おかえりなさい
陽ノ下光一
第12話
「…………」
「…………」
2月も中頃を過ぎたその日、北村俊一と黒崎美月は座卓を挟んで向かい合っていた。黒崎の部屋の中には、期待と不安が入り混じった空気が流れている。
「どきどきするね」
黒崎の言葉に、うなづく北村。彼らが向かい合っている座卓の上には1通の封筒が置かれていた。
黒崎はペーパーナイフを持って、封を切ろうとするが、何度目かの逡巡を繰り返していた。
「うーん、やっぱり緊張する」
OLとして働きながら、児童指導員となるべく大学への進学を志した黒崎。年初のセンター試験、そして続く二次試験。それらを通過して、彼らの目の前には1通の封筒が届いたというところだ。
「俊一、お願い」
そう言って黒崎がナイフの握られていない左手を差し出してくる。北村は両手でそれを握り締めた。
「俊一の手、温かいな」
それまでの緊張した面持ちから、白皙の顔に安堵の笑みが浮かび上がる。
「よし、開けてみる!」
黒崎は北村に握り締めてもらっていた手を離すと、封筒を手にし、ナイフで封を切った。中には1枚の紙が入っている。単なる紙ではない。彼ら両名の夢への階段に差し掛かるための、大事な1枚なのだ。
黒崎はその紙を取り出して、三つ折に畳まれたそれを目をつぶって開いた。
「俊一、何て書いてある?」
黒崎は目をつぶったまま、印字された面を北村の眼前に突きつけた。北村の目には一番下の段に書いてある文字がはっきりと映っていた。
未だ目を硬く閉じたままの黒崎。北村は黒崎の左手に自分の右手を伸ばして、握り締めた。黒崎の身体が一瞬こわばるように動いた。
「俊一?」
不安の入り混じった声を発した黒崎に、北村は静かに応じた。
「合格」
その言葉が発せられた後も、まだ目を閉じたままの黒崎。北村は次には興奮気味に彼女に言った。
「美月、合格だよ。合格、おめでとう」
その言葉に、目を開ける黒崎。印字面を今度は自分に向けて、何度もその記載内容に目を通す。
「俊一、私……夢を見てるのかな?」
黒崎の視線は少しさまよう感じで、声は抑揚に欠けていた。北村は座卓の向こうから身を乗り出して、黒崎を抱きしめた。
「夢なわけあるか。はっきり書いてあるだろ。合格って」
北村が抱擁を解くと、黒崎は数回瞬いて、再度合格通知を見遣った。彼女の志望した4年制大学、その教育学部へ合格した旨が記載されている。
「私……合格……しちゃったんだ」
高卒で社会に出て6年目。自分が両親に捨てられて10年。児童養護施設で不良少女時代を過ごした5年間、施設の大きな家族の母親を夢見て3年間。彼女の中に様々な思いが去来したのか、合格通知を手にした彼女は、まだその現実を夢物語のように感じているようだ。
「これで、第一歩じゃないか」
北村の弾むような声に、黒崎の瞳が遠くを見つめるものから、近くに焦点を取り戻す。表情は口の端に微笑からやがて大きな笑顔がこぼれて、瞳からは知らない間に涙が零れ落ち始めた。
「ホント、ホントにホントなんだ!」
黒崎はこみ上げる思いに耐えかねているのか、首を何度も横に振った。長い緑の黒髪が、喜びを伝えるかのように激しく振れる。
「俊一、ありがとう」
目じりから零れる涙を何度も手でぬぐっては、北村への感謝の念を伝える黒崎。
「違う。美月はオレと再会する前から、ずっと独りで努力してきたじゃないか」
北村は再度、座卓から身を乗り出して、黒崎を抱きしめた。黒崎も北村の背に手を回してくる。
「ううん、俊一が……あの兄さんだった時に、私の居場所を作ってくれたから……」
両親の虐待、虐待による右目の失明、親戚からは見捨てられ、「おひさま園」に入所し、社会へ巣立っていった黒崎美月。警察に補導される事は数知れなかったかつての不良少女は、自らの夢へ歩み続けることを止めなかった。
その彼女を受け入れた「おひさま園」、そして彼女を「施設の中の大きな家族」として真っ直ぐな心で受け止め続けようとした、北村俊一。
「違う。お前が……お前だったから出来たんだ」
2人は社会に出てそれぞれの道を歩んでいた。
