【おかえりなさい】 - 第10話 -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第10話


「メリークリスマース!」
 赤いコーン帽を被った黒崎が、その日の夜、日本各所で多くの人が口にしているだろう言葉と共に、クラッカーの紐を引いた。軽快な音と共に紙テープが部屋に舞う。
「さ、兄さん。ケーキ食べよう。冷めない内にね」
「ケーキは冷めないだろ」
 黒崎の透き通るような白い手がナイフでもって、4号サイズのホールケーキを切り分ける。
 一人暮らしの女性の部屋に、若い男女が2人きりのクリスマス。通常ならば恋人同士と言っていい関係性が相応しいだろう。
 しかし、北村俊一と黒崎美月の2人は、多感な時期を過ごすこととなった、「おひさま園」での大きな家族における血の繋がらない兄妹という関係性を持っており、その関係が完全に変質したわけでは無かった。
 ただしこの時点で、彼ら両名は兄妹という点では、かなり微妙な関係になりつつあった。6年半ぶりの再会、大人になってからの2人が会う度に互いを認めて、信頼を置き始め、半年も経つ内に、その心情は変わり始めていた。
 黒崎は北村に自身の夢を語り、北村も黒崎の夢に打たれて、日常に流されるままだった自分を変えようと思い始めていた。
「兄さん。シャンパンの栓、固くて抜けないよー」
「どれ、貸してみろ」
 黒崎からシャンパンを受け取った北村。ケーキ同様にシャンパンも近所のスーパーで選ばれたものだが、金銭の多寡ではなく気持ちを大事にする空間が、何よりも重要であることは2人の共有するところであった。渡した側も受け取った側も、表情には笑顔が溢れている。
「わっ、兄さん、開ける前に声をかけてよ」
「たまにはオレからも驚かせてやらないとな」
 シャンパンの栓が抜けて、ビンに凝縮されていた炭酸ガスが弾ける音が部屋に響く。その音に、思わず黒崎が目を見開いて驚いた様子だ。ただし、彼女の右目はその視力をほぼ完全に失っていた。
 幼い頃、互いに経験する事の無かった、小さな空間でのささやかなクリスマス。北村は幼い日に両親を失い、黒崎は日々の虐待の中にあって経験する事の無かった、どこにでもある日常の光景。
 日常の光景……とは、どれほど値千金の言葉であることか。それを夢見て、夢だった人にとっては。
「2人きりでのクリスマスなんて初めて」
 座卓に頬づえついて、声を弾ませる黒崎。北村は黙って、しかし口の端に笑みを乗せて、それぞれのグラスにシャンパンを注ぐ。グラスに炭酸が弾ける音が上がる。
 彼らがクリスマスを経験した事が無いわけではない。「おひさま園」にいた頃には、20名ほどの子供たちと、坂本神父、河原シスターらと静かで穏やかな祝宴が毎年行われていた。
 その頃の北村は、互いに血の繋がらない、しかも様々な境遇から施設に入ることになった子供たちを、「家族なんだから!」とリーダー格のように振舞ってまとめていた。
 彼が家族という言葉をあまりに使うため、同じ園で同学年だった広瀬孝太からは、
「お前に言わせたら、人類みな家族になっちまうな」
 と、皮肉交じりだが好意的な軽口を叩かれたこともある。
 結局のところ北村は、本当の家族がいないだけに、家族を心底欲しがっていたのかもしれない。子供の心理はどれだけ強気に振舞っていても、繊細なものである。
 その頃の黒崎はと言えば、親からは裏切られ、親戚には冷たくあしらわれたためか、人を拒絶する態度を常日頃示しており、園の中では浮いた存在だった。煙草を吸う、補導されて交番へと坂本が足を運ぶことは数知れず。クリスマスの時にも渋々席についているという感じだった。
「ふふ」
 グラスを傾けた黒崎が、目を細めて小さく笑った。北村が首を傾げると、黒崎は数瞬天井を見上げてから、彼に向き直って、再度笑った。
「ちょっとね、思い出してたの」
「何を?」
「園にいた頃のクリスマス。覚えてる? 私が初めて園に来た年のクリスマス」
 黒崎の言葉に、ちょうど10年前の同じ日を思い返す北村。北村の視界には、大きな食堂に並べられたささやかな食事と、それを囲む子供たち、穏やかな表情で子供達に声をかける坂本、それと……
「私には関係ねえって言ってるだろ! 離せよ、テメエ」
「関係無いわけねえだろ。ここにいる全員が家族なんだって、毎回言わせるんじゃねえ」
「アンタ何様のつもりなのさ! ほっとけよ。私がいたって誰も良い気分になるわけじゃねえだろ!」
