おかえりなさい
陽ノ下光一
第8話
「オレは結局どうしたいんだ?」
10月末の昼時。北村が営業回りの休憩場所兼昼食場として利用している都心の公園。彼はベンチに腰掛け、パンの袋を破りながら独りごちた。
先週、自らの誕生日に知る事となった、黒崎の右目失明の事実。その原因が、彼女が北村と10年前に出会う事になった「おひさま園」入所のきっかけである、両親からの再三の虐待であること。
それにも関わらず、現在の黒崎は誰も恨んでいない。間もなく片方の視力が永遠に失われるという事実を受け入れ、不平不満の一言も表わさない。
「先生の言ってた通りだ」
北村はお盆に際して、「おひさま園」の手伝いに行った時、児童指導員である坂本神父が、黒崎の心中まで正確に見ていた事を改めて感じさせられた。彼は北村にこう言ったのだ。
『彼女は本当は親も親戚も憎んでなんていなかった』
全くその通りだ、と北村は思った。10年前あれほど人を寄せ付けようとせず、非行に走っていた少女は、実は誰も恨んでいなかったのだ。それが自らの視力を失わせるような凄惨な虐待の経験を持っていたとしても。
北村は坂本が黒崎について語っていたもう1つの言葉を反芻していた。
『彼女は本当に心の底から家族を欲しがっていたんだ』
公園のベンチでパンを食べながら、その言葉を何度も思い返し、黒崎の姿を思い浮かべる。
10年ぶりに再会した黒崎美月。ゆるくウェーブのかかった長い黒髪にキツさを感じる目つき、白皙の彼女。
少女時代とは異なり、人懐っこい笑みを浮かべ、喜怒哀楽と表情を多様に変えては、最後に見入るような笑みを浮かべるまでに成長した彼女。
「家族だから当たり前だ……って、オレのセリフだよな」
自嘲気味に口の端を歪めざるを得ない。かつて園にいた頃、彼は誰にでもそう言って接してきた。幼くして両親を亡くした彼にとっては、園の中の人たちが大きな家族だったからだ。
その彼自身、黒崎美月という女性の事を何も分かっていなかったのだ。
「黒崎は、何を考えてるんだ?」
黒崎は「考えている事がある」、そう北村に告げている。必ず話すと言っているが、それは失明しかけている事実ではない。別の何かを彼女は語っていない。事の本質はそこだろうと彼は考える。
「黒崎に比べたら、オレは本当にダメだ」
思わず息を吐き出す。少し寒くなりつつある外気にあっては、そろそろその息は白くなる気配だ。
パンの残りを飲み込むように口にし、ジュースで一気に流し込む。また、ふう、と息が出る。
手帳を開き、午後の営業先を確認する。そうして営業回りを終えれば、深夜まで事務作業。翌日も翌々日も、彼のやる事は基本的に変わらない。会社のために仕事を客先から取ってくるだけだ。
「食うため、食うため……か」
生活をするためにはお金を稼がなくてはいけない。営業職は彼が望んでなった職業ではないが、現在の日本において自分でしたい事を本当に出来ている人はどれだけいるのだろうか。
「オレは自分のしたい人生を送るんだ」
これは小学生、せいぜい高校生くらいまでが主張を許されるレベルの話である。今の日本の実情では、多くの人間は自らの人生を主体的に選ぶ事など出来なくなっているのだ。
「好きな事でお金を稼ぎたいんだ」
これこそ夢想である。こういう主張をする小学生には大人たちはこのように言ってくれる。
「そうね。好きな仕事が出来ると良いね」
しかし、そう主張する大学生には、大人たちはこう言うのである。
「現実を見て。仕事はより好み出来ないんだよ」
大人は自らの投影として、子供には夢を語る事を許すが、実際にはそのような夢など、この社会にはほぼ存在しないのが現実なのだ。
現実は数十社という多数の会社にエントリーし、面接をし、ようやく採用が決まったところに就職するのである。自分の特性が活かせる職場など、98%の人間は選ぶ事が出来ない。
惰性のように早朝から深夜まで働き、それでなんとか生活水準を維持できるのが、今の日本の多くの若者である。半世紀前の若者のように、働くほど報われ、歳をとる毎に給与所得が増える……などというのは、二度と戻ってこない過去の栄光である。