北村俊一はその日の生活のためだけに、展望も無い仕事に流される日々、そこに疑問を感じながら、98パーセントの社会人と同様に、自分の行く末について、完全に思考停止をしていた。
黒崎美月は日々に流されること無く、いつか自分が児童指導員として、家族を失った子供たちに「家族」を作る事を夢見続け、努力をし、そのスタートラインに立ってみせた。
「オレは……お前に再会出来なかったら、ただの意気地なしで終わってた」
北村は黒崎との再会から7ヶ月余り、彼女の生き方、心の強さに打たれていた。その間、自らを省み続け……彼は既に自分の生き方を見出し、決意していた。
黒崎は自分を抱きしめてくれた青年を、顔を上げ見やった。そこには彼女の心を受け止め続けてくれた、かけがいの無い人の、誠実さに満ちた視線がある。
「ううん、違う。俊一が意気地なしなんて、そんな事、無い。俊一は、いつでも私を家族として愛してくれた。私の心は……俊一と会えなかった6年間も、ずっと、ずっと、あなたに支えられてたんだ」
心に穢れの無い女性、それはまさに黒崎美月という女性を指しての言葉ではないだろうか。北村には彼女の存在はまぶしいものであり、同時に自分の半身として欠かせない存在であった。互いの身体を重ね合わせて愛し合ったあの晩、いや、それ以前から彼女は彼にとっても最早無くてはならないものとなっていた。
「オレも、美月に支えられてる」
北村を見上げる黒崎から、さらに数条の涙。彼らにそれ以上の言葉は必要なかった。ただ、互いの唇を求める事だけが、必要と感じられた行為だった。
互いの抱擁を解いたとき、黒崎は目じりの涙を払うと、笑顔になった。
「ふふ、これで会社に退職届を出さないとね。25歳で大学生かー。周りから見たらオバサンだね」
「大学生から見たら、美月は憧れの的だろ」
純真な心に、透き通るような肌、男なら思わず視界に入れてしまう豊かな胸といい、高校上がりの大学生にとっては、これほど魅力的な大人の同窓生もいないだろう。
「ん? 俊一、もしかしてー?」
黒崎がいつものように闊達で、そして小悪魔的な笑みを浮かべ、首を傾げる。
「私が他の若い男の子に取られるって思ってる?」
「ば、バカ言え!」
慌てる素振りの北村に、一層黒崎の笑みに拍車がかかる。こういう時、いつでも黒崎は北村の上を行って、彼を翻弄するのだ。
「ふふ、大丈夫。俊一より魅力的な男なんて、この世にいるわけないもの」
北村は翻弄された事によるものか、気恥ずかしさからか、思わず黒崎から視線を外してしまった。黒崎は回りこんで北村の視線と合わせようとする。
「それよりも、俊一よ。私が大学に行ってる間に、他の女とできたりしないでよね」
黒崎が北村の頬にキスをする。
「それこそバカ言うな。お前以外にオレと付き合うなんて奇特な女がいるわけないだろ」
「浮気なんてしたら、承知しないぞ。私の初めてを奪ったんだから、責任とってもらわないとね」
言われて北村は頬が上気するのを感じた。クリスマスの日の出来事。いや、それから何度か重ね合わせた互いの身体。だが、その事を思い返すと、なんとも言えない思いがこみ上げてしまう。これは北村自身の未成熟さゆえというより、彼自身の誠実さゆえのもので、非難されるものでもないだろう。
「ふふ、でも、本当にありがとう。私、絶対に坂本先生みたいな人になってみせる。ううん、そうじゃなくても、私なりに沢山の子供達に言ってあげるんだ。『当たり前だ、家族なんだから』って」
黒崎が言った言葉、施設の子供達、大人から見捨てられた血の繋がりの無い全員に、かつて北村が何度も言い続けた言葉だ。「当たり前だ、家族なんだから」と。
本当の家族を夢見て傷ついた彼らに、北村が何度もかけ続けた言葉。そして、その北村自身も欲して止まなかった家族という存在。黒崎は、それを目標にここまでたどり着いた。
「ああ、美月ならなれる。なれないわけがない」
北村は黒崎にそう言いながら、既に自身の決意をそろそろ彼女にも周囲にも伝えようと考えていた。
【第13話(最終話)へ続く】
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