 食堂へと、北村に無理やり手を引かれながら連れて来られた黒崎。黒崎が北村にいつものように反発する、その頃の見慣れた光景だ。それが昨日のように浮かんでくる。北村はセピア色になり始めた当時の時間をさらに進めてみた。
「アンタには居場所があるかもしれないけど、私には無いって言ってるだろ! 1人にしておけよ。構うなよ。アンタはいつだって……」
 黒崎が言葉を続けようとした矢先に、乾いた音が1つ食堂に響いた。黒崎は起きたことを理解できないのか、呆然とした表情のまま、ややあって右頬に手を当てる。その彼女の両肩をつかんで、北村が静かに言った。
「居場所が無かったら、作ればいいだろ」
 少しの間を置いて、黒崎は何かを言いかけて止めてしまった。表情は怒っているのか、泣きたいのか、複雑なものになっていた。
 そこへ温和な中年紳士然とした坂本が、2人の背中を優しく叩いて、表情に似合った包容力を感じさせる雰囲気で声をかけた。
「さあ、2人とも。みんなでケーキを食べよう」
 黒崎は坂本に対しても何かを言いかけたが、やはり言葉に詰まった様子だった。その後は憮然とした面持ちだったが、席についてケーキをつついていた。そんな光景が、ついこの前のように北村の脳裏によみがえる……。
「色々あったな、あの日は」
 当時を振り返った北村は、そう言葉を発した。短い言葉に、それ以上の重みが乗っている。眼前の女性が長髪ではなかった頃の、笑顔が冷たいものだった頃の、遠いようで近い昔の思い出だ。
 北村の右頬に、座卓の向こう側から黒崎の白皙の手が伸びてきた。軽く彼の頬を叩く音がした。叩いた側、黒崎は視界に北村を見据えながら、どこか遠くを見ているようでもあった。
「あの時は、痛かったなあ」
 そう言って、手を戻して彼女はまた小さく笑った。
「ホント、色々な意味で痛かった。でも、今思い返すと……嬉しかったな」
 北村は少し照れくさそうに、グラスの中身を飲み干した。黒崎もグラスの中身を少し口にする。
「そうだ、兄さん。見てもらえるかな。ちょっと、こっちに来てくれる?」
 黒崎が手招きして、北村は座卓の向かい側、黒崎の隣へと移った。互いの座る場所が近くなると、それぞれの息遣いが聞こえるような位置になった。
 黒崎は本棚のファイルケースから、1枚の紙を取り出して北村に見せた。紙にはグラフと数字、いくつかのアルファベットと解説が載っている。
「センター試験の模試結果。3年間頑張った甲斐があったかな」
 黒崎は、「おひさま園」の坂本のような児童指導員を目指すべく、OLとして昼間は働きながら、独学で長い時間をかけて勉強を続けていた。その夢は再会した北村に、つい先月知らされたばかりである。
 社会人が夢を追って、安定した仕事を捨てて大学に入り、何かを目指す……今の日本社会では多くの人に愚かしい行為と映ってしまうかもしれない。北村が踏み越える事の出来なかったそれを、かつて不良少女だった黒崎は、飛び越えようとしている。
「主要5教科の平均点数が8割以上って、お前、ホントに頑張ったよな」
 自然と北村の手が黒崎の頭に伸びた。25歳の女性が、夜の限られた時間、しかも勤務後の疲れた身体で、現役の高校生や、予備校通いの浪人生達と競い合っているのだ。
「まだ本番の試験じゃないし、二次試験もあるけどね。夢には一歩、近づけたかな」
「後、2週間後か。センター試験」
「うん。ちょっと、どきどきするね」
 言って黒崎は、胸に両手を添えた。
「ホント、ありがとうね、兄さん」
「何がだ?」
「うん。ホント、だから……色々だよ」
 黒崎の返事は言葉としては曖昧だが、北村にはそれで十分にも思えた。
「夢がかなえば……私も、家族が持てるかもしれない」
 黒崎はそう言って、微笑んだ。
 小さい頃に本当の家族に裏切られた彼女。思春期に施設で全てを拒絶していた彼女。大人になってみれば、そうした施設での大きな家族の母親になる事を夢見ている眼前の女性。人は思いを届かせようとすればするほど、純粋なものになるのかもしれない。
 北村には黒崎は……この女性は、「家族」と言って「兄妹」としてきた関係性を、もう踏み越えた先の人となっていた。
 仮に黒崎や坂本が言ったように、施設時代の黒崎の心を開かせたのが北村だとするなら、成人後の彼の展望を開かせたのは、まさに彼女だった。北村は、今の生活のためだけに日々流される自分を、明確に変えようと既に決意していた。
 そうした女性が、たんなる「兄妹」などという存在で納まるはずは、もう無くなっていた。