給料は増えない。将来の展望も見えない。でも、同時にこう思うのだ。非正規雇用でないだけマシだ。厚生年金にも加入でき、健康保険証も交付される。そうして、少しでも自分を騙し慰めるのだ。これが多くの若者の実像である。
「オレは結局どうしたいんだ?」
彼はまた最初の独りごとを繰り返した。
園にいた頃の彼は、まさにリーダー格という存在だった。様々な境遇を抱え入所した子供たちに、「俺たちは家族だ」と言って、全員を束ねようとしていたし、事実そうだった。
ところが、社会に放り出されてみれば、その日の生活のために毎日疑問を浮かべながら、深夜までボロボロになって働く自分がいる。
「黒崎は……強い。強いな」
虐待の経験を乗り越え、今また失明の恐怖に晒され、それでも社会人として懸命に働き、笑顔を絶やさない黒崎。彼女の芯は自分などより遥かに硬い。北村はそう思わざるを得なかった。
「オレもしたい事があったんじゃないのか?」
北村は黒崎と会う前から、自分の在り方に常々疑問を持っていた。早朝から深夜まで使い捨ての駒のように営業回りをする事に、当然疲れ果ててもいた。
それ以上に、自分が大人になった時にこうなりたい、そういう何かがあったはずじゃないかと、彼は思っていた。その思いは、ぼんやりとして輪郭が明らかになっていない。でも、それはあったはずだと彼はよく自問自答している。
「オレは……オレは……」
北村は間もなく冬の迫る透き通った青空を見上げた。木枯らしに木の葉が舞っている。
「多分、オレには足りていないんだ。黒崎にある強さが、オレには今、足りていない」
北村は黒崎が自分にあと何を秘密にしているのか、この時点で分かっていない。しかし、北村・黒崎両名は社会人であり、余程の決意を必要とする何かを考え実行するには、現在の生活を捨て去る覚悟も持たなければいけない。
黒崎が何を考えているか分からない。しかし彼女は、現在の社会的立場と生活とをあっさり捨てて、別の次元に行くだけの勇気を持っているのではないか。北村にはそう思える。
「オレは……辞められるか?」
北村はこの6年余り、何度仕事を辞めようと思ったか、それは数えきれないほどだ。しかし、今の生活を捨てられるか、別に仕事があるのか、何をしたいのか。彼の中では決心がつかない。そもそも、何を展望とすべきか、彼は霧の中を進んでいるような感触であった。
「黒崎は何か展望でも持ってるのかな」
黒崎が考えている何かが、もしかして自分の抱えている霧の先にある何かと同じなのではないか。北村は密かにそれすらも期待していたのかもしれない。しかし、彼はそれと同時に、10年前の黒崎の言葉を思い出していた。
『私はここに居場所なんて感じてないけど、アンタはあるんでしょ? 私に何か求めてくるなんてピントがズレてんじゃないの?』
広瀬孝太と園内で殴り合いのケンカをした後、何故か黒崎にタバコをあげてしまった時の、彼女のセリフだ。
「ダメだダメだ。自分で考えねえと」
北村はふと思った。10年前も今現在も、黒崎美月という存在に自分は寄りかかりたかっただけなのではないかと。
自分の在り方は自分で決めるものだ。黒崎はそれを実行している。であれば、北村も自分自身の事は自分で決めなくてはいけないのだ。
自分が日常に流され、目標も何もかも失っているならば、目標を取り戻し、舵を切り直すのは他人には出来ない。これは自分の事なのだ。
気を取り直した彼は、ベンチから立ち上がり秋の乾き始めた空気をぐっと吸い込み、背を伸ばす。気持ちが少し入れ替わった気になる。
「ん?」
その時、携帯が振動音を立てている事に気が付いた。
北村は切り替えた気持ちをまた沈ませそうになる。おそらく、上司からの定期便に違いない。
彼が携帯を開くと、それは電話ではなく1通のメールであった。
『FROM 黒崎美月
SUBJECT 兄さん、元気?
TO 兄さん、仕事おつかれさまー。週末遊びに行こう』
内容が予想の真逆であると、安堵と同時に喜びがこみあげるものである。彼は、やれやれとつぶやきながら返信した。
「オレは黒崎のヤツに背中を押されっぱなしだな」
そう言いながら、彼の言葉は弾みを帯びていた。
【第9話へ続く】
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