第四章 第二帝政 ―――― 常態化した構造的対立という矛盾

1 作り出される敵とナショナリズム

 1870−71年において、この「ドイツ地域」は一応の「統一」をみることになった。しかし、この政治的な高揚は長続きすることがなかった。要因としては三つのことが考えられると思われる。

@不均質な帝国の構造が「統一」でより明らかになった(それまでは分立。特に南部領邦)

A共通の価値・規範が希薄(祝日・宗教・生活基盤・東西南北格差)

B73年の「ドイツ帝国」の大不況。(71年の投機ブーム<賠償金獲得による>の終了)

 これまでに述べてきたように、この「ドイツ」という観念は相当程度怪しい、もしくは疑問視すべき概念であり、それが「統一」戦争の高揚後には希薄化し、人々を結び付けておくべき扇動材料がなくなってしまった。というのは、「統一」という一大プロジェクト、もしくは投機的な冒険が終了したならば、それに勝る扇動(人々をドイツに結びつけるような)は何が考えられたのか、という壁にぶつかるからである。

 余談ではあるが、「ドイツ」という概念以上に人々に受け入れられたのは、おそらく「地域」という概念ではなかったか。それはそれまでの1000年近くにわたり、人々を地域の「封建国家」に枠組みしてきたその概念である。それは第二次世界大戦のドイツ軍の構成を見れば一目瞭然である。ドイツの軍隊はヒトラーが言った「国家軍」というよりも、実情は「地域軍」といえるのである。それは、地域ごとで軍を募集し、その地方の人間だけで軍隊を構成するのである。これはパウル・カレルの著作バルバロッサ作戦を見れば明白である。ドイツにおいては根強く地域意識が残っていた証左ではないか。

 さて、それでは政治当局としては、つまりは宰相たるビスマルクとしては、この人々に「ドイツ」へ結びつける材料を定期的に与える必要性が出るのは当然である。彼が行ったことは「負の統合」といわれる政策であった。これは以下のような構図を「帝国」内部に常に意図的に創出するものである。

「帝国の敵」=少数派⇔帝国に忠実な多数派

 特徴的なのは、この少数派(帝国に忠実なのが多数派でなければ国が成り立たないので、創出されるのが少数派なのも当然である)が単独では国家自体を揺るがせないことである。つまりは、それ自体ではたいした脅威とはなりえないものである。とすると、それを国民に訴える強力なアピールと結びつくことで、この「帝国の敵」が正統化されるわけである。

 それは、国外の諸勢力とそれら「帝国の敵」を結びつけることで、対外的危機を、それが本当に存在しているかどうかは関係なしに常に国民全体に訴え、「非国民」「国民」を分離し、それに対する排外意識を生み出し、国家ナショナリズムを常に高揚させておくという手法であった。

 このことは、諸政党をさらに超える形での二元論を生み出し、上記の二つの構造要素を政党の代わりとして議会を操作する手法でもあった。

 民衆においても、数十年間「第二級市民」(=帝国の敵)と隣り合うことで、友敵思想=少数派の弾圧が日常化するという状況を生み出した。このことは、H・U・ヴェーラーによれば、「帝国の敵」は「帝国水晶の夜」へ、「民族の害虫」を補完物に「民族共同体」へ結びつける。つまりは第二帝政がナチス時代に引き継がれたということである。

 実際に、下記の弾圧の事例のために、例えば1913年に軍がエルザスで起こした「ツァーベルン事件」などがある。他にも、ユダヤ人への街頭でのリンチも日常的な光景ですらあった。

 このことは「帝国」のナショナリズムを盛り上げ、確かに「非ドイツ」とそれ以外を創出し、大衆に国家への帰属意識を植え付けたが、それは弾圧という歪んだ構造も植えつけたと理解できる。

以下に簡単に事例を挙げていく。

@政治的カトリシズム(政党としては中央党)⇔文化闘争

 <敵とする要因>

1864年:謬説論(時代の誤謬)→教皇至上論。自由主義と社会主義、科学への教会の闘争。

 中世へ戻るというよりも、教会による研究や教育のコントロールを目指す運動か? プロイセン・ドイツの近代化の中でのカトリックへの圧迫に対する抵抗と思われる。ちなみにプロイセンはプロテスタントであり、その王権はプロテスタントの最高位階として教義上も神による正統化がなされている。これは他のプロテスタント領邦も同じ。プロテスタント教会は臣民教育の担い手として地域への浸透を許可されており、王権と共存。

