一部の店舗は紹介していない。


 地元の小さな店を食い歩いていると、ふと気がつくことがある。
 それは、チェーンのレストランからはほど遠い小さな規模の店が、実は地域の情報発信の基地として使用される。またそこには、地域の人々に慕われる店主がいて、人的結合力が強く、地元生産者との驚くほどのネットワークを持っていたりするのだ。


 ともあれ、地元で誰が活気のある声を上げるかと言えば、それは地域の人々だが……その仕掛け人や舞台提供人は間違いなく商店主たちなのである。


 なぜかと言えば、これまでに述べてきたことの他に、彼らは自分の利益を地域に還元できる存在だからだ。


 例えば、大企業の社長が、「地元の祭りに出資したい」「地元にリラクゼーション施設を作りたい」といっても、その資金を自由にできないからだ。
 株式会社であれば、それは社長の「不正支出」にされるし、そうでなくても「重役会議で利益外活動」とされて通らない可能性が高い。


 地元の商店主は、そういった企業形態でない。あくまで「個人の事業」だから。
 「金のある人間の道楽」といえばそれまでだが、逆に、「企業人でないからできる、地域への資金の還元」ともとれる。経営者としての利益追求を放棄するような支出を、地元の商店主たちは可能にできる存在なのだ。


 「これからは地域の時代だ」と主張して、町おこしの運動を推進しているならば、こういった地元の商店主を動かせなければ失敗だろう。地元と結びつかない運動は絶対に成功しない。
 「まずは、地元の飲食店に通うことから始めてはいかがか?」
 そこには、統計学や都市社会学の見地からは見えてこない、「人的ネットワーク」が存在するものである。

(了)

食コラム目次へ戻る

飲食店紹介へ戻る

TOPへ戻る