【おかえりなさい】 - 第11話 -
←第10話へ戻る      小説〜ストーリー一覧へ戻る      第12話へ進む→
おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第11話


「俊一に、私と来て欲しいところがあるんだ」
 そう北村が黒崎から言われたのは、年が明けてからの事。センター試験終了の日に黒崎から受けた電話でである。
「センター試験? ふふ、結構好感触だったよ」
 その声は弾んでいて、実際にそうだったのだろうと北村も確信している。あれだけ努力をしてきた彼女が、報われない事などない、という思いもある。
 ともあれ、センター試験の翌週土曜日、北村と黒崎の2人は、都心部から電車を乗り継ぐこと3時間余り、さらにバスを乗り継いでいた。北村にとっては、山奥の見知らぬ土地である。雪が深々と降っており、ほとんど車も人も通らないのか、道は新雪に覆われていた。
「行き先は……行ってから教えるよ」
 これほど曖昧な回答も無いだろうと思ったが、ともあれ北村は黒崎に言われるがままについて来た。
 雪の降る日は音が無い。静まり返っている。山奥の寒村では余計にそうである。バスを降り、北村の前を歩いている黒崎は、この寒村に入ってから一言も発していない。北村も、声のかけづらさを感じて、特に何かを話そうとはしなかった。
 歩いてしばらく経つ内に、山の奥へと階段が続いているのが見えた。この日、誰も利用していないのだろう。この階段には足跡一つ無い雪が積もっていた。山の上まで、一歩一歩を慎重に踏みしめながら歩く。黒崎のその歩みは、雪道を警戒しての慎重さではなく、何かを決意しながら歩き出しているようにも見えた。
 階段が途切れると、右手側に水道がある。凍結防止用の小型機器が導管に接続されている。その脇には数個の桶とひしゃくが置かれていた。
 黒崎は雪をのけると、桶に水を汲んでひしゃくを手に歩み始めた。その先には、雪で白く覆われた無数のオブジェが並んでいた。
「お墓」
 北村は思わず口にした。雪でひっそり静まり返った、山中の墓地。雪の明るさが照り返すような中で、入口から最も奥まった所、低木が影を作って、ひっそりとたたずんでいる小さな墓石があった。
 その墓石の前に立った黒崎は桶を置くと、墓石に覆いかぶさっている雪を払う。そして、コートの中から煙草を取り出した。
「…………ふう」
 黒崎の癖だ。何かを考えたり、何かを話そうとするとき、彼女は煙を吹き付けるように吐き出すのだ。煙が、墓石に当たり、霧散する。
 数回それを繰り返すと、ひしゃくに水をすくって、墓石にかける。そうしてまた、煙草の煙を吹きつけた。
 墓石にはこう書いてある。
『黒崎家』
 いつもよりも長い時間、雪の降る中、煙草を吸い続ける。何度も何度も、墓石の前で煙が霧散している。まるで、何かと対話をしているように。それが短くなり、限界点近くまで吸い続けて、携帯灰皿に押し付けて消した。
「ここさ、お墓なんだ」
 黒崎は後ろに立つ北村に振り返ってそう言った。表情は、どこか遠い目をしているようだ。
「紹介するよ。私の、両親」
 黒崎が顔だけ墓石に向ける。両親だと紹介したそれは、何も語ることはない。
「5年前にね、交通事故だったんだって」
 黒崎の両親。北村は知っている。その存在が、黒崎美月という女性にとってどういうものであったのか、知っている。彼にとっては、それだけ許しがたい存在であることも自覚している。
 幼い頃の彼女に虐待を繰り返した両親。虐待の末に、黒崎の右目の視力を永遠に失わせた大人たち。
 児童養護施設「おひさま園」に入った中学生当時の黒崎、彼女の人間不信を作り出した無責任な父親と母親。
 最後まで「家族」を欲しがっていた彼女の期待を裏切り続けた人間達が、その石の下に眠っているのだ。
 25歳になった黒崎は、しばらくの間、その墓石を黙って見つめていた。睨みつけるでもなく、悲しむでもなく、言いようのない表情で。
「夫婦一緒に逝けたんだから、それなりに良い人生だったんじゃないかな」
 再度、北村に向き直った黒崎、浮かんでいたのは微笑である。皮肉とか怒りの裏返しとか、そういうものを全く含んでいない、純粋な笑みである。
 北村は黒崎の表情に、どう返すべきか、言葉も表情も作り方に悩んだ挙句、結局無言で立ったままである。
「俊一、怒ってるの?」
 北村の両頬を、黒崎の手が包み込むように覆った。冷たいが、温かい、そういう手だ。
「もう昔の話だよ、俊一」
