第二章 革命の挫折と反動 ―――― 自由派と保守派の対立

1 反動の時代と経済成長

 3月革命がその年末には、各領邦の巧妙な革命派分断策と妥協、そしてプロイセンの軍事的弾圧によって挫折すると、「ドイツ統一」の道は遠のいたかに見えた。それは、革命を封じるために各領邦が警察力を強化し、より中央集権的になったためである。しかし、その中でもプロイセンがとりわけ強力な警察力を発揮し中央集権化したことは、それまでとは違う方向性の「統一」を将来において創出することになる。この中央集権化の背後には、土地貴族が利害を守るために中央政府との妥協を余儀なくされ、資金などの提供を行ったことが大きな要因となっている。

 政治的に自由派が保守派と妥協したことで革命の熱は失望の中で後退し、代わって保守派が強化され、反動の時代を迎える。それ以前の19世紀初頭にシュタイン・ハルデンベルクが制定した「営業の自由」は制限されることになった。すなわち、ギルド規制の再建・雇用契約の政府介入などが行われたのである。児童雇用の制限も12歳以下の雇用を禁止し、これはイギリス・フランスの8歳以下よりも進んでいるように見えるが、それは、伝統的な職人・手工業者の保護のためであり、自由派の反対を押し切って施行されたものであった。しかし、50年代はまたドイツ経済が飛躍的に発展する時期とも重なり、産業資本家などの台頭を抑えることはできなかった。すなわち、1835年に初めて敷設された鉄道は6キロ過ぎなかったが、48年の革命前夜には5000キロにも達した。これは、輸送の確立をもたらしただけでなく、鉄道建設に関する諸分野(鉱山業・製鉄業・製造業など)の発展を促し、それが生んだ利益が他の産業を刺激するという波及効果をもたらした。それが、反動期の安定した政治状況の中で投資ブームを呼び、1850年には約90億マルクの国内純生産(40年は約70億マルク。45年は約80億マルク)だったのが、ビスマルクが首相に就任した62年には約120億マルク。帝国成立の71年には約140億マルクと急速に成長を遂げている。その中で産業ブルジョワジーが経済的・政治的自由を求めて議会内での行動を始め、保守派も新たな改革を迫られる状態が生じてきたのである。

 

2 産業資本家と土地貴族の対立

 こうして両者の利害対立が避けられない状況となるが、ここでその性質を考察したい。

 まず、土地貴族であるが、彼らは宮廷・軍の高級幹部・農村地域を支配し、その影響力は絶大であった。「統一」以前は農民解放後も警察権や裁判権を有し、かつ解放された農民の土地を収奪し所領を拡大することで大農場経営体制を資本主義体制に適応させていった。「統一」後も、外交官や軍の上層に位置することで、国家的に生産物の保障を受け影響力を保ち続けた。しかし、彼らは東エルベの農業利害に重点を置くばかりに、第二帝政期にはロシアの飢餓輸出に対抗して国内関税を高めるよう圧力をかけるなど、19世紀後半の世界経済が要請する経済発展の国民的課題に対処する能力に欠けていた。それは、自由主義経済を標榜する産業ブルジョワジーとの対立を引き起こすことになる。そこで、プロイセン国家も第二帝政も農業と重工業の両者を助成することで両者の支持を得たが、それは高関税の壁により一般民衆を廉価な製品から遠ざけ、その利益に預かれなくすることを意味した。さらには、輸出完成品や中小工業にとっては不利な体制であり、第二帝政は借金によって国内市場を安定させるという、結果的には不安定な経済政策をとることになる。

 次に産業資本家であるが、議会内では多数を占めた彼ら自由派は、三級選挙制度の上に立っていたため、労働者運動=民衆との提携に欠けており、土地貴族との権力争いにおいてヘゲモニーを握ることができなかった。やがて社会主義労働者政党が苛烈な弾圧にもかかわらず勢力を伸張していくのは、利害から除外されている下層の人々を味方にできたからであろう。

 この両者の深刻な対立と、不満を募らせる労働者階級に対し巧妙なアプローチをしていくのが、ビスマルクである。


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