2.「本当の味」を知らない事の不幸
(味覚の簡素化は、精神の貧弱化)


2005年4/7(by.光一)

 「おふくろの味」とか「田舎の料理」などと称されるものがある。
 なんのことはない。ただの「家庭料理」である。
 面白いのは、このごくごく普通の料理がグルメ番組や旅番組でもてはやされることである。


 私は地方の生まれだし、現在も俗に言う「田舎」に住んでいるためか、「おふくろの味」とか称するものに対して、飢えを感じることはない。だが、それに飢えを感じる人がいるのもまた確かである。


 しかし、現在深刻な事態として、そういった味を知らないで育っている子供が非常に多いことがあげられる。
 ライフスタイルの変化などと言われれば、それまでかも知れない。
 しかし、若年層世代の栄養過多などの問題が取り上げられるようになったのも、また最近のことである。
 聞いた話では、献血の際の検査で、献血として使えない血をしている人が急増しているらしい。つまり、血の比重が足りないわけである。原因として大きく取り上げられているのが、「食生活」である。


 このところ買い物に出ると、「冷凍製品」が非常にバリエーション豊かであることに気づかされる。味も向上しつつあるのが事実である。
 この「冷凍食品」というのは非常に便利で、料理の不得手な私でも容易に食事がとれるのである。


 また、ファーストフード店やファミリーレストランの増加と利用の容易さの向上も、眼を見張るものがある。同時に、コンビニですら適当な食事が手に入る時代である。カップラーメンなどの携帯食品も非常に豊かになってきた。(※正確には「ファストフード」なのだが、日本では「ファーストフード」と言う方が多いので、「ファーストフード」と表記)


 生活の簡易化という点で、また調理時間の大幅削減や簡素化として、これらの果たした役割は大きく、その意義は計り知れない。レンジでチン、お湯を入れて3分間、500円で満腹になれるファミレス…………。


 私もその恩恵に全く預からないわけではないが、それでも首を傾げざるをえないのも事実である。


 私はこれを書いている時点では、まだ24歳の若者である。
 その若者をしても、このようなライフスタイルが広範に抵抗なく定着していることには、一種の危機感を抱かさせるのである。


 私が少なくとも中学校を卒業するまでは、両親がきっちり料理を作っていた。内容はなんのことはないもので、「きんぴらごぼう」やら「ほうれん草の胡麻和え」やら、「おふくろ手製のハンバーグ」などなどであった。
 出来合い物の料理が食卓に並ぶ風景は、私が大人になってから見かけるようになった。


 しかし、現在そのような「出来合い品」などで育つ子供が急増していることは、紛れもない事実である。
 恐ろしいほどに深刻なのは、子供に料理を作ってやることのできない親すら増えているという事態である。


 子供の味覚はいわゆる「白紙」であって、色々食べて育つ中で「色紙」となるのである。
 「おふくろの味」と言われるような「故郷の味」などの、その人が一生持ち続ける味覚というのは、中学生の時期頃までに形成されるらしい。
 そして、その人物の性格というものも、おおよそその時期までには形成されている。


 昨今、子供たちの精神荒廃がとり立たされるようになった。原因として、家庭の荒廃、一人っ子時代、人々とのコミュニケーション不足などなど挙げられる。その原因は一様ではないが、私はここに「食のあり方」をおきたい。


 つまり、現在の子供たちの不幸というのは、「本当の味」を知らないことなのである。
 「本当の味」を知らないことが、彼らの味覚を簡素化させるだけでなく、その精神さえも貧弱にしているのだと考えている。


 「本当の味」を知らないというのは、ライフスタイル全般の変化と絡み合っている。「本当の味」を知らないというのは、「まずいもの」しか食べていないという意味ではない。もちろん、そういう意味合いもあるが、重要なのは、「本当の味とは、各家庭の個性的な味」ということである。それは、昨今幅広く定着したライフスタイルからは遠く離れたものである。つまりは、「おふくろの味」ないし「田舎の味」なのである。


 承知していただいているとは思うが、私は「女性が家事労働をしなくなった」というような議論をしているわけではない。「おふくろの味」だから母親が作るべきだとか、そのような貧弱な発想をするつもりは毛頭ない。男性だろうが女性だろうが、料理をできないのは問題外であるし、どちらかが一方的に家事労働を押し付けられて良いわけがない。


 私が言いたいことは、「子供たちに、簡易食品ばかりを与えるな」という単純な議論である。家庭ごとに様々な食材を保持して、それを調理して食べさせるのが「本当の味」である。また、そのような作業を見て育つ子供と、見ないで育つ子供……それが彼らの精神形成に及ぼす影響が少ないわけがないであろう。


 各家庭ごとの味を子供たちが知っていくということが、本当の意味での「家庭の味」を知ることであり、それは簡易食品では知ることができないことである。また、そのような食事形態が子供を育てるという意味での「食育」を否定することはできないであろう。


 泥のついたジャガイモを洗い、ごぼうを笹がきにする。またはすり鉢でゴマをすり、味噌と砂糖を……そのような食材加工から調理全体の過程を台所に持ち込むことが、「本当の食事」である。その過程に子供が入り込むことが「食育」である。最初から出来上がった食材を並べるだけの食卓は、「本当の食卓」ではないのだ。そのような食卓が生むのは、味覚の簡素化とあるべき「食育」の不在なのである。


 子供が「全国で規格化された味」しか知らないで育ったとしたら、それは不幸ではないだろうか?
 家庭での食卓風景が、全国どこでもあるような規格品で染まっていく時代……または、安いファミレスで食事が済まされていく時代……それが「おいしい!」と感じてしまう子供たち……私はこのような時代をグロテスクなものと思わざるを得ないのである。


 食卓風景を様々な色合いで描けないものだろうか?
 そのような風景画を毎日見せられる子供たちは、それに抗うことさえできないのである。
 だったら、そのような風景画はきっちりと両親が描いてあげるべきである。


 レストランでの食事もよいが、それもきっちりしたこだわりの店で食べさせてあげようではないか?
 全国規模チェーンの店は手ごろだが、子供の味覚を鍛えてあげる場所ではない。食事は人を形作るものであり、形成過程にある子供には、最高のものを食べさせるのが最高の教育である。
 そういった店は「お高い」と言われるかもしれない。
 でも、よく考えてほしい。
 普段は家で食べるのである。外食などというのは、年に何回もするものなのか?
 週に何度も外食するようならば、そのようなライフスタイルが異常なのである。
 私でさえも、小さいころは年に数回しか外食させてもらえなかった。誕生日や旅行など、特別な日における「ご褒美」が、私の小さいころの外食だったのだ。なんせ、安月給のサラリーマンの家である。しょっちゅう外食するほうがおかしかった。それゆえに、小さいころの外食は非常に豊かな経験として覚えている。逆に言えば、普段は家で両親が手の込んだ料理を作ってくれていたのだ。


 子供の味覚を形成するのは、まさに両親の役割である。
 彼らは押し付けられたそれを、後々に消し去ることはできない。
 ならば、それに対する責任を親たちは自覚するべきである。


 今の子供たちが、大人になって、小さいころの味で思い出すのが、「ファミレス、コンビニ・スーパーの出来合い」だったら、それはあまりにも悲しい事態ではないだろうか?


 子供が年を重ねたときに、「ああ、昔親が作ってくれた味が懐かしいなあ」と思い出してもらえる……そんな食卓風景を描いてほしいと切に願う。

 今でも私がおふくろに対して、よく思い出しては言うことがある。
 「おふくろが昔作ってくれた煮込みハンバーグ。あれよりおいしいものを、俺はまだ知らないね」

(了)

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