 その言葉を北村は一度聞いている。昨年10月、北村の誕生日に彼女の口から出たものだ。
 黒崎の右目失明の事実が発覚し、それが過去の両親の虐待に起因していた事で、彼が義憤に駆られた時の事である。その時と唯一異なるのは、彼に対する第二人称が「兄さん」から「俊一」となった事である。
「俊一、私と出会えて……幸せ?」
 黒崎の視線が、北村の目を下から覗き込む。北村はうなづいた。
「幸せ」
 その答えに黒崎は満足そうに首を縦に振って、穏やかな笑みを浮かべた。
「私も幸せ」
 北村は黒崎の右頬を撫でた。彼女の視野はもうそこには永遠に及ぶことは無い。黒崎は左目でウインクをした。
「右半分が見えないだけだよ。おかげで、俊一と私は出会えたんだよ」
 黒崎の声は嬉しさで弾んでいるようにも感じる。しかし、北村は瞳を閉じて硬い表情だ。
「俊一が怒る事は何も無いんだよ。私は、俊一に出会えたこと、俊一が教えてくれたこと、もうそれだけでこぼれ落ちそうな程、幸せで一杯なんだ」
 まだ瞳を閉じたままの北村。彼の唇に温かい感触がした。目を開けると、黒崎の唇が重なっている。
 黒崎は重ねていた唇を離すと、思い出すように言葉を出した。
「俊一、10年前に言ってくれたよね。『居場所が無かったら、作ればいいだろ』ってさ」
 黒崎は北村の両頬から手を離して、後ろ手に組み、首を小さく傾げた。視線は変わらず、北村を覗き込むようである。
「それが私の目標になったんだ。だから、今の私がいるんだ」
 黒崎は再び墓石の方へと向き直った。そして、頭を下げて一礼した。雪の静寂が辺りを包み込む。
 重みに耐えかねた枝から、雪が落ちる音がした。
「オレは……やっぱり許せない」
 北村は墓石の下に眠る大人たちに向けて、明確な言葉を紡いだ。黒崎は下げていた頭を上げて、少しだけ墓石を黙って見ていたかと思うと、振り返っていきなり、北村に抱きついた。
「そういうところも含めて、俊一の事が好きだよ。あなたの真っ直ぐなところが、私は、本当に大好き」
 北村は黒崎の背中に手を回して抱きしめた。彼女は北村の胸に頭を押し付けた。
「今日は報告に来たんだよ」
 ぽつりと黒崎が漏らした。顔を上げて、また彼を見上げる。
「お父さんとお母さんに。私の家族になってくれる人がいるって、伝えてあげたかったんだ。私にはもったいないくらいの人だけど」
「美月」
「それだけじゃなくて、数年後には大きな家族のお母さんにもなれそうだって、それも伝えたくて。見守っててねって伝えたかったんだ」
 人はどれほどの苦悩の上に、これほどの純粋な気持ちを得ることが出来るのだろう。北村は友人の言葉を思い出した。
「奈々子は太陽のように温かくてカワイイ。黒崎は逆に月の様に美しくなってる」
 彼の一番の親友である、広瀬孝太の言葉だ。北村は思う。これほど暗い世界にありながら、まぶしいほどの心の輝きを持つ女性。これが月でないとすれば何であろうと。そしてさらに思う。これほど温かい心の持ち主が、太陽でなくて何であろうとも。
「お父さんとお母さんがいたから、私はここにいる。俊一と出会えた。人生の目標を見つけられた。私は出会えた人、全員に感謝したいんだ」
 北村は以前もそうであったが、彼が父とすら思って尊敬している、坂本神父の言葉をまたも思い出した。
「彼女は本当は親も親戚も憎んでなんていなかった」
 不良少女だった時から、彼女はこうだったのだ。その感情を表現し行動する方法を、10年前は知らなかっただけだった。
 黒崎は北村から離れると、背を伸ばして彼の頭にうっすらかかっている雪を払った。そうして自分にかかった雪も払って、今度は大きく息を吸い込んで背伸びをした。
 もう一度、墓石に向かって一礼し、頭を上げると手を左右に振った。
「お父さん、お母さん。私、もう行くね。もっと先の方へ、進んでみるよ。ありがとう」
 そう言って黒崎は、桶とひしゃくを手にとって、来た道を戻っていく。北村は少しだけその場に留まって、墓石を見ていた。
 黒崎が許した両親がそこに眠っている。黒崎と自分を引き合わせた大人たちがそこにいる。こみ上げる感情は、やはりまだ複雑なままだ。
 見ている内に、水に濡れた墓石から、湿った雪が落ちた。涙だと思うのは、あまりにロマンティスト過ぎるだろうか。
 北村は墓石に一礼すると、階段の手前で、おそらく温かな微笑を浮かべているに違いない、黒崎の後を追いかけた。

【第12話へ続く】


【おかえりなさい】 - 第11話 -
←第10話へ戻る      小説〜ストーリー一覧へ戻る      第12話へ進む→

TOPへ戻る