【おかえりなさい】 - 第9話 -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第9話


「うん。兄さんも少しは女の扱い方が上手くなったね」
 陽光の差す時間に比して、夜の深さが濃くなっていた11月上旬、街灯のともる道を歩く男女1組。緑の長い黒髪の女性から発せられた言葉に、短髪で偉丈夫の男は不満気に見える。
「こういう事を重ねると、女性のハートをゲットできるんだよ。覚えておいたほうがいいよ」
 弾むような黒崎美月の声は、それに相応しい笑みを伴っていた。
「なんか、お前にはバカにされている気がするんだよな」
 褒められた側の北村俊一としては、嘆息とともにそのような言葉が出てしまう。息はかすかに白くなり始めていた。
 彼の右腕には黒崎の左腕が絡んでおり、そうして歩いている様は、1組の初々しい恋人同士のようである。
 ただ、互いに対して……特に黒崎が彼を指しての言葉は「兄さん」であり、額縁通りに捉えるならば仲のよい兄妹である。
「園にいた頃からこうだったら、奈々子さんと今頃ゴールインしていたのは兄さんだったかもよ」
 そういう黒崎の表情は意地悪そうに見えたが、北村は不愉快には思わなかった。10年も前の思い出話であり、互いに笑って流せるだけの時間は十分に過ぎていた。
 奈々子とは北村が「おひさま園」という児童養護施設にいた時の初恋の相手であり、現在は同じ園の悪友であった広瀬孝太の妻である。
 北村と黒崎も園で多感な時期を過ごした者同士であり、この夏に6年半ぶりの再会を果たしたばかりである。
 園時代の両名は素行の悪い少女(そのような言葉で済まされる程度ではないが)を、年長者の少年が説教し続けるという奇妙な関係性を持ち続けたが、やはり月日の流れは貴重なものであるらしかった。
 成人した黒崎は、容姿の点では白皙で月を思わせる美人であり、性格の明るさは太陽のようですらある。北村は園時代の熱血漢を今も漂わせるような、肉付きのよい長身の好青年然としていた。
「奈々子さんは、オレなんか眼中に無かったよ」
「あー、ほら。自分を悪く言うのは兄さんの悪い癖」
 ただし、成人した両名が決定的に異なるのは、内面性における強さそのものだった、と北村は思っていた。
 黒崎は幼き時代の凄惨な虐待経験を乗り越え、今また過去の虐待に起因する右目の視力喪失を経験している。それすらも受け入れる強い人間性を持ちえた。
 北村は人生の目標を、茫漠たる砂漠にオアシスを求めるがごとく、さまよい流されており、日々の生活に不満を持ちつつも、半ば思考停止状態である自分自身にふがいなさを感じていた。
「ま、でも。女の子の誕生日を覚えているのは大事なことだね。うんうん」
 黒崎は北村が街角の小さなレストランで、ささやかな誕生日祝いをしてくれたことを、心から喜んでいる様子だった。3000円のバースデーコースだが、人の心を動かすのは金額ではなく、行動に伴った心なのは間違いないようだ。
「お前の誕生日は忘れるわけねえだろ」
「家族なんだからな、当たり前だ! でしょ?」
 黒崎に機先を制された北村は、口先まで出かかかっていた言葉を飲み込んで閉口せざるを得ない。彼の園時代からの使い古された言葉であり、同時に青臭いが、黒崎には心から響きよく感じられるようであった。
 家族……平凡だがなんと素敵な言葉であることか。
 彼らに共通する思いはそこにあったのかもしれない。北村は園時代から周囲の少年少女にも同じ言葉を発し続けていた。彼らが成人する以前に、捨てられた、あるいは捨てざるを得なかった言葉であるのに。
「でも、いいのかな」
「何が?」
「いや、お前の部屋にオレなんかが入って」
 彼らが向かっているのは、黒崎のアパートである。それはもうすぐ先に見えてきていた。
「お前もオレも独身だし」
 空いている左手で思わず首筋をかいてしまう北村。そのような彼の様子を見て黒崎は、彼の表情をのぞきこむ。目が合うと、ことさら作って意地悪そうな笑みになる。
「あら、兄さん。私を女って認識してるの?」
 言われると北村は言葉に詰まってしまう。月を思わせる美女と同室することで、何も感じない成人男性などいないのは当然であろう。ましてや彼ら同士は兄妹と呼び合っていても、実際には何らの血縁関係もないのだから。
「そんな事言ったら、先月の兄さんの誕生日に、私だって兄さんの部屋に行ったじゃない」
「いや、それはそうなんだが」
