【おかえりなさい】 - 第1話 -
小説〜ストーリー一覧へ戻る      第2話へ進む→

おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第1話

『今日からここが君の家だよ。おかえりなさい』




 ジリリリリリリリ!
「…………っ…………後……5ふん…………」
 二度寝ほど心地良いものもないのだが、けたたましく鳴り響くアラームは思考をどうしても現実に引き戻してくれる。
「…………っと、全然思いだせねえなあ……」
 大きく伸びをして身体に血を巡らせると、寒く乾いた部屋の空気が身に染みる。
「うー…………さびー…………」
 1DK角部屋に白の壁紙。最低限の生活用具しかない部屋はまさに寒々しい。男の独り暮らしなんてそんなものと言えばそんなもの。
「えっと、今日の予定は……」
 枕元の手帳をパラパラめくれば、本日のノルマと営業先が朝から晩まで。
「あー、朝からメンドくせえ。あそこのハゲ部長毎度毎度うるさいんだよなあ」
 面倒臭い仕事なんてすぐにでも辞めたいものだが、それでは部屋も追い出され生活もできず。
 健康的な生活と最低限度の生活水準、文化的な生活を営む権利というのは憲法の記載ではなかったか。
 とかく世は世知辛いもので、朝から深夜まで将来の不安を抱えながら必死で働いてボロ雑巾。
 それとも、最低限の生活も営めないような低賃金のスパイラルへ御入会。
 憲法上の表記とは別に、現実は容赦なく穴ばかりのセーフティーネット。大多数の人を絶望の淵に追いやり続ける。
「あー、カップ麺切らしてんじゃん」
 空腹を訴えても、棚は空っぽ。ヤカンのお湯がピポーと蒸気を吹きあげたのに、入れる先が無いという不運な朝。コンビニに寄らなかった昨夜の不手際をボヤきながら、スーツに袖を通す。
「スーパーの開いてる時間に帰りてえなあ」
 ボヤけど仕事は減らない。仕事は不景気ほど余計に忙しい。仕事総量が8割になると、人員は5割になる不思議な算数の世界。
 仕事の目的も展望もなく、ただその日の部屋と食事のために、『国民にはキンローとノーゼイの義務がある』とやらをこなすのが、現在の日本人というやつだ。
「行ってきまーす」
 誰もいない部屋にギー、バタンという音。カツカツと響く靴音は遠くなっていった。


「うん。だからね、このご時世だしさ、ね、お互い様でしょ? うん。うん。よく分かるよ。分かるけど、ウチも無い袖は振れないからさあ」
 日中ともなれば、日当たりの良さだけで人気を博す公園ベンチは格好の食事場で、そこかしこのスーツ姿がパンの袋を開けている。
「あのクソハゲが! な〜にが、よく分かるよ。だ。テメーの言い値が通ったら、原価割れじゃねえかよ!」
 八つ当たり気味に袋を破いたせいで、プリントされた耳長の可愛いウサギが真っ二つの惨劇。中からのぞくは、甘い生クリームが詰まったロールケーキ。
「は〜……」
 ため息交じりに思わず、疲れがぐ〜っと抜けるような甘さが脳内に入り込む。スイーツ男子が流行る理由は、ストレス社会のせいだと、しみじみ思わざるを得ない。
 ピリリリリリ
 今度は本物のため息をついて、胸ポケから携帯を取り出す。サラリーマンには昼休みというものも無いらしい。
「北村です。お疲れ様です。あ、いえ、昼ならもうとりましたので、ええ、はい」
 言って、ぐしゃりと潰した袋を近くの屑カゴに投げ入れる。そのつもりが、風で舞い上がってカゴの向こう側へと着陸した。
「はい、その件は本当に申し訳ありません」
 電話口から聞こえる怒鳴り声。こちらも着陸先はよろしくなさげ。
「はい。先方には朝方出向いたのですが、はい。ええ」
 立ちあがって拾おうとした先ほどの袋は、手の触れるかという位置でまたも空高く舞い上がってしまった。
 つかみ損ねた手が空を握る。
「定時前には帰社しますので、ええ、その時に見積もりを提出します。はい、はい」
 頭を下げる事は本日何度目か。携帯を切ると、思わず地面へと長い息が漏れ出た。