 これを、カトリックのポーランド、ハプスブルクとの提携(大ドイツ主義者も同様の理由で敵)と結びつけることで対外危機として攻撃。

A議会主義的民主主義(とりわけ左派<右派は産業ブルジョワジー。ビスマルクと妥協>)⇔君主制

 <敵とする要因>

 議会勢力が憲法の一層の自由化と、関税政策の改善、軍や政府の議会によるコントロールを求めていること。

 これは、君主制国家を掲げる以上、政府関係者にとっては不倶戴天の敵である。また、議会の力を強大化させることは、ユンカーや大資本家の利害にも対立した。議会制のイギリスとの提携のみならず、フランスとも結びつけ、容易に弾圧可能であった。

B社会民主主義(労働者運動には「アメとムチ」)⇔社会主義者鎮圧法

 <敵とする要因>

 不均等な社会構造に対し、労働者や少数民族への権利獲得を標榜し、根本的な憲法改正を目指した。

 これは自由主義左派以上に危険な存在であった。政府当局は社会の構造の不均一は承知というより、その上層階級に位置したから、これは性質上排除すべき敵であった。これを「帝国の敵」と宣伝するのは二重の意味があっただろう。つまりは、特権階級の擁護とナショナリズムの高揚である。

 ここには、インターナショナルという世界的革命勢力という宣伝と、フランスにおけるパリ・コミューンの危機など、対外危機が国家転覆組織、無政府主義者と結び付けられた。

Cユダヤ人

 <敵とする要因>

 もともと、ユダヤ人への差別は続いており、人々に宣伝材料とするのには向いていたこと。かつ、世界各地に存在するため「国際的な非ドイツ的」と宣伝し、いつでも国家を裏切るとして宣伝しやすかった。

不平等な経済成長などをユダヤ人の責任に帰すもともとの「反ユダヤ主義」に加え、ドイツ人に同化しようとするユダヤ人を、「ユダヤはドイツ人にはなれない」とする人種主義的な差別主義が蔓延。それを政府が助長し、その時々における社会不満のはけ口に利用。(反ユダヤ諸団体は補足にて紹介)

Dポーランド人・エルザス・ロートリンゲン人⇔独立運動・パンスラブ主義・フランス

 <敵とする要因>

 これは、ポーランドの土地貴族から土地を収奪する法案などを通し、「土地のゲルマン化」という名目でユンカーの支持を得たほか、ポーランドの独立運動や背後にいるとされるロシア帝国、またエルザス・ロートリンゲン奪回を目指すフランスとの結びつきを強調し、常に弾圧と差別の対象だった。

 これは、この人々の権利を擁護した自由思想派・社会民主主義も「利敵行為」として弾圧できるため、国家にとっては一石二鳥にも三鳥にもなった。

 

2 軍がもたらすアイデンティティ

 この国家における軍というのは、他の国家と違った立場を持っていた。それは、「統一」が「下からではなく上から」行われたこと、それが軍隊による三度の戦争で遂行されたことに起因する。それは、軍の権威を高め、その権威への憧れを人々の中に生み出した。しかし、その軍における幹部の殆どはユンカーの子弟が担っており、産業ブルジョワジーが権威獲得のため、利害の相反するユンカーの娘と自分の息子を結婚させることで、軍における権威も獲得する試みが見られた。

 この軍隊は「国家の中の国家」とも言われ、その秩序は憲法の上でも特例化されていた。例えば、市民の日常の中においても、軍人に街中であった際には敬礼をすること、道を空けることは義務であった。宮廷においても、登場した少尉(将校としては最下級)に歓待をするほど、その権威は保障されていた。

 つまり、軍における昇進は、他の職業におけるそれとは異なり、国家ステータスとしての上昇を意味していたのである。

 そのような中で、軍内部の対立も見られる。それは各部局の権限闘争だけではない。陸軍・海軍の競走も見られた。次の節で海軍については述べるが、陸軍は海軍と違い、プロイセン時代からの伝統的な職業であり、貴族の牙城でもあった。軍の予算が増加され、兵力が増強される中で(ビスマルクの主張では人口の1%を常備兵力とする。これは常に達成されたばかりか、これを上回る兵力を常備していた)、陸軍から逆に兵力の増強に反対する動きが出てくる。これは、兵力が増え、指揮官の数を増やすことで、そこに平民階級の将校が出てきて、軍隊が「民主化」し貴族の占有物でなくなることへの反発であった。兵力数はユンカーの子弟の数に応じて行うべきという主張である。この矛盾を突いて拡大したのが海軍であった(ティルピッツ海軍大臣は「艦隊法」で大艦隊建設。その規模はイギリスに届かないまでも、ロシア・フランスを凌駕した。その一大センセーションはティルピッツの地位を帝国宰相以上の権威に高め、その建設コストの高さに宰相ベートマン・ホルベークは退任するとまで脅していたが、結局は妥協して第三次建設法を承認した)。