 一息吐いて、北村は星空を見上げた。
 少年少女時代の彼らは、精神面でも行動面でも、少なくとも表に出る分には北村の方が年長者の功があったように思えたが、今ではそれも逆転しているようであった。
「ふふ、兄さんならいいよ」
「何が?」
 北村が視線を落とした先で、少しきつい感じに見える目つきのそれと再び交錯した。黒崎が北村と組んでいる腕にさらに力を加えてくる。
「私の事、襲っても。私、絶対に抵抗しないから」
「お、おい」
 北村が慌てるそぶりを見せると、黒崎はそれを楽しむかのように悪戯が成功した子供のような声で笑った。
「冗談よ。兄さんにも女を選ぶ権利はあるもんね」
 黒崎がどれほど意識をしてそれらの言葉を出したのか、北村には分からない。しかし、彼の方としては黒崎をますます女と意識せずにはいられない。自分の事を「兄さん」と呼ぶ彼女だが、互いをそう意識する以上のところへ、この先も思いが飛ばないとは彼には確信が出来なかった。
「ま、上がって上がって。何も無い部屋だけどさ」
 そう言って招かれた黒崎の部屋は、おおよそ20代半ばのOLの部屋としては水準レベルである、そのように北村には思えた。むろん、彼はそうした女性の部屋に入るのは初めてであり、あくまで想像の域を超えないものではあったが。
 都会の隅にある1DKのささやかな空間。食器類は綺麗に棚に収められ、小さなテレビと本棚、座卓の他に、幾つかの可愛らしい小物が置いてある。カーテンレールに目を移して、思わず北村は目をそむけてしまった。彼にとってわずかに幸福で、わずかに不運なのは、黒崎は相手のわずかな行動にも気が付くというところだろう。
「あ、ゴメン。下着、部屋干ししたままだった」
 手早くそれを取り込み、たたんで収納ボックスに入れた黒崎は、手招きして北村にクッションを手渡し、座るよう勧めた。
「ふふ、兄さんよかったね。眼福ってやつでしょ?」
「い、いやその」
 再会して半年あまり。黒崎に会うたびに、北村は彼女の手のひらの上で思うままに動かされているように感じた。むろん、それが不快に感じた事はないのだが。
「ねえ、兄さん。知りたい? 知りたいでしょ?」
「何を?」
 猫が蝶を追い回す様をファンシーにプリントされたコーヒーカップを受け取った北村が、一口つけると、黒崎が問いかけてきた。
「さっきの下着。何カップか知りたい?」
 北村は口に含んだコーヒーを思わず噴き出しかけた。やはりその様子を対面で見ている黒崎は笑いかけている。
 この場合、興味が無いという成人男性はおおよそ健全であれば皆無だろうが、それをことさら聞くことも普通はないだろう。まったく、たちの悪い悪戯である。
「教えてあげるよ」
 黒崎は口には笑みを浮かべ、目は真っ直ぐ北村を見つめている。これほど男にとって意地悪な事もあるまい。教えて欲しいと言えば軽薄と笑われるだろうし、知りたくないと言えば不健全とそれはそれで笑われるだろう。
 北村がイエスともノーとも回答に詰まって、コーヒーをもう一口流し込む。回答の保留が最善の策と考えたのだ。すると、彼の予想を超えた行動で黒崎は動いた。
 座卓の向こうから身を乗り出すようにして、彼の眼前でささやくように口を開いたのだ。
「G。Gカップ」
 北村は完全に困惑した様子で、黒崎が身を乗り出した分、上半身をのけぞらせて後ろに引いた。黒崎にとって、眼前の男は反応を見るのによほど飽きない対象らしい。施設時代に、散々説教をたれてきた男へのささやかな仕返しですらあるようだ。
「よかったね、兄さん」
 乗り出した身体を黒崎が戻すと、表面だけは平静を装って北村も元の姿勢に戻った。
「何がよかったんだ?」
 北村の問いかけに、黒崎はきょとんとした面持ちになって、また直後には首を傾げて彼を見遣った。
「私のおっぱいが大きくて。兄さんとしては嬉しいでしょ?」
 嬉しい嬉しくないは、問われた男性の好みにもよるのではないだろうか。ただその点、大きいか小さいかという事に関しては、北村は胸の大きい女性が身体的に好みであったことは事実だったので、否定は出来ない。
 北村の平静さが表面上のものであることは、洞察力のある黒崎にはとうに見透かされており、彼女はさらに言葉を続けることで、彼の態度を楽しもうとしていた。それこそ、自分自身を楽しませることが、最上の誕生日プレゼントだと言わんばかりだ。
「あれ、嬉しくない? これから兄さんがそこの布団に押し倒す女の子の胸が大きいのに?」
