私は常日頃、いわゆる「個人経営店」と言われるような所で外食する。基本的に、大型チェーン店などには立ち入らない。それは私なりのこだわりでもある。
こういった個人経営店というのは、基本的には小規模な店である。
店員がそこの経営者一人などということも、決して珍しくはない。中には、客が10人も入れないような小さな店もある。
しかし、こういった小規模な店というのは、何よりも「大規模」なのだと私は思っている。
その大規模な点はいくつかある。
まず第一に、「コミュニケーションが大規模」である。
大規模チェーン店とは違い、そこの経営者その他の全てが見通せる。その上、基本的に何度訪れても、そこには変わらない店の人間がいる。コミュニケーションを図る機会はかなり多く、数回通うだけで顔馴染みとなり、地元の普通には知れないような情報が容易に手に入る。
また、店主との会話も非常に楽しい。一度コミュニケーションを交わせば、それほど大きくない店である。次回の来店以降は、前の会話の続きだってできてしまう。人と人とのつながりが「最大規模」でできるのも、小さな店ならではである。
そして、これは賛否両論あるのかもしれないが、「店の人間と友達になれる」のである。
そうすると何が違うかというと、店主が一日店を休んで、常連や友達のために開くようなパーティーに参加させてもらえたりする。これがまた、多種多様な人が集まるので(といっても、人数は10〜20人程度だが)、様々な人と知り合いになれる。中には、地元企業の社長とかまでいたり、市議会の議員がいたりもする。小さな地元の店でも、実は驚くような人脈を持っていたりするのだ。こういった場で知り合った人が、地元で仕事や活動をする際に非常に助けてくれることもある。
また、店主と友達になると、こちらに何か転機になるようなことや不幸があった場合には、「お代はいいよ」とか言ってくれたりもする。実は、私もこの恩恵に授かること多々ある。他にも、コーヒーなら何杯でもおかわりできるし、お菓子までつけてくれたりもする。とにかく、多々の恩恵に浴することができる。私もその一人である。
大規模チェーン店では、こういった「おしゃべり」の類はまずできない。当然、上記のような「サービス」は望むこともできない。すれば、その店員は職務怠慢・職権乱用で叱責・免職ものだろう。それ以前に、店員とコミュニケーションを図ることもまずない。
そして第二点に、「融通の利き方が大規模」である。
融通の利き方を大規模と書くのは、日本語表現としてはおかしいのであるが、とにかく「大規模」である。
というのも、これは第一点目の「コミュニケーション」とも関連があるのだが、店員と細かいコミュニケーションを図っているような客ならば、極端な話、その日の持っているお金が足りなくても、「次来たときでいいよ」で済んでしまうこともある。もちろん、これは極端な例で、普通外食に行く際はお金ぐらい持っているのが当たり前だが。
ちなみに、私も、「お代は次で構わないよ」と言われたことがある。
それ以外にも、子供がいる場合の細かい待遇なども求められる。
何よりもすごいのは、店にないメニューを頼めてしまうこともある。実は、これがメニューに並んでいる物以上においしかったりするから侮れない。
また、既存のメニューを見て、「味付けを濃くできない?」とか、「前のメニュー無くなってるみたいだけど、作ってもらえないかなあ?」とか言うこともできる。
何かにつけ、こちらの注文に細かく柔軟に対応できる。なぜなら、そこの経営者と直接話ができるからだ。
「注文の多い料理店」……別にあの文学作品の意味で用いるわけではないが、こちらが注文を多くつけることができるのが、最大の強みでもある。実際にあるメニュー表以上に、メニューを求めることが可能である。
大規模チェーン店でも、ある程度の注文はつけられる。だが、小規模な経営体制に比べると、その対応の柔軟性では劣るといってよい。
最後に、「心の在り方が大規模」である。
これも日本語としてはおかしいのだが、そう表現させてもらう。
当然これも、コミュニケーションと関わる。
小規模の店では、店主(それに大体は家族)とのコミュニケーションが最大多数を占める。大規模なチェーン店とは違い、単なる営業スマイルではなかったりする。
「心からお客をもてなそうとする態度」や、「頑固そうだけど客に出すメニューに妥協しない」などなど、そこの人間の心のあり方がわかる。その心のあり方は、大規模チェーン店などの契約社員やバイト、異動を重ねる社員たちとは根本的に違う。自分の店、お客、食材から料理まで……そのいずれか、あるいは全てにおいて、店の人間の心のあり方が「大規模」なのだ。私が話をしていた喫茶店のマスターなどの中には、こちらが感銘を受けるほどの「人生哲学」を備えている人もいた。
小さな店は単なる小規模の店ではない。
そこには、「人」という存在を何よりも重視した「大規模」さが存在しているのである。 |