5/22(木)<前編>

出来事→研究会「バス旅行」

特記→「鹿島神宮」「鹿島港」「陸上自衛隊武器学校」


 どうも光一です。今日の更新は、22<前編>・<後編>の二編となっています。


 さて、我々「茨城大学史学専攻会」は毎年「バス旅行」なるものをやっています。すでに二十年以上の伝統があるらしいのです。


 いままでは、H先生が主催されていたのですが、退官されたので、今年からは史学の若手(静かなる情熱派)T先生が主催されることに。




 さて、私はといえば、朝から「遅刻遅刻」と叫びつつ、常磐道を140キロで飛ばしていました。




 ちなみに、メーターは140キロまでしかないです。




 なぜ時間がなかったかというと、「ホットプレート」を探していたためです。




 帰ってからのコンパで肉を焼くらしく、持ってきてくださいと後輩(専攻会長)から頼まれてはねえ。




 さて、バス旅行には43名の史学の学生と先生方が集まりました。





 例によって、帰りに茨城大学農学部キャンパス(In阿見)を通る……また私の自宅の近く通るし。


 複雑な気分。




 さて、10:30AM 鹿島神宮到着。


 近くには、昨年のワールドカップでも出てきた「鹿島スタジアム」があります。大体3キロくらいしか離れていませんね。





 鹿島神宮で圧倒されるのは、その森林の広さですね。




 もともと神社の周囲にある木は「神木」ですから切らないんですね。




 そして、鳥居から本殿までは参道が延々と続きます。




 それを囲むのが、巨木の並木です。




 まさに「俗世と神聖世界」をつなぐ回廊というわけです。



 過去の人々は、その光景と神秘性に圧倒されたはずです。




 そして、ここは「我々関東が京都側に征服された民族」の歴史が刻まれている点でも興味深いです。




 それは、祭神である「建御雷之男神」(たてみかずちのかみ)は「国譲り」において、この地方の土着神をねじ伏せた神であるからです。


 つまり「国譲り」という大和朝廷の征服イデオロギーを体現しているのです。


 鹿島神宮の目的はまさに「蝦夷」(えみし)<今の東北の土着の人々>を平定するイデオロギーなのです。


 宝物殿には鹿島神宮の歴史が書かれていますが、

これを鵜呑みにすると「神武天皇」という「でまかせ天皇」が実在することになってしまう。



 まあ、しかし「歴史」を知る上でも、また森林浴を楽しむ場としてもいい場所です。




 ちなみに「御手洗」(みたらし)という湧水があります。

ここは「鹿島七不思議」のうちの一つなんですが、それはいいとして、





 近くで「みたらし団子」売ってるんですよ。







 御手洗=みたらし……




 ……=おてあらい……





 まあ、いいですか。これ以上いうと下品ですし。





 13:00PM 鹿島港




 ここには地上51メートルの「展望台」があります。




 ここからは、鹿島のコンビナート群と港が一望できます。






 海を見ながら「タイタニック」の真似事(船のへさきで二人でやるアレ)やっても面白いかも。





 風であおられて転落するのもかまわないならですが。





 さて、最後に「陸上自衛隊武器学校 雄翔館」


 ここは、かつて「太平洋戦争」の時に、「神風特別攻撃隊」の多くの隊員が送り出された通称「予科練」の基地です。


 当時の日本海軍航空隊の最大の練習基地でした。




 ここには、さまざまな武器のほか、予科練生の「遺言」が大量に展示されています。




 しかし、彼らの死を冒涜するわけではありませんが、




 この展示館には「危険性」があります。




 それは、「聖戦」「転戦(つまり退却。当時の国民を騙していた軍・政府の欺瞞)」などの単語がところせましと掲げられ、彼らの死は「神聖化」されており、解説のテープも「全て戦争賛美」に終始




 国の施設がこんな状況なわけです。





 これは今の日本でですよ。





 つまり、日本国家はいまもって、





 「あの戦争を反省していないわけ」です。






 有事三法案などという暴虐もまかり通るわけです。







 今の政治屋の誰も歴史を学んではいないということですね。





 大学も「法人化」で「国の奴隷」にされるのは明白だし。





 日本の将来はお先真っ暗と考えたほうがいいだろうなあ。





 何かにつけ「前に習え」の日本画一化は、多様性を損なうと思うんですが。


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