【おかえりなさい】 - 第7話 -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第7話


「なんだなんだ、兄さん。だらしがないなあ」
「しょうがねえだろ」
 秋も深まる10月半ば、短髪の北村には少し寒気の方が強く感じられるその時期、彼の部屋を見た黒崎の第一声がそれである。
 その年の7月に6年半ぶりの再会を果たした2人が、繰り返し会う内に、生活圏が重なっている事もあって、片方の部屋を訪問する方向へ話が動いた。
 もちろん何のきっかけも無しに、大人の異性同士がもう片方の部屋を訪れたわけではない。この日は、特別な意味を持っていたのが契機である。
「布団は敷きっ放し、テーブルには空き缶だらけ。冷蔵庫は空っぽって……社会人としてなってないよ」
「帰るのが遅くて、掃除とかしてられないんだよ。飯だってコンビニのカップ麺位しか普段口に出来ねえし」
 初めて彼の部屋を訪れた黒崎は、部屋のどの要素をとっても、北村の生活感をあきれるように指摘し続ける。
 北村としては憮然とした態度を取ってしまうが、社会人として好ましい私生活ではないだけに、反発は説得性を欠いている。
「園にいた頃は不良少女を説得する側だったのに、園を出ると立場が逆転するものねえ」
 ゆるくウェーブのかかった長い黒髪。その持ち主は少しキツイ目つきだが、整った顔立ちに、透き通るような白皙で美人の部類と言える。その目に皮肉の色をこめて、言葉にはしかし親しみある微笑もこめている。
「何度注意しても煙草を止めない不良中学生が、こんな優等生社会人になってるなんて思わなかったよ」
 北村は頭をかきながら、皮肉をもって返したつもりだが、こちらはどうも現状への説得性を持っていない。
「せめて女の子を部屋に上げる日くらいは、片付けておいた方が良いと思うよ。だから彼女とか出来ないんだよ、兄さんは」
 北村に交際相手がいない事は事実であり、いくら訪れる女性が、児童養護施設時代の不可思議な関係の妹分であるとはいえ、黒崎の言い分は真っ当である。
 言い返す言葉を探そうとする北村に、その時間は許されなかった。
「まあ、悪い社会人を更生させるのも、大人の務めかな」
「悪い社会人とはなんだ、悪いとは……オレのどこが」
「この私生活は社会人としては失格だね」
 おひさま園にいた時代とは、まるで立場が逆転したかのようである。かつて説教される側が、月日の経過により説教する側になるという構図が、都会の1DK角部屋において展開されている。
「まあ、この方が、ありがたみが増すでしょ」
 黒崎は弾むような声と、それにふさわしい笑みをもって部屋の片隅にいくつかの袋を置いた。その脇に北村がやはりいくつかのビニール袋を置く。
「誕生日にこんな美人が部屋に来てくれるなんて、そうそう無い事なんだから、兄さんは感謝すべきだよ」
 置いた袋からエプロンを取り出し、身に着ける黒崎。10月16日は北村俊一にとって27回目の誕生日であった。
「自分から言うと、ありがたみが薄れるぞ」
 北村はなおも反発を試みたが、心底では黒崎の言う事が的を射ており、力ない言葉が出るだけである。彼はテーブルの上の空き缶を透明なゴミ袋においやりつつ、台所に立つ黒崎に目をやった。
「うわ、これは本格的に使われていないね」
 黒崎は驚きを言葉に乗せ、フライパンなどの調理用機材を洗い始める。
 北村の部屋において使用される調理用機材とはヤカン程度のものだ。棚にはコンビニで買い置きしているカップ麺が多数並んでいる。冷蔵庫に一切の食材が無いことが、彼の私生活を物語っている。
「インスタント食品ばかりじゃ、身体壊しちゃうよ」
「オレだってスーパーの開いてる時間に仕事が終われば、料理ぐらいするさ。会社に文句を言ってくれ」
 北村は不況下で仕事が8割に減る中で、社員が5割とされる不可思議な算数の世界で生きている。会社の仕事が減ると、1人辺りの仕事量は増えるという不思議な方程式を日本国は採用しており、彼はその犠牲者である、と彼自身は述べているつもりである。
