「ドイツ第二帝政構造の考察」

第一章 1848年革命 ―――― その時点における「ドイツ地域」の状況

1 ドイツ的とは何か?

2 何故プロイセンであるのか?

 第二章 革命の挫折と反動 ―――― 自由派と保守派の対立

1 反動の時代と経済成長

2 産業資本家と土地貴族の対立

 第三章 国内調整と外征 ―――― 第二帝政建設前夜

1 ビスマルク体制の確立

2 3度の戦争

 第四章 第二帝政 ―――― 常態化した構造的対立という矛盾

1 作り出される敵とナショナリズム

2 軍がもたらすアイデンティティ

3 艦隊法と保護関税政策

 第五章 まとめに代えて ―――― 内部構造の考察

 

 

 

 

 

ドイツ第二帝政とはどのような国家であったのか、ビスマルクの帝国なのかカイザーの帝国なのかという問題ではなく、その構造を広く把握することで、世界大戦が勃発する要因の考察における一助としたい。そのため、第二帝政というよりも、その核となったプロイセン国家から広く見ていきたい。

 

第一章 1848年革命 ―――― その時点における「ドイツ地域」の状況

1 ドイツ的とは何か?

 1848年革命時に、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝就任を拒絶し、革命派の「ドイツ統一・立憲君主制」が挫折したことは、フランスのような「下からの革命」が挫折し「上からの革命」が進行することを意味した。また、その時点では他の領邦を制圧するまでの力を持っていなかったプロイセンが、革命を軍事的に弾圧していくことで、後の統一に向けて力を増大させていくのである。では、そもそも「ドイツ的」であるとは何を指すのか。それが明確にならないまま「ドイツ統一」が達成されることはないはずである。

 ドイツ国民という意識は、ナポレオン戦争時に一種のナショナリズムとして普及した。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は有名である。しかし、長い間300以上の領邦と50以上の帝国都市に分裂し、ゲーテとシラーが「ドイツだって? それはどこにあるのかね?」と嘆いたドイツはどの地域・人々を指したのか。ニーチェが「ドイツ人の間では『ドイツ的とは何か?』という問いが絶えないこと、これがドイツ人の特徴である」と言った、その曖昧な定義のまま統一された人々は、何をもって「統一」としたのか。

 1848年革命の時点でも、その問いには回答が下されていないというのが真相である。フランクフルトの憲法制定議会においてすら「ドイツ地域」が討議されていたのである。すなわち「大ドイツ」「小ドイツ」という観念である。フランクフルト国民議会では「小ドイツ」が勝利したが、この時点で一般に考えられていた観念は「大ドイツ」であったといえる。なぜなら、地理学者の中には「自然国境」を提唱し、フランスやベルギーの一部さえ「ドイツ」とする者もいたし、アルントは『ドイツの祖国とは何か』において「ドイツ語が響き渡る地域」を「ドイツ」とした。また、この頃に建てられた多くの記念碑がその心象を物語る。国民運動の団体はグーテンベルクやゲーテといった文化的功労者の記念碑を建立し、文化的祝祭日を設定した。この建立物が第二帝政期には文化的とはかけ離れ、領邦国家の君主の像が建立され、それ以外の文化的モニュメントの建立が少なくなっていくのである。つまり、国民意識がそれほど浸透していなかったとはいえ、この時期において指向された「ドイツ人」は言語・文化を共通とする「文化的国民」とされたのである。

 

2 何故プロイセンであるのか?

 では、「ドイツ」を上記のようにまずは捉えるとして、何故フランクフルトにおいてプロイセンが選ばれたのか。「小ドイツ」=プロイセン主導、「大ドイツ」=オーストリア主導と単純に捉えることは、「ドイツ」の観念の曖昧さを考慮する際には極めて危険であろう。なぜなら、プロイセンが第二帝政を完成させるまで文化的統合である「大ドイツ」は、決して少数派ではなく、むしろ「曖昧で定義しがたいドイツ人」を認識させるもっとも明瞭な手段であったといえる。問題は、「ドイツ人とは何か?」と考えたときに、プロイセンという一領邦を認識するよりも、オーストリアも含めた言語・文化圏のほうが人々の認識もしやすいはずである。オーストリアを除外した際、一体「ドイツ」とは何を指すべきか。それ自体がより曖昧にならざるを得ないはずだからだ。

 つまり、プロイセンが選ばれ、後の統一に際してはオーストリアが除外されていくというその要因を検討しなければ、「ドイツ統一」だけでなく、第二帝政の構造の本質さえも逃しかねない。つまり、第二帝政は何故あれほどの「ナショナリスティックな宣伝活動」を行ったのか、その「ドイツ民族」を国民に訴える動機が捉えきれないことになりかねない。

 そこで、国民統合に挙げられる条件を考察してみたい。「国民」を定義する際に何があるだろうか。上記に挙げた「言語・文化」は他地域でもよく挙げられる要因である。つまり、その違いを強調することで他者を排除し、排外的な「国民」「国家」を形成するのである。その加熱が「民族対立」に煽り立てられることも十分ありうる。

 とすると、ここで言う「民族的差異」はプロイセンとオーストリアを分ける条件であろうか。確かに、オーストリアは多民族国家であり、「言語・文化」の多様な人々が混在する。オーストリアも統合するということに対し、上記の条件で運動家が行動したのであれば、「ドイツ人」にすれば「チェコ人」などの排除またその逆もありえるため、互いに反発し、オーストリアが除外される可能性はある。むろんそれも原因の一つだろうが、それだけであろうか。

 それに経済的要因は追加できないだろうか。ドイツにおける1848年3月革命が挫折した要因は、三級選挙制度など特権階層にブルジョワジーが組み込まれることによる自由派との妥協に領邦が成功したこと、前年の不況に対する雇用政策を実施し、改革を支持するはずの都市労働者を懐柔したこと、また、農民の身分的解放と手工業者の保護が確約されたため、急進派を支持する基盤が消失したためである。その中でも、憲法制定議会で活動していた自由派は国内市場の安定化を望む性格を持つはずであり、とすると、ドイツ関税同盟の盟主であるプロイセンと結合することは、決して悪くない話である。つまり、君主制を敷きながら自由主義経済を標榜するプロイセンは、保守的経済政策をとるオーストリアとの結合以上に魅力的であっただろう。

 また、これには逆の見方もできる。すなわち「大ドイツ」を議論するためにフランクフルト国民議会に参加しようとしたオーストリア側の人々にも、プロイセンとの結合を拒否する材料を見出せる。オーストリアにおいて、改革はそれがオーストリアのローカル的な政治的自由を訴える限りは、産業ブルジョワジーであるドイツ人貴族もチェコ人も利害を対立させるわけではなかった。しかし、「大ドイツ」が採択されることは、ベーメン地域におけるチェコ人の中小企業家にとってはドイツ製品の流入を意味し、利害は対立せざるを得ない。ましてや、「大ドイツ」が採用されれば、多民族国家であるオーストリアは分裂せざるを得ない。そのため、オーストリア国内においてさえ、「大ドイツ」を受け入れられない要因が存在していたのである。


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