【Invisible/visible】 - 第一章 -
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InvisibleVisible

                   陽ノ下光一

 

(秋の空は憂鬱)

 華島美沙は頬杖付いて教室の外を見た。担任の緒方賢が「昨今の受験戦争はますます激化し」と熱っぽく語る。教室内の生徒は緒方を刺激しないようにと話に聞き入っていた。

(今日も曇りか)

 美沙は別空間にいるかのように、窓の外を見遣ったまま。

「美沙、マズイよ。緒方が見てる」

 後ろの席から声が掛かるが、それでも気に留めた様子はない。

 緒方が窓際の美沙を睨みつける。教室内にそれまでとは違った緊張感が走った。

(雨が降りそうね)

「華島!」

 緒方は教卓を叩いて立ち上がった。静まり返っていた教室にその音は一際大きく響き渡る。立ち上がった時に椅子がキュルルと悲鳴を上げた。

 教室に一瞬ざわめきが起こったが、緒方の一瞥で生徒たちは俯くか、参考書に目を落とした。

 美沙は何事もなかったかのように、外に遣っていた視線を、黒板の前でいきり立っている緒方に向けた。

 その態度は緒方の癪に障るだけの結果となった。

「お前は何を余所見している? 今年は受験なんだぞ。私がお前達のために話をしているというのに、その態度はなんだ? 第一」

「余所見していたことはお詫びします。では、話を続けて下さい」

 美沙は緒方の言葉を遮り、席を立って頭を下げ、再び席に着くと、姿勢を正して緒方を見た。

「今日のホームルームは以上だ! 受験生を抱えた教師は忙しいんだ。さっさと帰って勉強しろ」

 緒方はがなりたてて教室を出た。勢いよく閉められたドアが悲鳴を上げる。

 教室内の各所に安堵の溜め息が漏れた。と同時に、美沙に二種類の目が向けられた。

「関係ないのに巻き込むな」という視線が注がれる中で、

「美沙すごい。あの緒方をいなしちゃった」

 美沙の後ろに座っていた女生徒が感嘆の眼差しを送っていた。

 美沙が後ろを向くとその生徒は親指を立てウインクして見せた。美沙もそれに応えてか、Vサインを送った。

「一緒に帰ろう」

「そうね。梨佳、傘持ってる?」

 梨佳は自慢げに胸を反らした。短く整えた髪が微かに揺れる。

「持ってないんだ」

「ひどーい。まだ私何も言ってない」

「持ってるの?」

 梨佳は首を横に振った。

「じゃ、降り出す前に帰ろう」

「賛成。って美沙も持ってないの?」

 前を歩き出していた美沙が振り返る。腰の辺りまで伸ばされた黒髪が、その動作に舞った。

「秋雨の時期よ。折り畳みは持ってるべきよね」

「じゃあ、降ったら入れてもらう」

「折り畳みじゃ小さくて入りきらないわよ」

「美沙、背高いもんね。まだ伸びてる?」

 頷くと、梨佳は頭に手を乗せて上目遣いに、

「私、百五十にもなってないよ」

「いいじゃない。その方が可愛いもの」

 梨佳のチャームポイントの大きな目が見上げる。

「美沙みたいに背が高い方が美人でいいじゃない」

「そう言うけど、私は梨佳みたいにラブレター貰ったりしたことはないわよ」

 並んで歩く二人とすれ違った男子生徒も多いが、その多くは無関心というよりも、美沙を避けるようにして過ぎていく。

「冷血女」

 男子グループから、すれ違いざまに掛けられた言葉。梨佳はその背を睨みつけ、

「ちょっと、アンタ達」

 美沙は、抗議の声を上げようとした梨佳の肩に、そっと手を掛けた。

「梨佳」

「何、美沙」

「ほっときましょう」

「でも」

 梨佳が何かを言うよりも早く、美沙は歩き出していた。男子グループもすでにその背は遠くなっており、梨佳は美沙を追いかけた。