「言い訳は聞きたくありませーん」
 振り返った黒崎は、夏の遊園地に遅刻した北村に対した時と同じ台詞をもって返してきた。薄いベージュ色のエプロン、その胸には猫のアップリケがされている。
「ま、兄さんはテレビでも観て、ゆっくり待っててよ」
 黒崎の笑顔は、男心をぐっと引き寄せる魅力に満ち満ちている。「おひさま園」という施設の大きな家族として育ち巣立った彼らだが、北村としても、さすがにこういう時は異性である黒崎を認識せざるを得ない。
「ん?」
 北村の視線は、ほんのわずかばかりの時間であるが、黒崎に釘付けになっていたかもしれない。黒崎はそのような彼の様子を見逃してはくれなかった。
「あれ? 兄さん。どこ見てるの? もしかして私の胸とか? あーもー、兄さんも男だなあ」
「ば、バカ言え!」
 からかうような黒崎に、慌てて否定する北村だが、慌てる様が黒崎の言葉を否定出来ていないのが事実である。
「まあ、男の人は大きい胸が好きらしいからね、仕方ないか。うんうん、これも私の運命だね」
 黒崎が胸の左右で大きく膨らんでいるそれを、手で押し上げながら、何度もうなづいてみせる。
「兄さん。触りたいの? チャンスかもしれないよー。女の人がわざわざ独身男性の部屋にいるんだよ?」
 黒崎の表情は心底笑っているそれである。
「ば、バカいうな。お、お前はオレの妹だし」
 黒崎から視線を逸らして、映像を流し始めたノートPCのバラエティ番組を見遣る北村。からかわれていることへの不満と、男性としての欲求の複雑なコンプレックスが、その表情には明らかに表れている。
「血は全く繋がっていない兄妹だけどね?」
 北村の表情と態度を試すのが楽しいのか、黒崎はさらに畳み掛けてくる。北村は、うまい切り返しが思いつかず、首筋や頭を神経質そうにかいている。
「ふふ、兄さん。変なの」
 そう言われて北村に有効な言葉があるわけでもない。
黒崎は満足そうに首を縦に振ると、台所に並べた食材に手を伸ばした。
 それから1時間程の間に、北村の所有する調理用器具は本来の役割を珍しく果たすこととなった。
「あっ…………」
 その過程で、一度だけ黒崎が声を上げた。北村がどうしたと聞くと、黒崎は左手の人差し指を口に加えている。
「指、切っちゃった」
 まな板の上には包丁と切断過程にある野菜とが置いてある。黒崎は少し涙目だ。
「兄さん、ありがと。ごめんね」
 北村が絆創膏を出して出血箇所に当てると、黒崎は悪戯のバレた子供のように舌を出して見せた。以前、彼女がカフェでコーヒーカップに手を伸ばした際に、その行き先を誤って、こぼした時の表情に似ていた。
 そうしたアクシデントがあったものの、黒崎は北村の私生活面を説教するだけあって、その手際はよく、次々とテーブルの上に、メニューが並び始めた。
 普段なら即席麺の他にビールが1缶という、非常に簡素、悪く言えば貧相な品揃えになるのだが、この日の食卓には白いご飯、野菜の添えられた牛肉のソテー、種々の野菜の炒め物とポタージュが揃えられていた。
「兄さん、27回目の誕生日、おめでとー!」
 軽快なクラッカーの音に続いて、黒崎から祝福の言葉をかけられる北村。続けて2人は350ミリリットルの缶ビールをつき合わせて一口含む。互いに息を吐き出すと、自然と笑顔になる。
 平素、家庭的な料理に無縁の北村は、彩りと匂いのコントラストが食欲をそそる眼前のメニューに次々と箸を伸ばしていく。
「美味しそうに食べてもらえると嬉しいね」
 その様子を黒崎は満足そうに見遣りながら、自身もそれぞれの料理を口に運んだ。
 誕生日の祝い方など人それぞれなのかもしれないが、そこに相手を思いやる気持ちがあれば、祝福される側としてはその形態を気にすることもないだろう。
 彼らの誕生日会はささやかな家庭料理に過ぎなかったが、まさにそれに飢えている北村にとっては、それこそ祝福形態にこだわる必要性を持っていなかっただろう。
「……っと、ゴメン、兄さん」