 黒崎の言葉に、思わず彼女の胸と布団とを交互に見遣ってしまった北村としては、赤面せざるを得なかった。
「おい、バカな事を言うな。そ、そういうつもりは」
「女の子が男を部屋に上げたら、私の中ではそうされても文句が言えないって事なんだけど?」
 北村としては「おひさま園」時代の「家族」としての「妹」が、どこまでを真意として言っているのか判断が付きかねて、またもコーヒーを口へと運んだ。
「私は兄さんになら、いつだって襲われてもいいと思ってるんだけどなあ。押し倒してくれたら嬉しいのに」
 半ば北村に、もう半ばは自分自身に言い聞かせるような黒崎の態度。北村とて、そういう言葉を続けて聞かされていれば、男としての欲求の方が理性を食いつぶしそうな感覚になってしまう。
 彼がそのような行動に出なかったのは、一つには黒崎の真意がつかみきれていないこと、もう一つには園時代の「兄妹」という関係が抑制をかけていたこと、最後には彼自身が誠実に過ぎたことである。
 その後、いくつかの冗談めいた話が交わされ終わると、黒崎はそれぞれのカップにコーヒーを再度注いで、先ほどまでの表情を切り替えた。
「兄さん、夏に私が言った事、覚えてる?」
「ああ」
 北村は即答した。それは「兄さんには……絶対話すから。絶対」と言っていた、黒崎の考えている何かである。
 北村は思わずつばを飲み込んだ。緊張によるものだ。
 黒崎がつい先日まで隠していた右目失明の事実、これを上回るような何かとは何か。
 北村は先日来、色々考えてはいた。
 それは、黒崎は暗い過去を持ちながらそれを克服し、現状の困難にも強い意志力で立ち向かえる自立した個人であること。社会人としての生活をかなぐり捨てても、信じた道に進める強い女性であるに違いない事。
 逆説的に北村は、自分自身を目標も無く流される、よく言えば凡庸な、悪く言えば確立されていない人間であること。その自覚を強く持つことになった。
 自分は何がしたいんだ、その思いが黒崎との再会後に、ますます強くなっている。
 その黒崎が、今まで秘密にしていた何を伝えてくれるというのだろうか。
 黒崎は左手側の小さな本棚を覆っていたほこり避けの布をめくり、その中から、白い表紙に青字でタイトルの刻印された分厚い本を取り出して、座卓に置いた。北村は、その本を10年ほど前に友人から見せられた事がある。
「受けるのか?」
 ただ一言、北村は聞いた。黒崎は黙ってうなづいた。
 その本にはこう書かれている。「大学入試センター試験過去問題集」と。
 黒崎は、少し呼吸を整えたいのか、間を取りたいのか、座卓脇から煙草を取り出して火をつけた。
「園にいた時には、受けられなかったからね」
 黒崎は、高校卒業で社会に出て6年目になる。なお、北村は短大を出ており、黒崎同様、社会人6年目である。
 児童養護施設にいた人間は、そうではない子供たちに比べて社会に出る選択肢は非常に限られていた。4年制大学にいける割合は3パーセント前後であり、短大まで含めても14パーセント程度である。その多くは中卒・高卒のまま社会人となることが多い。
 これは、親の庇護が受けられないケースが多いことや、園には大学進学を支援するだけの財政的余裕がない事も挙げられる。
「数学とか古典とか、独学で勉強するのって大変だね」
 黒崎は舌を出して笑って見せた。主要5教科を、OLとしての仕事終了後、毎晩勉強することが、どれほど大変なことか、北村には分かるつもりである。
「さすがになかなか覚えられなくてさ、3年くらい前から、時間を作っては勉強してたんだ」
「そうか」
「もう、兄さんったら。また子供扱いして」
 北村は思わず伸ばした手で、黒崎の頭を撫でていた。そうされた方は、口にした言葉とは異なり、態度は非難めいていなかった。
「6年も働いてきたし、少しはお金もたまったから。大学に行けるかなって思ってね。今年、受けてみるんだ」
 黒崎は今日で25回目の誕生日を迎えていた。
「4年制大学でね。教育学部に行きたいんだ」
「学校の先生になりたいのか?」
 北村の知識では、教育学部とは学校の教員養成以外の道には考えが及ばない。黒崎は首を横に振った。
「違うのか? だったら……」
 北村はその先の言葉を飲み込んだ。黒崎も北村が言わんとするところは理解している。教員にならないなら、何のために教育学部に行くんだという事である。ましてや社会人の黒崎である。大学に行くという事は、今の仕事を辞めるという事である。