「いいの?」

 靴を履き替えながら梨佳が言った。

「何が?」

「さっきの」

「慣れてるわよ」

 美沙は靴を履き終えると外の様子をうかがった。

「一雨来るわね」

 帰路を急ごうとした二人だが、雨の勢いが急に増し始めた。

 傘を持っていなかった生徒が、鞄を傘代わりに慌てて走り出す。

「美沙」

「図書館に避難しましょう」

 美沙が走り出した先の建物は、半年前に閉鎖されている。周囲にはトラロープが張り巡らされていた。

「立ち入り禁止だよ」

 梨佳が止めるのも聞かず、ロープをくぐり、旧図書館の入口に入った。扉は錠が掛かっている。

「美沙ってば」

 梨佳は言いながらも、付いてきて雨宿りをしている。美沙はハンカチで顔をぬぐった。

「図書館は、やっぱりここよ」

「まあ、木造ってのは珍しいけど」

 梨佳の呟きに首を振った。濡れた髪から雫が飛ぶ。

「あそこは居心地が悪い」

「コンクリの壁って雨の時期最悪だもんね。いくら空調があってもねえ」

「人を拒んでる気がする」

「木造は心を和ませるってか」

 梨佳の冗談にも、美沙の表情は真剣そのものであった。二人は木造のそれを見上げた。鉄筋コンクリートの建物に囲まれ古めかしく映るが、取り壊す必要はなさそうだ。

「ここは?」

「温かい気持ちのこもった所」

「漠然としてるわね」

「それでいいのよ。言葉で言うことじゃない」

 美沙は微笑んだ。

「絶対人気上がると思うよ、その顔」

「表面しか見ない人は嫌い」

 それが、先程の男子や図書館の取り壊しを決めた者達に向けられていることは明白であった。

「私は?」

「梨佳は好きよ。私のこと分かってくれるの、梨佳と弟ぐらいだもの」

「あ、最近会ってないなあ。恭介君元気?」

 美沙は頷いた。

「今何年だっけ?」

「四年生」

 両親の海外赴任のため、美沙は弟の面倒を見ている。

 雨が煙る。その音が周囲を支配した。

 美沙は、図書館の扉に掛けられた南京錠を引っ張った。ジャラ、という音が響く。

「美沙?」

「封印か」

 美沙は錠を握り締め、放した。

 

 

 気まずい沈黙はどのくらい続いていたのか。

 梨佳は何か話題はないものかと、思い悩んだ。

 最近流行の物、歌、美沙はその手の話が好きではない。

「ねえ、美沙」

 掛けられた声に、静かに振り向く美沙。

「この周りって、なんか雰囲気違うよね」

「木々が周囲を覆っているのは、この辺りが森林だった名残なの」

「へえ、美沙、よく知ってるね」

「調べただけ。でも、今は寂しそう」

 紅葉を始めた木々が雨を静かにしたたり落とす。それは、激しく叩きつける雨音が外界を支配する中で、旧図書館の周囲に別の空間を作り出していた。

 その情景は外の世界が次々とコンクリートに支配される中、木々と旧図書館が泣いているようでもある。

 そんなことをふと思いながら、梨佳は傍らの友人をのぞき込んだ。

 美沙は大きく目を見開いて、南京錠の掛かった扉を凝視していた。美沙が驚いている。梨佳でも、そのような光景は、数えるほどしか見たことがない。

「どうし……」

「扉」

「え?」

「今、聞こえなかった?」

「何が?」

 美沙が首を傾げ、しばらく押し黙る。神経質そうにこめかみの辺りを指でつついたかと思うと、手で額を押さえて息をもらす。

「扉の開く音」

 再び口を開いた美沙の口調は小さく、弱々しい。

「閉まってる、よね」

 梨佳は扉を押した。開くわけがない。錠が下りているのだから。

 それでも美沙は納得がいかないのか考え込んでいる。梨佳は美沙が以前言ったことを思い出した。「人間が科学で克服したのは一握り。耳を澄まして、見た目に惑わされないで。そうすればこの目隠しされた世界が見えるようになるから」