 こうした性質ゆえに、民主化を目指す自由思想家や社会主義者は彼らからは敵視され、またユンカー的な伝統から反ユダヤ主義の牙城でもあったから、ビスマルクはこの軍隊を「内なる敵への予防手段」とも言っている。つまり、軍隊は対外戦争の目的以上に、国内に向けた戦力でもあった。

 そして、民間に影響を及ぼしたのが在郷軍人団体である。これは、退役軍人がそれぞれの故郷において作ったものであるが、その中には会員数100万以上の団体もいくつか見られ、世論形成の重要な要素であった。この団体は、地域の青少年団体にも干渉し、身体的訓練や国家教育の補助を通じて、民衆の軍隊化と教育を進め、人格形成に相当の影響力を及ぼしたと考えられる。ここにおいて、地域に規律と愛国心を流布し、国民としてのアイデンティティを創出していたと考えられる。

 

3 艦隊法と保護関税政策

 艦隊増強というのは、ドイツ帝国において、ティルピッツ海軍大臣の「危険艦隊思想」が最大の影響を発揮している。というよりも、そのティルピッツの艦隊政策はドイツのアイデンティティと産業資本家の利害を結びつけた。

 その前に、この艦隊思想は以下の意図が付加される。

@海外植民地の獲得・維持。(つまりは遠洋艦隊思想。これは国内の目を外に向けさせるという意味も持ち、諸問題をそらすことにもなる)

A重工業への受注増大による産業資本家層への資本注入。(国家による保護)

B艦隊の増強と植民地、イギリス海軍の脅威を結びつけた危機的ナショナリズムの高揚。

 しかし、Aに関しては、ユンカーの農場に対する高関税保護政策との絡みが強い。つまり、この艦隊政策というのは、農業保護による高関税策で報復関税を受け輸出を制限される資本家層への国家的保護の側面が強く、提唱者のティルピッツ自身が、「戦時にはイギリス海軍への潜在的な力で十分であり」「これにより国内の産業の活況」を図っていることからも明らかである。だからこそ、この艦隊が遠洋航海には到底耐えられず、またイギリス海軍を打倒できないことがわかると、支持を失い、再度陸軍の増強が叫ばれるが、それは大戦時のことである。

 おそらく、この政策には上記の三つ以外に、

C軍部の海軍増強・建設に対する労働者・兵員という失業対策。

も付加されると思う。

 いずれにせよ、このドイツ帝国は国家予算の70%以上を軍事支出に費やし、艦隊建造にはその内の60−80%を費やした。この補いに国債を発行し、国家の財政を逼迫させるという破滅的手段で、ナショナリズムを訴え続けていた。だからこそ、フリッチ・フィッシャーが「フィッシャー論争」で「ドイツは潜在的に戦争を望んでいた」と唱え、第二次世界大戦後の、「ナチスは特別に戦争を望んだドイツでないドイツ」だとして逃げるドイツ人に対し一大センセーションを巻き起こしたのであろう。

 この艦隊政策は、ドイツ国内で植民地獲得への訴えを喚起し、大衆動員にも成功し、国内の産業資本家の保護と同時に大衆も運動に組み込むことに成功した。しかし、それはイギリスの対ドイツ不信も巻き起こし、両者の関係を悪化させる一因にもなった。

 この一方で、蔵相のミーケルは、産業資本家への受注を増す国家に不満を増すユンカー層へ妥協し、「土地のゲルマン化」を促進し、「戦時には自給自足するため」というナショナリズムを名目に(そして成功する)、ポーランド人の土地接収を認め、多数のポーランド人を国外追放処分とした。しかし、季節労働者としてユンカーの農場を耕しに来るポーランド人は追放することがなかった。

 このことが、「鉄とライ麦の同盟」といわれる、産業資本家とユンカーの提携を生み出す。これは、ビスマルク時代から常に行われてきた「結集政策」の一端である。つまり、相反する権力集団を国家の下に組み込み、彼らの利害を調整しつつ、国民にナショナリズムという隠れ蓑を使う手法の完成形ともいえる。

 しかし、艦隊法と高関税で利益を受けたのは、大産業資本家とユンカーである。つまり、輸出製品を作っていた中小の産業資本家は周辺国の報復関税政策で大打撃をこうむった。そのため、中小の産業資本家と大産業資本家は対立していた。

 以上からすると、ドイツがこのような大資本家と中小の資本家が対立し、しかし、国家が大資本家を擁護したのは何故かという疑問が残る。一応私見では、70・80年代の不況で生産諸身分がユンカーとの妥協の必要性に迫られたとき、生産の集中化で大資本家が有利になるシステムが構築されたためではないかと考えるが、このことに関してはまだ調べが付いておらず、後の課題ではある。


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