 現在の底の見えない日本の不況において、正社員の道を捨てるというのは、93パーセントの人間には愚かしく映るかもしれない。
 北村は黒崎の事を愚かしいなどと、毛の先ほども考えてはいなかったが、ならば何のために大学に行くというのか。何のために社会人としての地位を捨てるというのか。
「兄さん。知ってる? 坂本先生って大学出てるんだ」
 突然、黒崎が話題を転換したので、一瞬思考がついてこなかった北村だが、すぐに温厚で柔和な顔立ちの老人が視界に浮かんできた。「おひさま園」で誰からも慕われている神父のことである。
「児童指導員ってね、なろうと思ったらさ、大学で福祉・社会・教育・心理のいずれかに関する学部・学科を卒業する必要があるんだって。調べたらそうだったんだ」
 黒崎は煙を天井に向けて吐き出した。10年も前から煙草を手放せないその仕草は、もはや自然に馴染んだ動作に見える。
「小学・中学・高校、どれでもいいけど教員免許も必要みたい。坂本先生も、思えば先生って呼ばれてるよね」
 黒崎はくすっと笑って見せた。半ば自嘲気味なのは、かつて不良少女だった彼女は、あの温和な紳士を園時代に先生と呼んだことがついぞ無かったからかもしれない。
「その上で、児童福祉施設とかに児童指導員として採用されて、初めて児童指導員になれるんだって」
 黒崎は煙草の煙を再度吐き出すと、灰皿に押し付けて火を消した。座卓に置かれた北村の手に、黒崎はそっと自分の手を重ね合わせた。
「黒崎、お前」
 北村は黒崎を真っ直ぐに見つめていた。彼女も真っ直ぐに視線を返している。
「全部、兄さんのおかげなんだ。ありがとう」
 北村の視線の先、黒崎は晴れ晴れとした笑顔だった。冬の寒空に、人々が求めたくなる燦々とした陽光そのものだった。
 北村には、その陽光は少しまぶしすぎた。しかし、まぶしいくらいの光だから、霧の中をぼんやりと過ごしていた彼に、進むべき何かを照らしてくれているようにも思えた。だから、彼は言った。
「違うよ」
 北村は黒崎の手を握り締めた。
「オレの方が、ありがとう、ってお前に言いたい」
 言われた黒崎は首を横に振ったが、北村は真剣そのものだ。先刻までと異なり、今度は黒崎が頬を少し赤らめていた。照れているのか、そのような表情の黒崎も、北村には大事でいとしいものに思える。
「兄さん。私ね、ずっと思ってたことがあるの。その……10年前は、ホントにごめんね」
「いまさら謝るなって。……家族なんだから」
 この時、北村は家族という言葉に、今までとは異なるニュアンスを乗せていたが、それをまだ自覚してはいないようであった。明察な黒崎がその事に気が付かないわけがなかったが、彼女は眼前の純粋な青年の気持ちを推し量って、その事には触れなかった。触れないようにして、あえて同じフレーズで別のニュアンスもこめながら言葉に乗せた。
「あとね、私、ずっと家族が欲しいって思っていたの」
 北村はうなづき返した。夏、園の手伝いに行った北村に、坂本が言ったその言葉通りである。つまり、坂本に言わせれば「彼女は本当に心の底から家族を欲しがっていたんだ」という事である。
「だから、私……園を出てからずっと目標にしていたんだ。照れちゃうけどね、坂本先生みたいな人になりたいんだ」
 黒崎は自分で言うように照れている様子だった。園にいた頃、今は目標だという老人に対し、「うるせーな、坂本!」と反発ばかりしていた少女は、その心核は素直で純粋な人だったのだ。
「大学、受かるかも分からないけどさ。でも、私ね、兄さん、その……児童指導員になろうと思ってるの。私なんかが、おこがましいかもしれないけど……坂本先生とか河原先生みたいに……みんなのお母さんになれたらいいなって、本気で思ってるんだ」
 黒崎は、北村に自分の思いをほぼ過不足無く伝えきったようだ。一旦視線を落として、次に上げたときはすっきりした表情になっていた。
 この時、北村は、全てを打ち明けてくれた眼前の女性への対応を間違えなかった。
「…………」
「…………ありがとう、兄さん」
 互いに重ねられた唇。重ねられた時間はわずかなものだったが、当事者には十分な時間だった。
それが離れると、黒崎は最大の理解者の存在を認めて、目じりにうっすらと涙を浮かべ、喜びの乗った感謝の声を発したのである。

【第10話へ続く】


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