 美沙の感覚の鋭さは、梨佳の認めるところであった。

「図書館が抗議してるのかしら」

「そうかもしれない」

 梨佳の冗談に、美沙は神妙に頷いた。

 

 

 雨が上がり、二人がその場を立ち去る。雲の切れ間から月が顔を覗かせる。

 ギイ、ギイ、軋むような音を立てる建物の屋根に、一羽の鳥が止まっていた。

 

 

 翌日も美沙は旧図書館で雨宿りをしていた。

 友人の梨佳はいない。予備校だ。

 加えて土曜の放課後は、図書委員会のミーティングに、美沙は参加している。

ただの集まり。時間の無駄。プリントにして配る程の内容もない。                

 だったらそのようなミーティングなど廃止すればいいのだが、校則はそれを義務付けていた。

 そして形式通りの顔合わせが終わると、美沙は帰路に着いた。

 降りはじめた雨。取り出した傘は開かなかった。空を見上げ、一瞬迷って走り出す。

 しかし、学校を出ないうちに強くなってきた雨に、たまらず避難場所を求め視線をめぐらせた。

 その中に、あの図書館が入ってきた。

 駆け込むと、携帯で弟の恭介に傘を持ってきてくれるように頼む。交換条件として晩ゴハンのおかずにクリームコロッケを要求された。

 空を見上げる。憂鬱になる、暗く重苦しい雨雲。

 ため息をついて壁に寄りかかり、ふと扉に目を移した。

 

 錠前がない。

 

 美沙は扉にそっと手を伸ばした。恐る恐る、触れる。

 間を置いて、手に力を込めた。

 ギイ、

 扉の軋む音。

 ゴクリと唾を飲み込む音が、思いの外大きく聞こえた。

 そのまま扉を押した。

 中から差し込んできた光が美沙の視力を一瞬奪った。

 

 優しい日差しが窓際の閲覧席に差し込み、奥には本棚がズラリと列を成している。

 美沙もよく知っている「図書館」の中であった。

 

 突然の出来事に、美沙は唖然としてしまった。

(どこなの、ここ?)

 自問する。が、答えは一つだ。

 見渡す限り、人の気配はない。しかし、

(この温かみのある空間は……あそこしかない)

 不安はなかった。人を拒絶する気配は感じられない。

 館内を歩き出す。最初に受付の席に置いてある本の山が目に入った。その上に、『書籍整理中。本を借りる方は鈴を鳴らして下さい』という、懐かしいカードがある。思わず笑みがこぼれた。