 食事が始まって間もなく、黒崎の右手側に置いてあった缶ビールが、その中身のほとんど残るままに、横倒しにされた。黒崎の右手が、缶をつかみ損ね、横から押し倒したのである。
「あ、気にすんな」
 北村は立ち上がり、壁掛けされていたタオルを彼女に差し出した。
「ありがとう」
 タオルを受け取った黒崎は決まりの悪い笑みを浮かべて、こぼした液体をふき取り始める。北村はなんとなくその様子に違和感を覚えた。
 小一時間ほどで、食卓に並んだ料理は空となる。
「ごちそうさま。美味しかった」
「ううん。食べてくれてありがとう」
 北村は作り手に笑顔と感謝の言葉をかけ、黒崎は微笑み返した。
 兄さんの誕生日なんだから、全部私がやるよと言い、黒崎が食卓の上を片付けていく。台所では普段ほとんど使われたことのない食器達が役割を終え、スポンジで洗われていく。
 黒崎に促されるままに、ノートPCでニュース番組を見ていた北村だが、彼はニュースで流される情報とは別の事を考えていた。
 7月に再会した黒崎美月。10年前に素行の点で手に追いようの無かった彼女。そして、今日、自分の部屋で食器を片付けている女性。
 違和感という点で言えば、人をまったく寄せ付けようとしなかった少女が、大人になれば人懐っこい魅力ある女性になっている。それはまさにそうだが、むしろ時間の経過による成長とも言えるものだ。
 北村はそれ以上の違和感を黒崎に覚えざるを得なかった。再会した黒崎は「考えていることがあるんだ、絶対に話すから」と彼に伝えている、その何かがある。
 しかし北村が現状感じているのは、それ以外のものだ。
 10年前の少女時代。夏に会った黒崎。今日の彼女。
 ……何か胸騒ぎを覚える。
 北村はぼんやりと、しかし記憶の糸を手繰り寄せ、それらの整合を試みた。
「兄さん。片付け終わったよ」
「あ、ああ。ありがとう」
「どうしたの、さっきからぼーっとして?」
 テーブルの向こうから、黒崎が怪訝そうな視線を送ってくる。
「ん、ああいや。少し考え事をしてただけ」
 北村の回答ははぐらかすようなものだったが、特に黒崎はそれ以上の追求をしてこなかった。
 その後2人は、適当に飲み物を空けながら歓談を続けた。北村は主にビールを。お酒に強くないと言った黒崎は、ジュースを口にしている。
「ん? 携帯鳴ってるぞ」
 そうしてさらに小一時間ほど語り合っていた2人だが、その時、黒崎の携帯が振動音を発していた。テーブル上、黒崎の右手側に置いてあるデコレーションされたそれが、震えながら音を立てている。
「メールかな?」
 言って黒崎は自身の携帯に手を伸ばし、携帯のかすかに手前で右手を握った。握った手の中に何も無いとなると、黒崎はその手をスライドさせて携帯を手に取った。
「なあ、黒崎」
「何、兄さん?」
 黒崎は着信内容を確認すると、携帯を置いて北村に向き直った。北村はおもむろに立ち上がり、黒崎の右隣から彼女をのぞきこむようにして、少し間を置いて問いかけた。
「これ、何本だ?」
「……2本だよ」
 北村が黒崎の視界でいうところの右方向にピースサインを作って見せた。黒崎は一呼吸程度の時間を置いて、その数を言い当てた。
「黒崎。正直に言ってくれないか?」
「何を?」
 困惑した様子で首を傾げる黒崎。北村は続けた。
「ずっとお前に違和感持ってたんだ」
 黒崎は黙ったまま彼の言葉を聞いている。
「さっき、10年前を思い出していた」
「私がいっつも煙草吸っては、兄さんに怒られてたね」
 黒崎は笑って答えたが、北村の表情が過去を振り返って笑うそれではない事に気付き、すぐ笑い声を収めた。
「オレが孝太と殴りあった翌日、お前……さっきのオレと同じ事をしたよな?」
 10年前、北村が広瀬孝太と殴り合いのケンカをした時の事だ。彼はその日、目の下にあざを作って黒崎の前に現れた。いつもは北村が現れると「またタバコ、注意に来たの? 放っておいて」と反発する黒崎が、異なった態度を示したのを彼は覚えている。
