第三章 国内調整と外征 ―――― 第二帝政建設前夜

1 ビスマルク体制の確立

 50年代のプロイセンにおいてマントイフェル内閣の下で行われた反動政治は、62年に自由主義運動の再燃、王弟ヴィルヘルムの摂政就任などの動きを受け終焉を迎える。自由派は58年以降議会の多数派を占めていたが、62年には軍制改革を拒否し、ここに「憲法紛争」が開始された。この時に就任した新首相がビスマルクである。

 ビスマルクが最初に行ったことは、予算に関する議会の承認を経ずして統治を強行したことである。しかし、彼は議会を無視したわけではなく、66年には「事後承諾案」を議会へ提出しそれまでの統治を追認させ、代わりに以後の予算承認権を与えることで議会を懐柔している。つまり、反動的な保守政治ではなく、議会と妥協しつつ政府の主導権確立を目指したのがビスマルクであった。そもそも「憲法紛争」が議会と王権のどちらが主導権を握るかという性質を有しており、ビスマルクはそれを封じることで、王権(土地貴族=ユンカー)か議会(産業資本家=自由派)かという対立、つまりは立憲君主制国家における二重構造体制を曖昧にし、その上に政府組織(官僚)が政策を実行していくという構図を創出していったのである。これを可能にしたのは、前章で述べた産業資本家とユンカーの対立が、両者ともヘゲモニーを握れないという背景があり、その対立の上にどちらの党派にも属さない政府を作り上げたことによる。この構造は第二帝政時代の宰相としてのビスマルクにも引き継がれていく。そして、ユンカーと産業資本家の対立を曖昧にしようとする政策もその後継者たちに引き継がれることになる。

 実は66年の「事後承諾案」はもう一つ成立に裏があるとも考えられる。「事後承諾案」は間違いなく議会がその時点においては認めるというムードが形成されていた。それは、その年に普墺戦争がプロイセンの圧倒的勝利に終わったという背景からだ。これは次節に述べる。

 

2 3度の戦争

 ビスマルクは「ドイツ統一」までに3度の戦争を行っている。その戦争を通じてビスマルクは自らの基盤を固めた。

 最初は、1864年の対デンマーク戦争である。これは、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国をデンマークが併合することに対し、両公国のドイツ系住民が抗議したことを口実に、プロイセン・オーストリアの軍隊が両地域を占領・併合(名目上は共同管理)した戦争である。これにより、ビスマルクは世論を味方につけることに成功した。しかし、戦後シュレスヴィヒをオーストリアに与える約束をしながら、ビスマルクがそれを無視したため、両地域の管理が問題となり、66年には普墺戦争が勃発した。これは同時に、「ドイツ地域」の統一をどちらが主体に行うかを決することにもなった。しかし、未だ文献に証拠は見出せないが、デンマーク戦からその領域問題はビスマルクの予定表に入っていて、すでにデンマーク戦前にオーストリア戦をにらんでいたというのは考えすぎだろうか。結果は対サルディーニャ戦に主戦力を割いていた上、多民族国家軍の欠陥を露呈したオーストリア軍が7週間の短期間で敗北し、プロイセンの領邦国家群に対する圧倒的優越を確立することになった。これにより、プロイセンが「ドイツ地域」を統一する礎が築かれたのである。

 同時に、このオーストリア戦の勝利は、議会内にビスマルク歓迎ムードと「ドイツ統一」ムードをもたらした。というのは、ビスマルクは就任直前に成立していたフランスとの自由貿易関係を関税同盟全体に広げることで、産業資本家の経済的欲求を満たそうとした。それは「小ドイツ」のオーストリアに対する政治的勝利であったけれど、普墺戦争の勝利が完全にオーストリアを除外することで、あらためて関税同盟全体に対するプロイセンの覇権を印象付け、「統一」への機運を盛り上げた。そのことで、全国の経済的連関を求める産業資本家と、軍隊などの中で権威を増す保守派がビスマルクの議会内での与党となった。

 そして最期は1870年の普仏戦争である。これは、「オーストリアを除外するドイツ統一」の仕上げであった。というのは、フランス皇帝ナポレオン3世は国内の矛盾を対外的な成功により隠そうとしていたが、そのフランスの影響力にある南ドイツ諸邦(カトリック)はドイツ統一にとっての障害であったため、対外的成功を求めていたナポレオン3世を戦争に引きずり込み、そのことで南ドイツ諸邦を組み込んで「ドイツ統一」成し遂げたのである。

 この3度の戦争はビスマルクの政治的地位を確立し、「ドイツ統一」も成し遂げたが、ビスマルクはいずれの戦争においても、「ドイツ国民の保護」「ドイツ人への他国からの侵害」などの危機を煽り立てている。その度ごとに軍の増強を行ってきた。彼がこの時に指した「ドイツ人」とは何者か。それはデンマークのドイツ人でもオーストリアやフランスのそれでもない。それは曖昧で形の無い「ドイツ人」を作り上げたことであり、ナショナリズムを煽ることでプロイセンによる「ドイツ統一」を行い、「国民国家」ではなく「国家国民」を作り上げることではなかったのだろうか。それ故に、この3度の戦争はまさに「国家のための国民」を作り上げるという意味での「統一戦争」だったのだろうと考える。


第四章へ進む

報告一覧へ戻る

TOPへ戻る