「お前なら、夢じゃない。夢じゃないよ」
「兄さんに言ってもらえると、心強いな」
 いつの間にか、黒崎を見つめる北村の視線は真摯なものになっていて、黒崎の北村への眼差しも自然とそうなっていた。
 そこから、互いに交わす言葉が途切れた。ただ、互いを見つめる視線はそのまま。そうする内に、お互いの胸の高鳴りが、その鼓動が聞こえるように感じられてきた。
 本棚の上に置かれた時計の秒針が進み、やがて分針が進む。今までに2人が感じたことの無い沈黙と時間が経過していた。
「…………」
「…………」
 どちらから動いたのか、ほぼ同時に動いたのか、お互い分からなかったが、2人の唇が重なり合っていた。
 北村の体重がやや黒崎の側に移り、そうされた黒崎の側はその動きに抗うことも無く、カーペットに押し倒される。自然と北村が黒崎に覆いかぶさるような体勢に移った。
「…………」
 2人の間に、また沈黙が訪れる。今度は黒崎の上から北村の視線が彼女のそれと交差する。また2人は唇を重ね合わせた。それも、今度はかなり深く、長く、互いの息遣いが荒くなるほどに絡み合うキスを交わした。
「はあ、はあ……兄さん」
 唇が離れたとき、黒崎の頬は上気して赤みを帯びていた。北村もそのようになっていた。
「あっ…………」
 2人の唇がまた互いを求め合う。今度は北村の手が彼女の服の下に強引に入れられる。そうして衣服の上からでも分かる程の黒崎の豊かな胸を、荒々しくもみ始めた。
「黒崎…………」
「兄さん……っ」
 そのような行為を重ねている内に、北村のもう一方の手は黒崎のスカートの中に伸ばされ、彼女の秘部を、これも本能に任せるように愛撫し始めた。
 そのような間も、互いの唇を激しく求める行為は止むことが無く、行為を重ねている内に、次第に黒崎の上着が、スカートが、北村のシャツにズボンが彼らの脇に置かれ始めた。
「に、兄さん…………」
 黒崎が荒い息遣いの中、彼に恥ずかしさで上ずるようになった声をかけた。
「私……は、初めてなの。男の人と、キスもその……こういう事も」
 普段は快活な黒崎の声が、消え入りそうな程に小さいものになっている。北村は今一度唇を重ねてから、こう言った。
「オレも初めて。というか、オレだってキスも何も、お前以外とは」
 北村の言葉も、恥ずかしさが混じっているのか上ずって聞こえる。
 また少し沈黙が降りたと思えば、先ほどまでよりも激しく、互いの身体を求め始めた。黒崎の声が何度も上がる。いつしか、互いを覆っている物は無くなっていた。
「黒崎……」
「うん、いいよ。兄さん。ただ……1つだけお願いしていいかな」
 北村と黒崎が、互いの欠けた部分を初めて繋ぎ合わせようとするその時、黒崎の瞳は少し潤んでいた。
「黒崎……って呼ばないで。もう、名前で呼んで。ずっと……そうして欲しかった」
 哀願するように言葉を紡いだ黒崎。
「美月」
「…………俊一」
 互いの名前を呼び合った、それが最初の時だった。
 それぞれの思いが行為となって交差したこの時になって、北村から彼の人格の根幹である誠実さが、にわかに躍り出てきた。
「美月、オレ、初めてで、その……ゴムとか持ってない」
 言われた黒崎は、目を瞬かせたが、すぐに笑顔で返した。雰囲気のまま雪崩れ込む行為の中に、誠実さを失わない彼の姿は、黒崎にはたまらなく、愛しくて嬉しいものだった。
「いいよ。俊一なら。俊一との子供なら、私、欲しい」
 黒崎は少し姿勢を浮かせて、北村と唇を重ね合わせた。それが合図かのように、互いの身体を繋ぎ合わせる。微かに黒崎の身体の中に抵抗感を感じた後、北村は繋ぎ合わせた身体を激しく動かし続けた。黒崎も全身で北村を求め続けた。やがて互いの身体の内から言い知れないものがこみ上げ、北村は黒崎の中にそれらを放出し、黒崎は北村の腰に足を絡ませ、余韻に浸りながら、それを受け止め続けた。
 時計の分針が180度も回らない内に、互いの初体験が終わり、生まれた時の姿で抱き合ったまま、黒崎は嬉しそうに北村の横顔を見つめていた。
「ありがとう。俊一」
 黒崎が北村の頬に、軽く口づけした。北村も、「兄妹」の一線を越えた、大事な女性に口づけを返した。
 2人の関係には、互いの信頼関係などという枠組みを超えた、愛情が育まれていて、この夜はそれを証明する記念すべきものとなった。

【第11話へ続く】


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