 先ほど北村がしたのと同じように、ピースサインを作って「見えてるか?」と尋ねてきたり、「目は大事だから気をつけた方がいいんじゃない」などと珍しく声をかけてきた。当時の不良少女だった黒崎にしては、あまりにも珍しい問いかけだっただけに、印象に残る出来事だ。
「夏にランチ行った時も、右手側のカップを取り損ねて、こぼして、店員に謝っていたよな」
「…………」
 畳み掛けるように10年前、そして最近の出来事を振り返る北村。黒崎は黙って彼を見つめている。
「料理に手馴れているお前が、包丁で指を切ったり……いや、それはまだ大した事じゃないか。ありうる事故だ」
「…………」
「でも、さっきはやっぱり右手側の缶を倒して、今……携帯をつかみ損ねたよな? それも右手側に置いてあった」
「…………」
 黒崎は変わらず黙ってそれを聞いている。北村はその先の言葉を続けようとして、一呼吸置いた。出して良い言葉か逡巡したのだ。その言葉を出すためにかすかに置かれた沈黙は、互いの胸の鼓動さえ聞こえてきそうだ。
「お前、目が……見えなくなってるんじゃないのか?」
 北村は、一瞬躊躇したその言葉を吐き出した。それまで黙っている間は、特に表情を変えていなかった黒崎だが、笑みを浮かべた。ただそれは、単なる笑みというよりは、少し複雑な感情をこめられているようだった。
「うん」
 一言、肯定の言葉を口にした。うなづいた当人は諦観のこめられた笑みを浮かべていた。予期通りの答えを聞いた北村は、思わず彼女から目を逸らしてしまった。
「なんで……」
 目を逸らしたまま、黒崎に聞くというよりもまるで自問するかのように、北村は静かに声を投げかけた。
 黒崎は立ち上がって、後ろ手を組み、北村に背を向けた。また沈黙がおりる。ノートPCから流れるニュース番組のキャスターの声がより大きく聞こえた。
「私さ……子供の頃の思い出……両親に毎日殴られていた事しかないんだ」
 北村は黒崎の背を見ながら、首を縦に振った。彼はその事を知っている。黒崎は両親の激しい暴力と冷遇する親戚達との間をたらいまわしにされ、「おひさま園」に入った過去を持っている。
「顔なんてさ、腫れ上がって酷かったんだよ」
 怒りや悲しみを込めるでもなく、淡々と過去を黒崎は語っている。
「おひさま園に入った頃からかな……右目が少しずつ悪くなり始めたのは」
 そこまで言うと、黒崎はまた黙り始めた。代わりに、タバコを取り出し、火をつける。一条の煙が北村の部屋に立ち上がった。その煙を、前方の壁に吹き付けるように吐き出すと、黒崎は言葉を続けた。
「何度も目を殴られたからみたい。園を出た後からは一気に見えなくなり始めてさ」
 もう一度煙を壁に吹き付ける。黒崎は北村の方を振り返った。携帯灰皿にタバコを押し付けて火を消す。対面した北村は苦虫を噛み潰したような表情だ。
「右目、視野狭窄になっちゃってるんだ。多分……もうすぐ完全に見えなくなる、って医者で言われちゃった」
 振り返った黒崎の表情は微笑すら浮かんでいる。声も暗さはまったく無い。逆に北村は拳を握り締め、唇を強く噛み締めている。
「大丈夫だよ。左目は見えてるから。兄さんが怒ることなんて何も無いんだよ」
 黒崎の口調は母親が子供に語りかけるような優しささへ含まれている。北村は頭の中で様々な言葉を考え出し、喉まで出しかけた言葉もあるが、いずれも発露することは出来なかった。かえって、胸の中を焼くような思いがこみ上げていた。
「えっ…………」
 部屋の中に黒崎の驚きの声が小さく上がる。彼女の手から離れた携帯灰皿が床へと落ちる。
北村は、気がつけば黒崎を強く抱きしめていた。
 抱擁を受けた側は、驚きの声を上げたけれども、自然と北村の背中に自分の手を回した。
 黒崎に回された手は、強い力で彼女を抱き寄せていたが、彼女はそのような行為に及んだ青年の背中を、優しくさするようにした。
「もう昔の話だよ、兄さん」
 北村の耳には、静かに穏やかな声が入ってきた。
「兄さん。今は、もっと先が見えるから。大丈夫だよ」

【第8話へ続く】


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