 美沙は、木造建築と図書館内の独特の匂いを感じながら、館内を巡り始めた。

 書庫は、ある程度進むと、二階へ続く階段がある。二階の奥の方は、陽があまり届かず、薄暗くなっている。

 古い書籍はこの二階に収納されている。

 薄暗い空間に何があるのかと、期待を込めながら上ったものだ。

 それは今日も変わらなかった。一歩、また一歩階段を上る。

 ギ、ギ、ギ、

 階段の微かに軋む音。気分を高揚させずにいられない不思議な空間。軋む音は、一歩一歩、二階への期待を抱く自分に緊張を与え続ける。

 美沙は意識せず、手を胸の前に当てていた。久しぶりの感覚に緊張している。

 二階の光量は、本を確認するには足りるが、少し離れた本が見づらい。神秘的な雰囲気さえある。

 奥の本棚は薄暗さへ溶け込むようですらあり、無限に続いている印象を与える。

 美沙は手近にある本を手に取った。

 内容は古代ブリテンの王族と平民の娘の悲恋物語。そのまま一階の閲覧室へ持って行き、読もうと思ったところで、

「忘れてた」

 弟に傘を頼んでいた。読んでいるわけにも行かない。

 本を借りようと思って、受付へ。

 まだ『書籍整理中……』のカードが出ていた。

 鈴を、チリン、チリン、と鳴らす。

「でも、ここって」

 ここは「図書館」だが図書館ではない。

 美沙の心配を余所に、「はいはい、今行きますよ」という、高い男の声が聞こえた。

 間を置いて、受付の後ろにある階段から姿を現した。

「本の貸し出しですか。はいはい」

 書籍整理で付いた翼の汚れをハンカチでぬぐいながら、受付の席に座る。

 美沙は、この「図書館」に入った時以上に、長い間硬直していた。

「では、図書カードのここに名前と学年、クラスと出席番号を」

 非常に大きな茶色い翼で、器用に図書カードの記入欄を指し示す。

 美沙は、まだ動けない。

「ああ、そうだ。学生証の提示を……あの」

 頭と胴体の境が判別しづらいが、首を傾げてみせた。

「聞いていますか?」

 美沙は、まだ呆然としていたが、ただ、こうとだけ呟いた。

「言葉……しゃべってる」

美沙の目に、その胸にあるプレートが入ってきた。

『綾縞学園図書館司書』

 美沙はめまいにも似た感覚を憶えた。

 司書は怪訝そうな顔つきで美沙を見ていた。

 やがて、合点がいったのか手を叩いた。

「あの」

「はい?」

「人間以外の司書は初めて見ますか?」

「え、ええ……」

 美沙は、頷いた後、言葉に詰まった。

 しかし、なんとか言葉に出してみた。

「フクロウの司書は……初めてです」

 二人は……一人と一羽は、そのまま沈黙し、互いをじっと見つめ合った。

 それを破ったのは、司書だった。

「では、学生証を。借りるんですよね?」

「借りれるんですか?」

 司書は、その大きな翼で、人間みたいに頭を掻いた。

「ここは図書館ですよ」

「ええ」

「分かりますよね?」

 美沙はコクコク頷くと、鞄から学生証を取り出した。

 司書はそれを確認すると、美沙に返し、カードの記入をさせた。

「では、返却は十月十日までにお願いします」

美沙は、差し出された本を鞄にしまい込むと、まじまじと司書を見た。

「あ、あの? 何か?」

 司書は見続けられることに居づらさを感じてか、やや不快気に言う。

 美沙は、梨佳が言うところの「人気が上がるだろう」笑みを浮かべ、

「似合っていますよ、その服」

 司書は目を大きく見開くと、自分の服に視線を落とし、

「似合ってますか」

 蝶ネクタイを締め直して、胸を張った(美沙にはそう見えた)。

 グレーのスーツの中から、清潔そうなシャツが覗いている。さすがに、

(マスコットキャラみたい)

 とは心の中に留めた。

「じゃあ借りていきます」

 美沙はお辞儀した。司書もした。照れているのか、その動きはぎこちない。

 美沙は扉の前で、もう一度振り返った。司書がこちらを、じっと見ている。温かい日の光はその姿を包み込み、鳥ゆえの無表情さから来る怖さを打ち消していた。

 美沙は、しばらくその司書を見続けたい衝動に駆られたが、弟が迎えに来ることを考え、もう一度司書に対して、あの笑顔を見せた。

 司書は再度頭を下げ、美沙は扉を開けた。

 

 雨音が激しい。

 後ろを振り返る。

 錠前が掛かっている。

 鞄を開ける。本が入っていた。

 美沙は、扉を凝視した。

「姉ちゃーん」

 声に思考を中断し、振り返った。

 見れば、恭介が走ってくるところだった。

 辿り着いた恭介は、息を切らせながら美沙を見上げた。

「サンキュ。恭介」

 恭介の頭を乱暴に撫で回す。

「痛いよ、姉ちゃん」

 弟の抗議に、美沙は手を離した。

「さて、約束だからな。今日はコロッケ。買い物していくから付いてきなさい」

「クリームコロッケ!」

 恭介は、ぷうっ、と頬を膨らませた。

「分かってるから、付き合え」

「人使い荒いなあ」

「文句言うなら、作ってやんねえぞ」

 母としての優しさと、父としての強さ。美沙は、弟の前では両親の役を務めなければならない。そう思っていた。男のような言葉遣いもそこからきている。

 楽しそうに談笑しながら去っていく二人を、図書館は静かに見ていた。


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