 夕方に会社へ戻ると、まるで弾丸の嵐のようなお出迎えが待ってくれていた。
「北村君! これじゃ利益無いんだよ。分かる? り・え・きが出ないの! 北村君は算数は出来たんだっけ? ええ? 原価割れって国語辞典引いてみな? 大学出ってのは辞書は引けるんだっけか? ああ、短大出だっけ? 相手が何と言おうと、会社のために利益を持ってくるのが営業の義務だろ? 君は何のために会社に雇ってもらっているの? んん? 子供だってモットマシなおつかいが出来ると思わない? なあ?」
 どこで息継ぎをしているのかと思わせるほどの言葉の嵐が、眼前の黒ぶち眼鏡から発せられる。
「ボクらがね、バブルの頃って言うのはねえ、それはもう毎晩遅くまで営業努力を重ねたもんさ。だからあの頃は景気も良かったし、ボク達も鍛えられたもんだ。まったく今の若い営業っていうのは、甘えしか知らない。ホント何でまともな契約もとれないのかねえ?」
 黒ぶち眼鏡は、今は去りし20年前に言葉の製造方法を鍛えられたためか、とにかく量産がうまい。まさに薄利多売というやつなのか、薄い言葉でも投げられ続ければ殺意すら抱きたくなるという代物だ。
「いつも迷惑ばかりおかけして、申し訳ありません」
 こうした言葉を大量生産された場合、基本的な日本人の行動は謝罪の一言に尽きる。誰しも自分の帰る家は失いたくないものだ。
 こうして今日も今日とて、定時以降に見積もりを上げ、その他様々な事務をこなすこととなる。疲れた身を引きずって愛すべき寒々しいマイルームへ戻るのは深夜となるわけだ。


「あ〜、そっか。今日はカップ麺買わないとなあ」
 腕時計を見れば深夜0時。スーパーが開いてさえいれば、部屋のガスコンロもより活躍出来ように。使われるはヤカンの火ばかり。
 コンビニの24時間営業体制のせいで、深夜残業が標準化されてしまうのか。それとも、深夜残業が標準化されたせいで、コンビニは24時間営業化してしまったのか。
 つまりは、ヨーロッパなら暴動すら起きかねない労働条件で、この国はかろうじて先進国と呼ばれるようだ。
「いらっしゃいませー」
 こんな時間のコンビニは基本的にワンオペ。1人勤務の店というのは、強盗の危険性を高めるそうだ。犯罪心理学者が牛丼店で強盗が多い理由として言っていた。この国は色んな意味で犯罪大国だと思ってしまう。
 もし自分が強盗なら、簡単に出来てしまいそうだと思えてしまう。
「オレは善良な一般市民だからなあ」
 そんな事をつぶやきながら、カップ麺を買い物カゴにドサドサ入れていく。毎朝毎晩、カップ麺とは実に便利なものだ。


「ただいまー」
 誰もいない部屋に思わずしてしまう挨拶。部屋ですることと言えば、お湯を沸かしてカップ麺を食べる事くらい。
 食べてシャワーを浴びれば時計の針は深夜1時過ぎ。
 こういう生活で人間の身体は何歳まで持つのだろうか。高齢化社会と言われるが、50年後には平均寿命が下がって、老人が減って社会保障費減ってバンザイと政治家が言う世の中になっているのじゃないだろうか。
 そんな事を思いながら、ノートPCをカタカタ弄る。文化的な事に無線LANでネットもできる仕様だ。
 メーラーには、仕事に関する業務情報がぎっちり。結局寝ている時間以外は24時間勤務と変わりない。ノートPCがネットと繋がっているおかげで、常に仕事から解放されないというわけだ。
 いつものように事務的に、流し読みしてはゴミ箱にポイポイ放り込んでいく。10通も読むうちに、ウトウトしてくるもので、大体普段はそうして眠りにつくのが常だ。
「お、先生からだ」
 北村が開いたメールの件名は『お元気ですか?』。送り主は坂本先生。
「ふ〜ん、そっか。よかったよかった……」
 北村はつぶやきながら、そのまま寝オチ。エアコン消さないと電気代が……というつぶやきを漏らすが、すぐに睡魔が勝利を収めてしまった。


 忙しい年末を終えると、街は一気に静まり返る。年末年始というのは、皆がこぞって実家と呼ばれる場所へ帰るらしい。
 そんな中で北村の年末と言えば、ノートPCでお笑い番組を見ながら、カップ蕎麦をすするものだ。
 日付が変わり新年になると、一斉にどの番組でも『明けましておめでとうございます!』という毎年恒例の言葉が躍り出る。
 年が変わったからといって、何も変わるわけではないのに、人間は奇妙な生き物らしい。これだけでお祭り騒ぎだ。
「ん?」
 ノートPCの隅っこに、新着メールの通知。メーラーを開けてみれば、そこにも『明けましておめでとう』の文字が。
「…………新年帰ってきてはどうですか……か」
 そこに書かれていた文面は、自分を気遣う言葉とたまには会いに来ないかというものだった。
「ふ〜む、どうすっかねえ」
 若者の新年といえば色々予定もあるというものだ。初詣に……うん、初詣。他にする予定も思い浮かばないのは何とも悲しいものだ。
「久々に帰ってみるかねえ、我が家にでも」
 充電中だった携帯を開いてみると、随分前の時間帯に何件かの着信履歴と留守電。何度も出ないのでメールを送ってきていたのだろうか。
 既に深夜になっていたので、メールに帰省する旨を書いて返信をしておいた。

【第2話へ続く】


【おかえりなさい】 - 第1話 -
小説〜ストーリー一覧へ戻る      第2話へ進む→

TOPへ戻る